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十勝国(とかちのくに) 38
 道ができて町ができる 

 北海道の歴史は本来、応仁の乱くらいまで遡らなければならない。
しかし、開拓が始まったのは明治維新後なので歴史は浅いといわれる。
更に、開拓が始まって10年ほどで基本方針ができてしまった。
開拓使の時代は明治15年で終了だった。 
その基礎を作ったのは3人で、黒田清隆・ケプロン・クラークである。

 
 開拓使長官の黒田清隆は北海道開拓にあたり樺太の視察を行っている。
未開地の開拓には、すでに開拓の経験をした国の人たちに支援をしてもら
うことが最善であると考えた。
ロシアの脅威も開拓を急がせた。
その結果、気候も似ているアメリカに出向きアメリカ合衆国政府の農務局
長であるケプロンに白羽の矢を立てた。日本でいえば農林水産大臣である。
局長の職を辞めさせて連れてくるのであるから破格の報酬であった。
それにしても、黒田清隆は一流のヘッドハンターである。

 
 北海道がカリフォルニアに似ていると言われる人が多いのは当然である。
西海岸の開拓シナリオが生かされているのである。
アメリカ西海岸は、まずは道ありきから始まる。
砂漠地帯に道(フリーウェイ)を作り、道の出入り口に大きなショツピングセ
ンターを建設し、その周りに住宅が建てられ、町ができていくのである。 
町は道から始まるのであって、町と町をつなぐのが道ではない。


(写真は、黒田清隆像に刻まれた言葉・札幌大道公園にケプロンと並んである)
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十勝国(とかちのくに) 37
 関寛斎
 

 千葉の東金生まれ、順天堂大前身である佐倉順天堂で
医学を学び徳島で藩医となり、戊辰戦争で名医といわれた
関寛斎である。
余生の安逸を捨て、それまでの全ての財産を十勝の辺境地
に注ぎ込んだ。
 

 北海道開拓にあたっては10年間の周到なる準備をしていた。
四男の又一を札幌農学校(現北海道大学)に入学させる。
更に石狩に農場を開かせ、陸別斗満原野にも先発して入地さ
せていた。
 しかし、この又一と牧場経営を巡って確執がうまれた。
寛斎は、豊頃の二宮尊親のところに何度も訪ねている。
農場を解放して自作農100戸を育てあげたいという寛斎。
農学校仕込みの又一は、アメリカ式大農場をという。
理想主義と現実主義の衝突である。

 
又一と共に10年間斗満で開拓に人生を捧げ82歳で服毒し、
自らの生涯を閉じた。
最後まで、自由人たらんとした者の一流の結末の付け方だった。
寛斎自殺後、9年で又一は行き詰まり、陸別を去ることとなった。


(写真は、陸別関寛斎記念館に保存されている司馬遼太郎の色紙)



 

十勝国(とかちのくに) 36

 明治35年(関寛斎) 
 関寛斎は、十勝国本別村斗満 (現十勝管内陸別町斗満)に
関農場として入植し陸別町開拓の祖となった。72歳の時だった。

  寛斎が入植した明治35年とは、どのような時代であったのか?
 
明治16年に依田勉三が鍬を入れた下帯広村が、監獄の囚人によって
開削され十勝で最初の町となった年である。
明治30年に豊頃に入植した興復社(二宮尊親)は160戸となり、報徳思想
が実を結ぶ年である。
鉄道では小樽から函館までの函館本線の工事が着工され三年後に開通
する。
国では日露戦争に突入する前で、青森の八甲田山で悲惨な雪中訓練が
あった年であった。

 

(写真は、城山三郎が陸別を訪れた時のもの)
 
  星ありて住あり 夢ありて生あり   城山三郎


 
十勝国(とかちのくに) 35
 陸別町 
 
 陸別町とは十勝国と北見国の国境にある町である。
昨年末(2012年)、ユニクロが町民全員約3,000名分の
ヒートテックを贈ったことで話題になった。
ようするに、日本一寒い町である。

 
 明治35年、この厳寒地に開拓の鍬が入れられた。
「関大明神」と慕われた関寛斎72歳であった。
寛斎については、徳富蘆花を始め、司馬遼太郎、 城山三郎など
多くの作家が書いているので詳細は省くが、何故服毒自殺に至っ
たのかを考えてみたい。
 今日の北海道にいたる、分岐点と思もえる。


(写真は、関寛斎が住んでいた斗満駅逓)


 
十勝国(とかちのくに) 34
 ケプロン報文の7条 

 開拓使最高顧問のケプロンが「お雇い外国人」に基礎調査を実施し、
それに基づいた産業政策がまとめられた。それが「ケプロン報文」である。
 

 明治4年11月に提出された初期報文の骨子は次の通り。

1. 北海道の気候や土壌は農業に適しており、また、開発できる資源も豊かにある。
2. 北海道の主都として札幌を考え、札幌から室蘭や石狩までの交通路をつくる。
3. 札幌に工場を設け、機械の力を利用する。
4. 開拓にあたり、地形や地質の測量をおこなう。
5. 北海道に合った農業や生活を、日本の農民がつくりあげることは簡単なことでは
  ないので、欧米の農民を移住させ、それを見習わせる。
 6. くだものの栽培に適した土地なので、各国から苗木を取り寄せ、植えてみる。
 7. 北海道と東京の官園に、付属の農学校を設ける。

 
現在の北海道各地を回ってみると、この時に実施されたものが多いのに驚く。
依田勉三が偶然読んだ「ケプロン報文」に対する先見の明は正しかったといえるだ
ろう。

(写真は、ケプロンと相対して立つ黒田清隆の像)

 
十勝国(とかちのくに) 33
 お雇い外国人 

 十勝国、陸別に入植をした「関寛斎」について述べる前に
「お雇い外国人」についてふれておきたい。

新政府は新しい国づくりのために海外に人材を求めた。
この外国人のことを「お雇い外国人」といい、約20年間で 2690人
の雇用となった。 (何故、このようになったかは別の機会としたい)


 この中で北海道の開拓使は78名の外国人を招いた。
開拓使長官黒田清隆が三顧の礼で迎えたホーレス・ケプロンを
最高顧問とし、外国人技術者たちの代表責任者だった。
各分野に、彼の人脈で呼びよせ6割がアメリカ人となった。
その内、半分は民間の教師だった。

 
 開拓使の国別内訳は
アメリカ人48名、中国人13名、ロシア人5名、イギリス人4名、
ドイツ人4名、オランダ人3名、フランス人1名。


(写真は、札幌の大通公園にあるケプロン像に刻まれている記念の言葉)

 
十勝国(とかちのくに) 32
 ハルニレの木
 
 

 十勝の豊頃町には、ある「ハルニレの木」がある。
豊頃町は知らなくても、この「ハルニレの木」を見たことのある人は
多いのではないかと思う。
日立のコマーシャルで、一本の木に注目されたからである。
十勝川の河川敷に立つこの大木は、2本の木が一体化した珍しい
もので推定樹齢は140年という。



 明治30年に、豊頃に入植した「興復社」は、その後4年間で150戸
に達し、報徳思想に裏打ちされた農民の生産活動は他の開拓地域
に影響を与えることとなった。
また二宮尊親の偉大さは、多くの農場が小作制を試みている中で、
農民の独立を保証し、実現したことである。


 十勝国に最初に入植した晩成社とは雲泥の差がある。
報徳思想が生かされていれば、維新後開拓に入った武士軍団や
晩成社などの素人集団の苦労は軽減されたことだろう。


 明治35年に陸別の斗萬(トマム)に入植した関寛斎では、更にあき
らかになることが出てきた。

(写真は、豊頃町のシンボルでもあるハルニレの木)



 
十勝国(とかちのくに) 31
  日本人開拓のプロフェッショナル


 幕末に大友亀太郎が北海道開墾に派遣された。
二宮金次郎の代行である。
維新後、新政府がお雇い外国人を70数名北海道に注ぎ込んだが、
日本人のプロフェッショナルとして、最初に来道した人物だった。
 

 返す返す思うが、明治維新の新政府は東京での指揮だった。
蝦夷地は、元々アイヌ民族が先住民として生活をしていたところである。
現地で指揮をとらなければ、実情は把握できるものではなかった。

 新政府となり、大友亀太郎は大いに不満であったのであろう。
小田原に帰ってしまった。
 探検家、松浦武四郎も新政府に判官の命を受けるが蝦夷地へ命令が
下されず東京待機であった。辞令を突き返してしまう。
 また、「アッシ判官」と呼ばれた松本十郎は、黒田清隆が探し回るが
厚田のアイヌ部落から出てこなかった。


 屯田兵の宿舎が今も当時のまま残されている。
中を覗けばとても寒冷地では住める建物ではなかった。
それでも、依田勉三たちの拝み屋よりはましであるが。

以前、鹿児島の南端で築180年の民家で泊めてもらったことがある。
屯田兵宿舎の構造と似ており、よくよく住人に「何故この構造なのか」
と聞かせてもらったことがある。南方での住宅で納得したものである。

開拓使長官「黒田清隆」も、屯田兵司令官「永山武四郎」も薩摩藩であった。


(写真は、屯田兵の住宅の中)


 
十勝国(とかちのくに) 30
 報徳思想の継承
 
 

 二宮金次郎の報徳思想が北海道で継承された地区は3ヶ所ある。
幕末の道南地区と札幌地区。そうして、十勝国の豊頃町であった。
 

明治維新の10年前(1858)、江戸幕府の開拓政策に沿って現在の道南、
木古内町と七飯町に開墾で来道した人がいた。
小田原出身の幕臣「大友亀太郎」で、二宮尊徳の門下生である。
亀太郎は田畑の土地開発と、48戸の農家の入植を8年間かけて成し遂げた。



 この実積をもって、石狩国札幌郡(現在の札幌市東区)の開拓に入る。
当時の札幌は原生林そのままで、農民入植地として適切な土地を尊徳の教え
に従い測量を交えて探し、フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を
「御手作場(おてさくば)」として定めた。 
 当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われ、およそ4キロに渡る用排水路の
建設が含おこなわれた。これが、後に創成川の土台となる「大友堀」である。
現在のススキノ近くから水路を造り、伏古川まで通じる用排水路が設けられたこ
とで、街づくりの起点となった。
この一帯が「札幌元村」として定められ、札幌黄を生み出した玉葱耕作である。



(写真は、恵庭にある二宮金次郎銅像で、珍しい草履を差し出す金次郎である)

 
十勝国(とかちのくに) 29 
 二宮尊親 


 明治29年(1896)、二宮尊徳(金次郎)の孫である尊親が牛首別(豊頃)を訪れ
依田勉三と交友が始まる。明治16年以来孤立していた勉三にとっては、ようや
く気持ちが通じる人との出会いであったろう。

 

 二宮尊親(そんしん)は
報徳思想によって農村復興を指導した二宮尊徳の孫にあたる。
幕末に二宮尊徳(金次郎)は藩の立て直しに幕府の要請で指導にあたっていた。

 報徳思想とは、江戸時代末期の農政家二宮尊徳の考えを実践することであり
「以徳報徳」に由来する。

尊親の父親、尊行が相馬藩(福島県)に招かれ、相馬に移り荒廃した農村を救っ
た話はよく知られている。しかし、明治維新とともに藩は廃止となった。
尊親は相馬の農民19戸と「興復社」を結成し、
新天地を目指して豊頃村牛首別に移住したのである。明治30年のことだった。

報徳思想は実を結び、翌年14戸が合流し明治35年までに160戸が移住した。

豊頃町には、二宮という地名が今も残っている。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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