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アイヌ文化 15


 国連宣言を踏まえて、平成202008)年625a19e223b811238.jpg
国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が
全会一致で採択され、この決議を受け、
内閣官房長官は、アイヌの人々が「先住民族であるとの認識の下に」
アイヌ政策に取り組む旨の政府見解を表明しました。

同年7月、政府は「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置しました。

こうした社会の動きとともに、アイヌの人たちやアイヌ文化に対する一般
社会の関心がより一層高まっています。
しかし、アイヌの人たちにとって、差別の解消や生活の安定など、解決されていない課題が
まだ残されており、このような状態を改めるためにも、これまでのアイヌ政策が更に推進され
るとともに、新たな総合的施策の確立が望まれるところです。

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アイヌ文化 14

 

先住民族は、その土地に古くから原住していながら、今日の国家、9a619db96cc312c4.jpg
社会の中で支配・圧迫を受け不利な立場におかれているという境遇
において共通性を有しています。

 近代・現代における世界の激しい動きを振り返るならば、どんな
地域のどんな民族も旧来の主要な生業や生活、それらを基礎とし
た「伝統的」文化になんの変容もないということはありえないと言え
るでしょう。
しかし、ある民族が自ら志向し選択したのではない変わり方を他から
一方的に強いられ、その状態が長い間是正されなかったために、
おおきな喪失感や不信感、否定的影響などが幾世代にもわたって
継続するという減少は、残念ながら世界各地で見受けられることです。

アイヌの人たちの場合も、民族としての集団的な権利が保証されず自主的で
多様な発展の可能性が制限された状態が長く続いてきました。
国連では、世界の先住民族が失った権利をどのようにして回復するかについて、
長年、検討が進められてきました。
そして、平成192007)年9月、国連総会において「先住民族の権利に
関する国際連合宣言」が採択されました。
この宣言には民族の自決権や土地・資源の権利、知的財産権など、
各国が達成すべき基準が明記されています。



アイヌ文化 1308e8e07a.jpeg

 

新しい法律を求めるアイヌの人たちを中心とした幅広い運動に応じて、
平成9(1997)年、国会は「北海道旧土人保護法」を廃止し、
新しく「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及
及び啓発に関する法律」を制定しました。

これは、北海道ウタリ協会が要求していた項目の内で主に文化に関
わる面だけを反映したものです。

しかし、目的を「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、
あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」(第1条)としているように、
国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化を是としてきた従来の姿勢
から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進すること
を国及び地方公共団体の責務と位置づけたものとなっています。



アイヌ文化 12


  1960年代になると、生活上の格差や困窮の解消のために、アイヌの
人たち7b834880.jpegが多く暮らす地域で集会施設(生活館)や共同作業所などを設置
する環境整備事業が開始されました。
また、昭和49(1974)年からは、住居・就労・修学などの面での個人対
策も盛り込んだ「北海道ウタリ福祉対策」が開始されました。
これは7ヶ年の計画でしたが、その後も施策の重点や名称を変えながら
現在まで継続されています。

  昭和59(1984)年に北海道ウタリ協会は、アイヌ民族の基本的人権
を回復し差別をなくすこと、政治にアイヌ民族代表の意見を直接反映で
きるようにする特別議席、教育・文化面における総合的な施策実施、経
済的自立のための農業、漁業、林業、商工業等の諸条件整備などを求
めた「アイヌ民族に関する法律」案を作り、提案しました。
そして、この新しい法律の制定を北海道や政府、国会などに働きかけていきました。

とくに昭和61(1986)年、当時の中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」
「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言した問題など
を契機としてアイヌ民族をめぐる議論や運動が活発になっていきました。
また、先住民族の権利をめぐる世界の動向に関心が払われるようになり、海外との
交流も積極的に行われるようになりました。
さらに、こうした動きを背景にアイヌ民族として初めての国会議員が生まれました。



アイヌ文化 11

 

1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」ということば
dosanko112080017.jpg表されるように社会に自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も
活発に行われるようになりました。
差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという
偏見と無理解への批判、自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどが、
アイヌ自身によって行われ、民族的な組織を結成する動きもありました。
町や村の議会議員選挙で当選する人もいました。

昭和9(1934)年に「旭川市旧土人保護地処分法」が制定されました
が、これは今の旭川市近文でアイヌの人たちが住んでいた土地を追い出
されそうになった問題に対応してとられた措置でした。
アイヌの人たちは、代表が東京で陳情運動をするなどして、土地が取り上
げられるのを防ぎましたが、本来下付されるべき土地を共有財産として
北海道長官の管理下におくなど、後に問題を残す形で収束が図られました。

第2次世界大戦における日本国の敗戦後、
アイヌの人たちが社会的地位を高めて誇りある民族となることなどを目ざして、
社団法人北海道アイヌ協会(1961年に社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立されました。

そのころ地主から土地を取り上げて小作農に安く売り渡す農地改革が進められましたが、
「北海道旧土人保護法」でアイヌの人たちに下付された土地もこの政策により少なからず失なわれ
てしまいました。
北海道アイヌ協会はこれに反対しましたが、アイヌ民族の土地が不当に収奪されてきた歴史的事情を
考慮した措置はなされませんでした。

明治期からの一連の施策と経済的事由に起因する不法な権利移転などの結果、アイヌのものとして
残っている下付地は、今では当初の15%未満にすぎません。



アイヌ文化 10

 

明治19(1886)年には北海道庁が置かれました。20090623203751.jpg
道庁は土地と資源の民間への引き渡しと開拓をさらに進め、アイヌの人
たちの住む場所を狭めていきました。

  こうした政策の中でアイヌの人たちの困窮がいっそう甚だしくなると、
明治32(1899)年に「北海道旧土人保護法」が作られました。
この法律は、農業のための土地を「下付」し、日本語や和人風の習慣に
よる教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。

土地を与えられたアイヌの人の中には農業経営に成功した人もいまし
たが、農地にすることに失敗して土地を取り上げられたり、はじめから
農業に向かない土地を与えられた人が多かったのです。
また、アイヌ民族への下付地は、和人、とりわけ大きな資本を持つ者などに与え
られた土地に比べはるかに狭いものでした。

「北海道旧土人保護法」によるアイヌ民族への下付地は一戸あたり1万5千坪が
上限でしたが、明治5(1872)年の「北海道土地売貸規則」では和人一人あたりに10万坪、
明治30(1897)年の「北海道国有未開地処分法」では150万坪を限度に開墾した土地を
無償で払い下げるとしたことと比較するならば明らかな民族差別でした。

学校の設置にあたっては、子どもに教育を受けさせようと、土地や資金を寄付する
アイヌの人たちもいました。
しかし学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化は否定され、日本語や和人風の生活のしかたを
覚えなければなりませんでした。
また「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、
教育内容にも不当な格差を設けていたことでした。




アイヌ文化 9

 

 明治2(1869)年
明治新政府は蝦夷地を北海道と呼び改
め、一方的に日本の一部としました。
そして、アイヌの人たちを「平民」として戸籍を作成し国家に編入しましたが、
そうする一方で、「旧土人」と呼び表して差別し続けました。
 
 同じ年、北海道を治めるために置かれた開拓使は、アイヌ民族の言語や
生活習慣
を事実上禁じ、和風化を強制する政策をとりました。
 また、アイヌの人たちが利用してきた土地や資源を取り上げて国の財産だとしたうえ
で民間に売り払うことにし、鮭漁や鹿猟を禁止したりもしました。
脱亜入欧・富国強兵をめざす国家体制の改編とともに、生業と生活の転換を強いる
社会的圧力が急速に大きくなっていったのです。

こうした和人本位の開拓優先政策の結果、アイヌの人たちは食べるものにも困るようになりました。
農業を勧奨する事業が行われたりもしましたが、急に暮らしのしかたを変えるのは多くの場合難しい
ことでした。そして、アイヌの人たちは財産の管理能力がないと決めつけられ、土地私有や各種資産
にたいする権利が制限されました。

 政府は、明治8(1875)年にロシアとのあいだで樺太・千島交換条約を結ぶと、
サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを無理やり北海道や色丹島
に移住させました。

しかし、移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなって
しまいました。このようなアイヌの人たちの強制的な移住は、その後も各地で行われました。



アイヌ文化 8


  安政2(1855)年、箱舘へ外国船の寄港が認められると、tonkori3_thum.jpg
その周辺を幕府が直接治めるようになり、翌年には幕府の統治
は蝦夷地とその周辺の島々に及びます。
ただし、渡島半島南西部は松前藩領のまま残されました。
その目的はロシアに対する防備の強化のほか、蝦夷地開拓や殖産興業
にありました。

 徳川幕府は、アイヌの人たちが日本に帰属すること、そしてその居住地
 が日本領であることをロシアに主張するために、交易や保護をとおして
 アイヌの人たちを懐柔し、
  さらに松前藩が禁じていた笠、蓑、草履の着用を解禁し、さらに髪形、
 着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れずみ、クマの
 霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとしました。

  とりわけ、2度目の統治の際には、その政策はさらに強化されましたが
 アイヌの人たちの反感をかってしまいました。
 アイヌの人たちが培ってきた風俗や習慣はそのくらしに深く根をおろしており、
 力をもってしても簡単に変えることができないことをものがたっています。



アイヌ文化 7

 

徳川幕府は
国後・目梨の戦いの10年後、アイヌの人たちの苛酷なnight_mukkuri_ym.jpg漁場労働と
不正による場所経営と、ロシアの南下に対する警戒から、
寛政11(1799)年に蝦夷地の南半分-東蝦夷地、そして文化4(1807)
からは松前藩を梁川 (現在の福島県)に移し、
蝦夷地の北半分-西蝦夷地と北蝦夷地を直接治めました。


アイヌの人たちがロシアの懐柔策にのせられないように、
幕府はアイヌの人たちと公正な交易を行うとともに、本州他藩に蝦夷地防備
の兵を派遣させました。

交易による収益は蝦夷地経営に使いましたが、
道路開削、防備体制の拡大などは交易の収益を上回るものになりました。

ロシアに対する警戒心も薄れ、松前藩の復領運動もあって、文政3 (1820)年には
蝦夷地は松前藩に戻されます。



アイヌ文化 6300px-Nibutani_Ainu_Cise.jpg

 

シャクシャインの戦い以後、和人の優位がゆるぎないものになります。
多くのアイヌの人たちは漁場労働を強いられ、場所請負人そしてその
配下の者たちの酷使や交易の不正に耐えなければなりませんでした。

松前藩による場所の開設とアイヌの人たちの使役は松前の遠隔地へ
と広がっていきました。
このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた
国後島のアイヌの人たちは、国後場所請負人飛騨屋久兵衛の運上屋による酷使や不正
に立ちあがり、さらに対岸の目梨地方
(現在の標津地方)に戦いは広がりましたが、
国後と厚岸の首長の説得によって、戦いは収まりました。

しかし、松前藩が派遣した討伐隊は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰しました。
この戦いよって、松前藩は国後島や道東部のアイヌの人たちを制圧し、その支配に組み込ん
でしまいました。
この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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