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アイヌ文化 11

 

1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」ということば
dosanko112080017.jpg表されるように社会に自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も
活発に行われるようになりました。
差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという
偏見と無理解への批判、自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどが、
アイヌ自身によって行われ、民族的な組織を結成する動きもありました。
町や村の議会議員選挙で当選する人もいました。

昭和9(1934)年に「旭川市旧土人保護地処分法」が制定されました
が、これは今の旭川市近文でアイヌの人たちが住んでいた土地を追い出
されそうになった問題に対応してとられた措置でした。
アイヌの人たちは、代表が東京で陳情運動をするなどして、土地が取り上
げられるのを防ぎましたが、本来下付されるべき土地を共有財産として
北海道長官の管理下におくなど、後に問題を残す形で収束が図られました。

第2次世界大戦における日本国の敗戦後、
アイヌの人たちが社会的地位を高めて誇りある民族となることなどを目ざして、
社団法人北海道アイヌ協会(1961年に社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立されました。

そのころ地主から土地を取り上げて小作農に安く売り渡す農地改革が進められましたが、
「北海道旧土人保護法」でアイヌの人たちに下付された土地もこの政策により少なからず失なわれ
てしまいました。
北海道アイヌ協会はこれに反対しましたが、アイヌ民族の土地が不当に収奪されてきた歴史的事情を
考慮した措置はなされませんでした。

明治期からの一連の施策と経済的事由に起因する不法な権利移転などの結果、アイヌのものとして
残っている下付地は、今では当初の15%未満にすぎません。

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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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