忍者ブログ
2024 04
≪ 2024 03 1 2 3 4 5 67 8 9 10 11 12 1314 15 16 17 18 19 2021 22 23 24 25 26 2728 29 30 2024 05 ≫
*admin*entry*file*plugin| 文字サイズ  

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



寿都町4    

  寿都は、かつての鰊に変わり
「生炊きしらす」(生のコウナゴを炊いて佃煮にした、
100年続く寿都名産)の佃煮が知られている。

 町には8軒の加工業者がある。
味はそれぞれ工夫を凝らし、見た目も違いがわかる。
道の駅「みなとま~れ寿都」では3パック480円で組み合わせ自由に選ぶことができる。

 しかし、漁業は沿岸の定置網ホッケ水揚げ日本一の町。
そのためホッケを食材としたグルメに挑戦している。
それが「寿都ホッケめし」これを食べられる店を3軒つくり町ぐるみで宣伝をしている。
PR


寿都町3  

 寿都町は現存する神社9、お寺が14ある。
日本海の海岸沿いには鰊とともに繁栄を極めた町が多く存在するが
寿都も明治の中期ころには人口2万人を越えていたという。
明治36年の漁獲量は11万6672石(大型トラック1万4900台)となり、
町には神社仏閣が建ち盛大な祭りで賑わったという。
鰊を運ぶために鉄道まで作られたという。

(寿都鉄道・寿都から黒松内)

寿都町2    

 北海道の地図を見ると日本海と太平洋が一番接近している場所がある。
それが噴火湾と寿都湾を結んだ地域だ。直線で結ぶと25kmほどという。
太平洋側の噴火湾から寿都湾に向けて徐々に狭まっているため、南風が
強められて吹き込んでくる。

春から秋にかけて「だし風」と地元では呼んでいる。
山側から沖に吹くので「船を出す風」という意味。


 

寿都町1
     

 寿都町(すっつ)とは、日本海にある人口4千人ほどの小さな町である。
昭和30年に1町3村が合併して新しい「寿都町」となった。

寿都と言えば弁慶岬が良く知られている町で義経伝説の多いところでもある。
寿都湾という自然の湾がかつての鰊繁栄を象徴している。
この町が今変わろうとしている。

(写真は、寿都の港)


    
  しあわせのパン(洞爺湖)  

 北海道は映画のロケ地が多いが、またひとつ加わった。
 サミット会場でいっとき賑わった洞爺湖で撮影された
  「しあわせのパン」(原田知世・大泉洋出演)。

 サミットの後、観光が回復するかと期待されていたが
サッパリで、洞爺湖町はロケ地マップを作って観光を願っている。

 この映画は、今年の1月に封切りになっているが洞爺湖をいっぱいに映し出している。


北海道内のおもな義経伝説 14benkeizo.jpg

 

⑭寿都の海を見据える弁慶のまなざし。
弁慶像 (寿都町・弁慶岬)

弁慶伝説の多い寿都町のシンボルは、やっぱり弁慶。

 昭和634月、弁慶岬に高さ3.6mの大きな弁慶像が建てられました。

 台座にはこの地で援軍の船の到着を待っていた弁慶の気持ちを表わす
想望」の文字が記されています。

 また、毎年8月第2土・日曜日には 「寿都湾弁慶まつり」が賑やかに開催されます。

義経や弁慶に扮し、 たいまつを掲げながら静御前の待つ寿都港までをパレードする
光景は必見。

 




北海道内のおもな義経伝説 6ph8.jpg


寿都町  弁慶岬・義経の物見台

その昔、糠森という場所そのものが弁慶の土俵だったそうな。


「はっけよい!」力自慢の弁慶の大相撲。
弁慶土俵 (寿都町・糠森)

土俵づくりに使った糠の残りが岩となって出来たそうです。
土俵の大きさは幅20m、周囲に30cmの土盛りがされており、
あたりには4本の柱の跡、弁慶が履いていた大きな下駄の足跡、
上方には義経が座った物見台もあったということです。

力自慢の弁慶は、相撲の相手を手加減しません。

勢いあまって投げ飛ばされた人は、崖下に転げ落ち、 鼻血で岩を赤く染めました。
近くの岩が"赤岩"と呼ばれているのはそのためです。

 
向うところ敵なしの弁慶も、義経を相手に相撲した時だけは、 尻もちをついて負けたということです。






北海道内のおもな義経伝説 5katanagake11.jpg

岩内町 <雷電岬>
 義経はアイヌの襲撃に遭うが、神罰と悟ったアイヌの人々は介抱し、
メヌカという娘が熱心だった。義経出発の朝――

 

「雷電」の地名は、「らいねん」?(岩内町、雷電)


 義経一行は、雷電の険しい山間で当時のアイヌの首長チパの襲撃に遭い、
 囚われの身となってしまいました。
 勝利をおさめたアイヌの人々が、祝いの席を開こうとした時のこと。
 突然祭壇の"イナウ"が倒れてしまいました。
これは、
義経を捕らえた神罰と悟ったアイヌの人々は、 一行を手厚く介抱することにしました。

傷も癒え、やがて春が来て、旅支度を始める義経一行。
そんな光景を目に涙をいっぱいためて見守る少女がいました。
 チパの娘、メヌカです。 義経を介抱するうち、いつしか恋が芽生えていたのでした。

とうとう出発の朝がきてしまいました。
泣きくずれて別れを惜しむメヌカを慰めて義経は 「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」と告げました。
「来年まで待っているわ」。 二人の交わした最後のことば"らいねん"がいつからか「雷電」の
地名になったということです。


弁慶を慰めた雷電の海刀掛岩 (岩内町雷電・国道沿い海側雷電岬)

 義経一行の中で力持ちの弁慶は、いつも頼り甲斐のある存在でした。
 雷電まで来た一行がちょっとひとやすみした時のこと。
 いつもは片時も離さない刀ですが、 弁慶は近くの岩をちょいとひねって刀を掛け。
 
いつしかこの岩を「刀掛岩」、 この岬を「刀掛岬」と呼ぶようになりました。
また、一行が雷電にしばらく滞在している間、
弁慶はしばしば磯釣りを楽しんだそうです。
 
そんな時も刀掛岩がおおいに役立ったということです。

 

武器や財宝が眠っている?不落の洞窟 (岩内町雷電・刀掛岩の横)

刀掛岬を海伝いに船で南に回れば、
どこまで続くかわからないような洞窟があります。
内部の高さは約16m、幅4m、広いところでは20mほどで、 奥行きは約80m位まで確認されています。
 以前迷って入った犬が寿都で発見されたことから、
 洞窟は寿都までつながっていると言われています。

洞窟へは、船で渡るルートしかないため、 義経に関係のあったアイヌの首長チパが
武器や財宝を隠したという伝説が残っています。
刀掛岩の近くですから、弁慶が財宝の見張りをしていたのかもしれません。

また、この底しれない穴は「また来年」と言って 義経と別れたアイヌの娘メヌカが、
 
戻らぬ義経に失恋、 投身自殺をしたところとして「悲恋の穴」とも呼ばれています。






北海道内のおもな義経伝説 4kamui-13.jpg

 

積丹町  <チャレンカ・シララ姫伝説>

<神威岩伝説>
神威岬先端の岩。
義経に想いを寄せるチャレンカは、知らせず旅立った事を知り、
「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という言葉を残して海へ。
岩と化した。
女性を乗せた船がこの沖を過ぎようとすると必ず転覆し、神威岩はかつて女人禁制だった
というから、穏やかでない。

 

 

0e87ce24.jpeg   チャレンカ。神威岩 (積丹町・余別)

 ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園にふくまれる積丹町余別の西岸の景勝地。

 日高の平取から雷電岬を越えて、岬の沖にさしかかった義経一行は、
  荒波にもまれて今にも難破しそうになりました。
 義経は、神威岩と海の神、風の神に祈りを捧げると、 ふしぎなことに
                  波も風もおさまり、無事通過できました。

一説には、平取のアイヌの娘、チャレンカもまた義経を慕って後を追い、 船の行く手をはばむために
身投げしたのが、
立岩として残っていると伝えられています。
神威岬はその昔女人禁制の地といわれ、 女性が乗った船がこの辺りを通るとチャレンカの恨みに
よって、
必ず転覆したと伝えられています。
現在、神威岬への遊歩道は"チャレンカの小道"といわれ、 野鳥のさえずりを聞きながら散策を楽しめます。


 

500x500-49152.jpg奇岩と伝説が語りかけるシララ姫伝説

義経を追って、高波にのまれたシララ姫伝説
積丹岬の東、入舸は昔アイヌの人たちが住んでいたところです。
義経一行は、日本海沿岸を北上、 神威岬の沖を船で通過しようとしていました。 ところが、この辺りは、風の強さと潮の流れの早い難所。
荒海に櫂を流され、かろうじて入舸に流れつきました。 首長は娘のシララに義経を介抱させ、義経の傷も順調に回復していきました。 海辺を散歩する義経とシララの姿は、ほほえましい光景でした。しかし、ここも義経にとって安住の地でなく、 一族の再興をはかる大望を胸に船出をしたのです。 シララは岩伝いに船を追いましたが、 折りから満潮となった大波にのみこまれてしまいました。波間に沈んだかと思うとシララは浮かびあがり、 そのまま岩になったということです。
現在、"シララ姫の小道"と呼ばれる積丹岬周辺は、 奇岩の多いビューポイントです。

 






義経伝説 32e75c203.jpeg

寿都町・岩内町境の雷電岬は、
弁慶がアイヌに来年またくると約束したところだという。
 
 
積丹半島神威岬から舟出した義経を追って、
乳のみ子をかかえたメイコが岬から身を投げてメイコ岩になり、
それ以来、メイコのたたりで女を乗せた船は神威岬で必ず沈没したという。
松前藩女人禁制の由来もある。
 
平取には義経神社がある。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
上家二三夫
性別:
男性