2010/07/21 00:39:30
吉葉山 潤之輔 5
引退後
現役時代から当時の
一代年寄制度を利用して総檜造の吉葉山相撲道場を設立した。
一代年寄制度を利用して総檜造の吉葉山相撲道場を設立した。
引退後に年寄宮城野の名跡を譲られ、宮城野部屋と改称する。
後進の指導には非常に熱心で、部屋の師匠として
明武谷・陸奥嵐・廣川ら8人もの関取を育てた。
また日本相撲協会理事として審判部長などを務めた。
若い頃から扁桃腺に持病があって、並居る力士の中でも吉葉山はとりわけ
濁声で知られていたが、
審判部長の職責を授かるにあたり手術に踏み切って治癒させた。
明武谷・陸奥嵐・廣川ら8人もの関取を育てた。
また日本相撲協会理事として審判部長などを務めた。
若い頃から扁桃腺に持病があって、並居る力士の中でも吉葉山はとりわけ
濁声で知られていたが、
審判部長の職責を授かるにあたり手術に踏み切って治癒させた。
1977年(昭和52年)11月26日、腎不全のため死去。57歳没。
日本相撲協会はその年の12月23日、吉葉山の日本相撲協会葬を執り行い、
戦後の大相撲復興の象徴でもあった彼の功績を称えた。
日本相撲協会はその年の12月23日、吉葉山の日本相撲協会葬を執り行い、
戦後の大相撲復興の象徴でもあった彼の功績を称えた。
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