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 厚田村(あつたむら) 2  

 札幌から車で日本海に出て国道231号を北上すること
約1時間で厚田村がある。
更に北上すると浜益、増毛、留萌である。
厚田村とは厚田郡に所属していた村のことで、7年前(2005年)
浜益村と共に石狩市へ編入され厚田区となった


 現在の人口は約2,500人。                                               この「あつた」の地名は古く江戸時代初期(1661年)
松前藩「新御国絵図」にすでに記載されている。
日本海は江戸時代から松前、江差をはじめとする漁場
として開かれており、松前藩によって「アツタ場所」が開かれていた。      
                                            

 「場所」とは、松前藩がアイヌと交易する区域を「場所」とよび、
江戸の初期には家臣に給与の代わりに場所権利を与えていた。
 更に後期には、この「場所」を一定の運上金(税金)と引き換えに
場所請負人とよばれる商人にまかせるようになった。
  アイヌとの交易とは、干鮭、熊や鹿の毛皮など。  
        
(写真は厚田村を上から見たところ、山々がよくわかる)
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 厚田村(あつたむら) 1    

  タイトルが「厚田村」という本がある。
著者は映画監督・脚本家の松山善三で潮出版社より1994年に
単行本で出版されている。
 題字・梅原龍三郎/装幀・高峰秀子と豪華な上・下巻。
                                    
 一人の女性を通して、明治の終わり(日露戦争)から、
終戦後(昭和20年)までの波乱の半生を描いた小説だが、
面白いのは厚田村の地名や実在の人物が登場してくる。
又、時代考証が行き届いているので、どこまでがフィクション
なのかが分からない。

更に、情景や描写が実に巧みで活気に溢れている。
地域名が土地勘に当てはまり、実在の人物(らしき人)を含め
て物語を構成しているので、明治・大正・昭和の北海道が実
に良くわかる。
少し、この厚田村について書いてみたいと思う。

(写真は今の厚田区のマップ)


吉葉山 潤之輔 6
 
2007年(平成19年)5月、
白鵬が連続優勝を果たして史上69人目の横綱に昇進した際、
土俵入りの型は吉葉山が行った不知火型を継承した

白鵬は竹葉山(四股名は吉葉山にちなんだもの)の弟子で、
吉葉山の孫弟子に当たる。
同年6月1日明治神宮で行われた奉納土俵入りでは、
吉葉山が現役当時に着けていた三つ揃えの化粧まわしを使用した。
なお、吉葉山が道場時代から使っていた宮城野部屋の建物は
その後相撲料理店「吉葉」となり、稽古土俵が現在も残っている。
この力士に関しては後に相撲解説で有名になる神風正一もその素質を認めており、
新入幕の時には「もし兵隊に取られてなかったら今頃は大関だろう」と言ったと伝わる。
大横綱になるべくしてなれなかった人は何人もいるが、
彼はその中でも非常に惜しまれる部類に入るだろう。
 
主な成績
幕内在位:37場所(横綱17場所、大関10場所、関脇2場所)
幕内通算成績:304勝151敗1分85休 勝率.668
横綱通算成績:109勝67敗79休 勝率.619
幕内最高優勝:1回(全勝)
同点1回、次点5回
三賞:殊勲賞3回(1950年1月場所・3月場所・5月場所)
金星:2個(照國)
 
 


吉葉山 潤之輔 5
 
引退後
現役時代から当時の
一代年寄制度を利用して総檜造の吉葉山相撲道場を設立した。
引退後に年寄宮城野の名跡を譲られ、宮城野部屋と改称する。
後進の指導には非常に熱心で、部屋の師匠として
明武谷・陸奥嵐・廣川ら8人もの関取を育てた。

また日本相撲協会理事として審判部長などを務めた。
若い頃から扁桃腺に持病があって、並居る力士の中でも吉葉山はとりわけ
濁声で知られていたが、
審判部長の職責を授かるにあたり手術に踏み切って治癒させた。
1977年(昭和52年)11月26日、腎不全のため死去。57歳没。
日本相撲協会はその年の12月23日、吉葉山の日本相撲協会葬を執り行い、
戦後の大相撲復興の象徴でもあった彼の功績を称えた。


吉葉山 潤之輔 4
 
しかし新横綱の場所を全休、その後も貫通銃創の後遺症と足首に
入ったままの銃弾の影響で思うように白星を稼げず結局2度と賜杯
を抱くことはできなかった。
当時の人気俳優・市川右太衛門ばりの美男力士として大変人気が高かった。
また従軍・戦傷の経験から元軍人や傷痍軍人からは特に人気があった。
筋骨隆々たる巨体が見せる不知火型の土俵入りは美しかった。

左四つ得意だったが力任せの取り口が目立ち、蹴手繰りの奇手を見せることも多かった。
若い頃から出世を争い新大関は同時、横綱昇進も非常に近かった鏡里との対戦は、
美しさなら往年の梅ケ谷・常陸山のそれと対比され、特に人気を呼んだ。
全勝優勝を決めた千秋楽の相手も鏡里だった。

1958年(昭和33年)1月場所、この場所絶不調の吉葉山は
中日を終えて3勝5敗、そのまま引退した。
この時5勝3敗だった鏡里は「10番勝てなかったらやめる」と発言、
9勝6敗で終わり惜しむ声もある中で本当に引退、偶然にも2人の引退は同時となった。



吉葉山 潤之輔 3
 
涙の初優勝、そして横綱昇進
1954年(昭和29年)1月場所、全勝で悲願の初優勝、
大雪の中の優勝行進(現在の優勝パレード)は「雪の全勝行進」と呼ばれ
全国から集まったファンが大喜びでその姿を見送った。

その興奮ぶりは後の貴ノ花や千代の富士の初優勝、
若貴フィーバーにも匹敵するものであったという。
成長途上に兵役にとられた悲運、兵役中受けた銃創が尾を引き肝心なところで怪我
に泣く悲運、小部屋の悲運、ライバル鏡里と比べて強豪と当たることの多かった
(当時は系統別総当り制だが部屋により対戦相手に違いがあった)

悲運、照國と優勝決定戦になったものの大関昇進が即決されなかった悲運、
14勝を挙げながら平幕下位の時津山に全勝で優勝をさらわれる悲運など、
いわゆる“7つの悲運”を乗り越え晴れて横綱になった。
 


吉葉山 潤之輔 22db33145.gif
 

復員後
4年にわたって戦場におり、死んだとの情報が入っていたことも関係し、
痩せこけて帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたという。

その後は胃袋とあだ名されるほどに食事を摂り、
人一倍稽古もして失なわれた4年間を取り戻すべく必死だった。
1947年(昭和22年)6月場所十両東4枚目の位置で復帰、翌11月場所で入幕した。
新三役(関脇)で迎えた1950年(昭和25年)9月場所、13勝2敗の成績を挙げたが、
優勝決定戦では本割でも負けた相手である照国に敗れた。
新関脇での13勝は15日制となってから五ツ嶋に次いで2人目で現在まで最多である
(後に、琴欧州も達成)。
翌場所も13勝2敗であったが、今度は照國が全勝した。
しかし、関脇で2場所連続13勝が評価され大関に昇進する。
皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があり横綱昇進を期待されたが、優勝がなくなかなか届かなかった。

1953年(昭和28年)5月場所では14勝1敗であったが、平幕の時津山が全勝した
(当時は下位の力士がいくら勝っても三役と当てることはまずなく、吉葉山としては阻止するすべがなかった)。このように、吉葉山の土俵人生には悲劇が纏わり付いていた。



吉葉山 潤之輔 1yoshibayama.jpg
(よしばやま じゅんのすけ、本名:池田 潤之輔(いけだじゅんのすけ)

1920年 (大正9年)4月3日- 1977年 (昭和52年)11月26日)は、
厚田郡厚田村(現、石狩市)出身の大相撲力士、
第43代横綱。身長179cm、体重143kg。
 
大相撲入門
幼少時は裕福だった網元の家庭だが3年続けての業績不振により倒産。
北海道製糖(現日本日本甜菜製糖)に就職するが、
「学歴がなくては出世は無理」と考え、勉学に励もうと一念発起して列車に乗って上京、
この時近くに大きな体をした少年がいたらしいが途中で姿を消してしまう。

上野駅に到着すると力士2名に出迎えられ高島部屋に連れて行かれた。
実は先述の姿を消した大きな少年(結局この少年は上京を中止した)が高島部屋に
入門を希望していたのだが、彼と間違われて連れて行かれたのだ
部屋で人違いであることを説明したが、高島親方夫人に説得されそのまま入門した。
四股名は北海道製糖に因み北糖山にした。
 
1938年(昭和13年)に盲腸炎(虫垂炎か?)を患い、生命も危なかったが、
吉葉庄作医師の手で全快し恩に報いるべく四股名を吉葉山に改名した。
 
だが幕下優勝を果たし十両昇進目前の1942年(昭和17年)に軍隊に応召し、
戦地で少なくとも銃弾2発の命中を受ける。
このうち1発は貫通だった。
本土には死んだとの情報まで伝わり部屋の名簿からも名前が消されていたが
1946年(昭和21年)6月になってようやく復員することが出来た。



厚田村
 
厚田村(あつたむら)は、北海道石狩支庁北部にあった、
厚田郡に所属していた村。
村名の由来は、アイヌ語の at-ta アッタ(オヒョウニレの樹皮・採る)に因む。
オヒョウニレの樹皮はアイヌの服飾原料・繊維として重要であった。
厚田川の支流に、上流に沼があって水質の変化した
at-woro-us-nay
アッウォルシナイ(オヒョウニレの樹皮・うるかす・いつもする・川(河谷))
があったと伝承がある。
 
200510月1日、浜益村と共に石狩市へ編入され、
                         厚田村区域は、石狩市の地域自治区「厚田区」となった。
 
安政5年(1858年)に和人が初めて越年し、漁場開拓が始まりました。
                        厚田は、鰊との歴史です。厳しい自然に耐え、苦難をのりこえ、
                        新しい環境と条件を築いた先人たちの努力は、まさにはかりしれないものがあります。
               1600年代からニシンなどの漁場として開かれ、
                        江戸時代には松前藩によってアツタ場所が開かれていた。
 
1848(嘉永元年)厚田神社が創建される。
1869 北海道11国86郡が置かれた際、石狩国厚田郡が置かれた。
19024月1日   厚田郡厚田村、別狩村(べつかり)、小谷村(こたに)、押琴村(おしこと)、
                       古潭村(こたん)、安瀬村(やすそけ)、濃昼村(ごきびる)が合併、
                        二級町村制施行、厚田郡厚田村
19074月1日 厚田郡望来村(もうらい)と新設合併し、一級町村制施行
2005 石狩市に編入合併。厚田郡消滅。
 


北海道出身の作家08bc4d29.jpeg
 
子母沢寛(しもざわかん) 2
 
『座頭市』は、62年の『座頭市物語』から89年の『座頭市』
まで映画26本、TV作品100本が作られた。
元は、下母沢寛が書いた
歴史随筆集「ふところ手帖」(61年、中央公論者)に収められた
400字詰め原稿用紙にして、20枚弱の短編「座頭市物語」が原作。
 

 下母沢寛は、天保期の侠客、飯岡助五郎の地元である飯岡に旅行し、
土地の人に座頭市の話を聞いたという。

その中で映画のキャラクターとの接点となる部分を拾ってみよう。
 
1) ”市さん”と呼ばれるその男は、飯岡助五郎の子分だった。
2) 盲目だが居合抜刀術の名手で、ある時宙に投げた酒徳利を、
    口を真ん中から底の方へ縦に真っ二つに斬り、このふたつのかけらを
    会わせると元の形になった。
3) 中年の頃からの盲目らしく、物の色や難しい言葉も覚えていた。
4) 大の博打好きで、しかも勘が良く、賽の目を読んだら百遍に一度も間違わなかった。
5) 大酒飲みだが、飲んで乱れたことはない。
6) おたねという貧乏漁師の娘と暮らしていた。
7) 笹川繁蔵を闇討ちにした助五郎のやり口に嫌気がさし、
    杯を返しておたねとどこかへ姿をけした。]
                                                              <座頭市シリーズ・誕生とその魅力>より
 



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
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