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十勝国(とかちのくに) 48
 帯広―池田―北見
 

 明治30年代には、道路の開削に変わって、鉄路の建設が盛んになった。
 今は札幌から網走に行くには、旭川駅から遠軽駅経由の石北線がある。
 しかし、この鉄路が開通するのは昭和7年(1932年)のことだった


   当初の鉄路は、札幌駅から北見国を結ぶルートは、
 札幌駅―旭川駅―富良野駅―帯広駅―池田駅―北見駅であった。

 従って、十勝と北見の境にある陸別に行くには帯広から池田経由となる。
 関寛斎に会うために、徳富蘆花もこの列車に乗って行ったのだろう。

 
今のように、滝川駅から富良野経由の根室本線が開通したのは大正2年(1913年)。
 北海道は、中央にそびえる大雪山連邦によって大きく二分されていた。

 
(写真は、石勝線が開通した昭和56年10月1日・追分駅)
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十勝国(とかちのくに) 47
 道央と道東を結ぶ鉄路
  十勝国の入植は明治30年を過ぎると一挙に慌ただしくなってきた。
旭川から帯広間の十勝線工事は明治30年に旭川から始まり34年に
落合(南富良野)まで開通した。
これによって、十勝国に海からの大津経由で入植していた開拓者たちは、
時化(しけ) で上陸できないことがある大津を避けて落合まで汽車に乗り、
ここから石狩道路を歩いて十勝に入るようになった


 石狩国と十勝国の峠を貫く狩勝トンネル工事は明治34年に開始され、
固い岩盤と湧水によって悩まされたが、明治38年には完成。
明治40年9月に帯広まで開通し、芽室駅、十勝清水駅、新得駅が開業した。
 同時に進めていた、帯広―釧路間の釧路線は明治36年に浦幌駅・厚内駅。
更に37年池田駅、38年帯広駅が開業。
明治40年には十勝線と釧路線がつながり、旭川―釧路間が釧路線と改称された。

 
 晩成社が十勝国に入植してから24年の歳月が経ち、ようやく石狩国(札幌)とつながった。
これによって、道央と東道が鉄路で結ばれ、旅客や物資の輸送力が大幅にアップし、
十勝経済発展の原動力となった。


(写真は、南富良野道の駅前)


 
十勝国(とかちのくに) 46
 二宮尊徳
 

 日本の国が欧米化していくなかで、葬り去られていったものの
一つに二宮尊徳(金次郎)がある。
かつては、小学校の校庭には「薪を背負う姿」二宮金次郎の銅像があったが、
一円札とともに無くなってしまった。
銅像がなくなると共に、道徳という小学校教育の科目もいつの間にやら無く
なり話題にもならなくなった。
 二宮金次郎の銅像には、政府の統合政策の意図があったのだが、それにし
ても外国かぶれしていくなかで、簡単に取り外してしまうのが日本人の特性なのだろう。

 
 二宮尊徳の生家は小田原である。
酒匂川の上流にある生家を訪ねたことがある。
戦後、二宮金次郎の銅像が小学校から消えていったことについて訊ねた。
GHQの指令によるといわれることがあるが、これは関係無い。戦前の像は銅製のものが多く、
第二次世界大戦中の金属供出によったため、混同されたものだ。
それよりも、敗戦によって天皇陛下の写真が外され、それと一緒に勝手に気を利かせて
金次郎の銅像も外されたのではないかということだった。


開拓で入った依田勉三や関寛斎たちの努力は水泡と消えた。

 
十勝国(とかちのくに) 45
 開拓神社(37柱)


   今は「開拓」という単語は死語となり、「ボーイズビアンビシャス」が
  北海道を語る言葉となってしまった。

 北海道神宮の境内に「開拓神社」といわれる建物がある。
北海道の開拓に心血を注ぎ、偉大な業績を果たした人達を祀る神社である。
神社の入口に間宮林蔵、高田屋嘉兵衛、松浦武四郎などの名前が並んでいる。
昭和13年に、当時の北海道庁長官が、開道70年を記念して全道から奉斎神の
申請を求め、36柱が選考され建立された。
 

 北海道神宮は、ロシアに対する守りということで、正門が北東を向いている。
しかし本来、北海道神宮に参拝に来る人は、こちらもお参りしなければならな
いだろう。
こちらの神社が命を賭けて日本の国土としてロシアから守り、未開の地を切り
開いた生き神様である。

 
 歴史上一番古い人物は武田信広、松前藩の始祖である。
室町時代、若狭国の武田氏の一族の子で、1454年道南の上ノ国に渡ってきた。
北海道の歴史は浅いが、蝦夷地の歴史は古い。


 当初は36柱で祀られていたが、昭和29年にもう一柱が追加された。
それが帯広の農聖といわれた依田勉三である。
晩成社は失敗したが、依田勉三が未開の地に挑戦し、数々の試みた事業が
今の十勝国である。
官僚でもない、平民である勉三の柱には意味深いものがある。
現在37柱となって祀られている。

北海道神宮は、観光のスポットとして外国人も訪れているが、この開拓神社が
あることは余り知られていない。


 
十勝国(とかちのくに) 44
 近世蝦夷人物誌
 

 北海道の名付け親でもある松浦武四郎が残した著作の中に
「近世蝦夷人物誌」というのがある。
この著書は安政4年(1857)にすでに、箱館奉行所に提出されていたが、
新政府になってからも公開されることはなかった。
 武四郎が亡くなったのは明治21年71歳であるが、ようやく出版された
のは明治45年(大正元年)のことである。


この近世蝦夷人物誌というのは、99人の老若男女アイヌの姿が書かれている。
アイヌに対する偏見(野蛮・乱暴など)が強くあった中で、優れた能力を持ち人徳もあり、
幕府や藩の方針に服している者も多くいる。
過労と環境の変化、天然痘や梅毒などの伝染病で体を痛めた者、一家の働き手を
つれさられて老人・子供・不具者だけが貧しいその日暮らしをしいられている者、
年頃の男女がいなくなって人口や世帯の少なくなってしまった村。
アイヌの悲惨な生活と深刻なコタンの様子がきめ細かく紹介されていた。


松浦武四郎は、これらを踏まえて日本人は蝦夷地開拓に
挑まなければならないと進言していた。
ところが、東京待機で北海道の命令はおりず、とうとう判官
を辞職してしまう。
 
(写真は、アイヌ民族から和人への交易品である鹿皮)



 
十勝国(とかちのくに) 43
 アイヌ民族
 

 北海道の開拓で、日本人が忘れてはならないことがある。
蝦夷地はすでにアイヌ民族が住んでいた大地であったことだ。
樺太を含めて1万1000人のアイヌ人口が確認されている。
 

 明治16年晩成社の依田勉三たちが入植したころには、十勝国には
1000人を越えるアイヌ人がいた。特に広尾に多かった。
帯広にも10戸ほど住人がおり、アイヌの人達との協力を求めて会食を
おこなっているほどである。
 明治維新に入り、ロシアとの駆け引きもあり北海道の開拓は一挙に
進められた。アイヌ民族はそれまでの生活が一変していく。
彼らの生活の糧であった山や川・海は和人の進出で取り上げられていった。
最も困ったことは、鮭を取ることを禁止されたことである。
鮭は冬場の食料として保存食であったからだ。
開拓はお雇い外国人の力添えもあり大きく前進したが、その代償はあまりにも大きかった。
 

(写真は、和人との交易品だったアイヌの昆布)


 
十勝国(とかちのくに) 42
 主役がいなくなった明治維新

  北海道の開拓は、明治維新後の日本再生の縮図といえる。
考えてみれば、明治維新に導いた主役は、その後の改革には皆亡くなっていた。
長州藩の吉田松陰・松下村塾の優等生高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛、土佐藩
の坂本龍馬。
維新後の日本国の骨格を作ったのは、当時海外視察をしていた者や脇役で動い
ていた人物が中央の政治に躍り出たのである。
 初代総理大臣の伊藤博文ですら松下村塾では末席の人物であった。
何のための維新改革であるのか、100年先までのビジョンを語る者がいなかった


 お雇い外国人に助けを求めることは悪くはないが判断をするのは日本人である。
ケプロンの報酬は、当時の総理大臣よりも高いものであった。
また、函館までの札幌本道にかかる費用は開拓使10年計画の1/10の投資である。
十勝国開祖である晩成社の依田勉三が、道一本の嘆願書を何度も出しがナシの
つぶてとは大違いである。
 また、官立学校教育の道徳に宗教を持ち込んでしまったことで、鎌倉時代から
培ってきた日本人の思想が簡単に中に浮いてしまった。
欧米かぶれと言われてもしかたがない。これは終戦後も同じことが起きた。
 明治維新以後日本人の思想に大きく根付いてきた悪しき傾向であろう。

 
(写真は、徳川家康の黒印状)


 
十勝国(とかちのくに) 41
 ホーレス・スミス・クラーク
 
 
 日本にやってきたホーレス・スミス・クラークの最初の仕事は、札幌農学校の
学生として応募した若者(東京英語学校及び開成学校より応募)をテストすることだった。

 札幌学校 (札幌農学校の前身) から進級を認められた13人と、応募で合格した11 人
の学生と、クラーク・黒田清隆らは品川を出航し小樽へ向かった。
学生とはいっても、この時代は元武士の崩れたものもおり昼間から酒を飲んで騒ぐものもいた。
船の中で、同船した女性を巡って黒田を怒らせてしまう


黒田は、札幌につくる農学校では、特に道徳教育にも力を入れて指導していきたいと
考えていた。
この話にクラークは「道徳教育は聖書を使わなければ絶対にできない」と力説するが、
黒田は「キリスト教は300年に渡って禁止されていた宗教だ。
まして官立の学校が聖書を使うなんてできない相談だ。」と対立をした。

 
 しかし、クラークは札幌農学校の最初の授業のとき、英語の聖書に一人一人の学生
の名前を書いて渡した。そうして「ビー・ジェントルマン(紳士であれ!)」と要求した。
学生たちに精神の支えとしてのキリスト教の信仰を説いた。
クラークの強い信念に黒田は、聖書を使った道徳教育を黙認した。

ここで流れが変わってしまった。

 (写真は、明治8年の樺太・千島交換条約。黒田清隆が強く北海道開拓を進めることとなった)


 

十勝国(とかちのくに) 40
 官営工場
 
 
ケプロンは東京に滞在していたので北海道訪問は3回だけだった。
しかし、彼の人脈で揃えた各分野の技術者たちの意見をまとめ提案をした。
そのおかげで、中々進まなかった開拓事業は進み始めた。
 大きな事業となったものは3つある。
これらに、お雇い外国人の技術指導が全面的に関わることとなった


第一の事業は、札幌と函館をつなぐ道路の建設である。
日本で外国式に作られた最初の車道であった。これが札幌本道である。
北海道の中心を札幌と決めたので、最大の町である函館との連携を重視した。
開拓使予算の1/10にあたる100万円の投資であった。


第二の事業は、官営工場を作ることだ。
移住した人達に安く生活物資や生産資材を供給することである。
また、加工品を生産して販路をつくることだった。
全道に40ヶ所以上の官営工場を建設した。

 
第三に農学校の開設である。
明治5年4月に、開拓使仮学校を東京に開いた。
鉱物・地質・機械・化学・動植物などの学問を官費生50人、私費生50人の生徒
だった。これが、明治8年7月の札幌農学校として発展していく

(写真は、全道に作られた官営工場の地図である)


 
十勝国(とかちのくに) 39
 二人のお雇い外国人


  ホーマス・ケプロン(67歳)
開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問として日本に来たのは明治4年7月であった。
帰国が明治7年5月なので、4年ほどの滞在である。  

 ホーレス・スミス・クラーク(50歳)
明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の5月に島松の駅逓で「Boys, be ambitious」と別れ
の言葉を残し、自分を誘った新島譲(同志社設立)に会って帰国した。

 短い滞在であったが、この二人の影響で北海道開拓は決定的となった。
 
(写真は、札幌の観光名所でもある羊ケ丘展望台のクラーク像)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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