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戸田公園

厚田村が排出した4人の偉人に戸田城聖がおります。
この人は、現在の創価学会黎明期に活躍し戦前の人です。
二代目の会長をつとめた方で、厚田村資料館にその足跡が
残されておりますが、今の創価学会とはかなり意味合いが
違うようです。

この人の名前を取って公園があるので行って見ると、そこ
は霊園でした。
写真は、丘の上に銅像があり広場で桜の季節には満開の桜
で名所として観光のコースにもなっています。
現在のお墓は、墓地というだけではなく、ビクニック方々
先祖をお参りに来るというものです。
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  厚田村(あつたむら) 11   

 厚田村は明治以降、異色の人物を生んでいる。
全国から移民をしてきた北海道の縮小版ともいえる。                                                           厚田公園に創価学会二代目会長の戸田城聖の生家が保存公開されている。
推理作家の楠田匡介や横綱吉葉山もここで生まれた。
松山善三は「厚田村」で佐藤松太郎を描いたが、家督を継いだ佐藤正男から
奨学資金を得て札幌の北海中学で学んだのが島木健作と和田芳恵だった。                                                   子母沢寛は伊藤整との「道産子対談」の中で、次のように話している。 

 「北海道特有のものと江戸から持ち込まれたものとが入り混じった2つの
雰囲気が村にはありましたね。ぼくのおやじは漁場を持っていて、そのうえに
宿屋を経営し、さらに東北方面からの出稼ぎ漁夫相手の女郎部屋もやってたようです。
(中略)  この老人たちが、江戸のことをなつかしがって話しているのを、はたで聞いて
いたおかげで、江戸など全然関係ない北海道の寒村にいたぼくが、江戸を舞台にした
小説をかけるんですからね」
  

 この老人たちとは、幕末に江戸(上野・彰義隊)で敗れ、箱館(箱館戦争)で敗れて
厚田に逃れてきた7人の江戸の侍たちのこと。
その頭格が子母沢寛の「おやじ」だった。                                                   幕末から明治維新にかけての歴史小説で、子母沢寛の影響をうけなかった人は
いないという。司馬遼太郎もその一人だった。                                                    子母沢寛のふるさと三部作は、
「厚田日記」「蝦夷物語―或る二人の敗走者」「南に向いた丘」明治の厚田村が、語られている。
               

 (写真は鰊番屋で使われていた蠅取り器)


 

 厚田村(あつたむら) 10   

 子母沢寛(しもざわ かん)と異父兄弟・三岸好太郎について。  
寛(本名・梅谷松太郎)は明治25年2月1日に厚田村で生まれた。
生母は三岸イシだが、生後ほどなく祖父梅谷十次郎、祖母スナに引き取られた。 

 三岸イシは、厚田村から札幌に出て11年後に好太郎を生んだ。
好太郎は今の札幌南高校ころから公募展で入選をし、卒業後東京に出るや
天才の評判をよぶ洋画家となった。
19歳(大正11年)の時に女子美で知り合った吉田節子と21歳で結婚する。
(節子とは1999年、94歳で亡くなった三岸節子画伯)。
 好太郎は31歳で胃潰瘍が悪化し、心不全で急死してしまう。

現在、三岸好太郎美術館は北海道知事公館の敷地内にある。
三岸好太郎は一度も厚田村を訪ねたことはなかったが、出生地は「石狩ルーラン16番地」
と書いている。それだけ、母親から厚田村の話を聞いていたのだろう。
子母沢寛は新聞記者となるが11歳年下の好太郎を何かと世話をしたという。  

 (写真は三岸好太郎の画・札幌大通公園 昭和7年)


   

 厚田村(あつたむら) 9    

 厚田村は日本海に沿って国道231号線がとおっている。
車で走れば20分ほどで過ぎてしまう。

この村に司馬遼太郎が「街道を行く」で訪れている。
 その一節

「石狩町から道が山路になって、途中、山の勢いに海へ追い落とされる
ようにして、いったん海岸へ出る。
そこが山口県団体40戸が入植した望来である。

(中略)望来を過ぎたあたりから山が急傾斜で海へ落ちこむ寸前が道路
になっている。私どもは棚の上を走るような気配のまま厚田村の主邑に入った」

 
 この231号を車で走ったことがある人は、この表現が分かると思う。

 

 (写真は厚田漁港)


  

 厚田村(あつたむら) 8

 厚田村聚富は、明治4年4月本庄陸男の小説「石狩川」にある
仙台藩岩出山支藩の主従が最初に入植した土地である。

43戸・180名が一年半におよぶ不自由な生活に耐え、やがて当別
に新天地を求めて移った。
平成8年10月、厚田村の聚富側に「伊達邦直主従北海道移住の地」碑
が建った。
碑の石は、郷里・宮城県岩出山町産出の稲井石(黒色)を使用している。   



 (写真は当別にある本庄陸男の碑)


 
  厚田村(あつたむら) 7   
 
 北海道はかつて相撲王国でもあった。
元横綱の記念館が町興しとともに建てられている。
有珠の麓に北の湖、道南の福島町には千代の山(道産子横綱第一号)と千代の富士、
弟子屈には大鵬記念館がある。

厚田村の郷土資料館には第43代横綱吉葉山の偉業が展示されている。                                                  吉葉山は大正9年生まれで本名は池田潤之輔。
厚田村安瀬(やそすけ)の裕福なニシン漁の網元の三男に生まれた。
戦後の暗い時代、厚田の人々はもとより道民に希望と勇気を与えてくれた郷土のヒーローだった。

 

 (写真は、浜益の名勝地千本ナラ)


   

 厚田村(あつたむら) 6  

 松山善三の本「厚田村」は、ヒロインの父親に徴収令状が
届き札幌月寒の25聯隊に行くところくらいから始まる(日露戦争)。

上巻は厚田村の網元佐藤松太郎が主役として登場。
当時の鰊漁とヤンシュウ・番屋の生活が生き生きと描かれている。
佐藤松太郎は北海道網元の横綱だった。
豪商であったが面倒見が良く、他地域の子供にも育英資金を出していたほどだった。
(明治39年生まれの長万部国縫生まれの小説家和田芳恵もその一人)
  

(写真は厚田の隣村、浜益にあった番屋で現在郷土資料館となっている)


 

 厚田村(あつたむら) 5  

 厚田資料館に展示されている4名の偉人とは、
第43代横綱・吉葉山(現在の横綱白鵬の部屋)、
座頭市や幕末維新の歴史小説などを著した文豪・子母沢寛(しもざわかん)、
創価学会第2代会長・戸田城聖、
そして松山善三の小説「厚田村」に登場する大実業家・佐藤松太郎である。   

   (写真は、山並みのわずかなところに厚田村が見える)

  

 厚田村(あつたむら) 4  

 厚田は、明治時代から昭和初期まで鰊漁で栄えた。
出稼ぎの漁師でにぎわった明治14(1881)年の人口は1万2000人を
超えると記録がある。

 当時の様子を伝えるための資料室が厚田にある。
平成21年2月から地域ボランティアと市が協働で
「あつた資料室リニューアル構想策定協議会」を立ち上げ、見直し作業
を行ったという。

 その結果、厚田が輩出した
4人の偉人 佐藤松太郎・子母澤寛・戸田城聖・吉葉山潤之輔
が展示されている。
小さな村で驚くほどの人たちが存在していた。  
 

   (写真は、厚田資料館の入口にある厚田観光案内所「あいロード夕日の丘」)

  
  厚田村(あつたむら) 3    

 明治時代に入ると、本州から続々と集団移民が始まり、
厚田にも多くの人々が入植した。
明治4(1872)年以降、山形県14戸をはじめとし山口県127戸、石川県42戸、
兵庫県30戸のほか、南部団体(岩手、青森県)、新潟県などから入り、
望来(もうらい)、聚富(しゅっぷ)(しっぷ)、発足(はったり)、正利冠(まさりかっぷ)
などで開墾が進んだ。   
                   

 そのような中に、彰義隊に参加し箱館戦争に敗れ捕虜となり釈放された
梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎又は鉄五郎)がいた。
彼は子母澤 寛(本名・梅谷 松太郎)の祖父である。
網元となり、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営し村の顔役となり、
御家人くずれのやくざ風な人だったらしい。    



(写真は、今の厚田漁港の朝市)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
男性