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国道229号 続続 
 義経とアイヌ民族 

 
義経伝説は知床や十勝など全道にあるが、ここでは
江差から小樽までの国道229号の沿線を考えてみたい。
「義経」の話は、アイヌの人たちに好意的に受け取られ
ているということだ。つまり、アイヌ民族は義経に敬意を持ち、
和人たちはそれを利用したのではないかと思える。

 向山誠斎雑記・「丙辰雑綴」によると、1804年(文化元年)の
アイヌ人口は下記に示す通りで松前藩の時代には、この地域
には18ヶ所の場所があった。
(場所とは、アイヌとの交易の場所のことである)
国道229号沿線の町を改めてみてみると、アイヌの人たちが
軒並み住んでいた。
 1804年といえば、国後目梨のアイヌ蜂起1789(寛政元年)後、
東蝦夷地幕府直轄 1799(寛政11)、蝦夷三官寺建立1804(文化元年)
と幕府が蝦夷地に乗り出してきた時代である。


 

向山誠斎雑記・「丙辰雑綴」によると、1804年(文化元年)の
アイヌ人口は下記の通り。

   フトロ   太櫓   78人  

   セタナイ  瀬棚   74

   シマコマキ 島牧   158

   スツツ   寿都   65

   ヲタスツ  歌棄   204

   イソヤ   磯谷   133

   イワナイ  岩内   310

   フルウ   古宇   229

   シヤコタン 積丹   144

   ヒクニ   美国     96

   フルヒラ  古平   205

   上ヲイチ  上余市  201

   下ヲイチ  下余市  164

   ヲシヨロ  忍路   355

   タカシマ  高島   193

   ヲタルナイ 小樽   216


  江差から小樽まで、海岸に沿って北上すると現在の町の名前が
そのまま残っている。また、江差追分の歌詞をなぞってみるのも面白い。
江差から小樽までの道のりは、ニシン漁業とともにアイヌの漁村でもあった。
 
(写真は、アイヌと和人との交易製品で鷲の羽)


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国道229号 続 
 義経・成吉思汗説 

 
現在の国道229号を、けもの道として江戸時代に、和人として
初めて歩いた人物がいた。
文化6年(1809)宗谷を目指し樺太に渡った間宮林蔵である。

 間宮林蔵は幕府隠密を勤めた役人だった。
間宮はアイヌ語を話せたので、日本海沿岸のアイヌ部落を頼りに
北上し道案内をさせたのではないかと思う。
1809年、間宮が樺太を探検し大陸につながっているのではなく島
であることを発見したが、もう一つの目的が幕府から隠密として命
を受けていた。

 それは、義経伝説の真偽を探ることである。
間宮はアムール川(黒竜江)流域の人々に義経のことを訪ねた。
すると「漢土の天使は(清王朝)日本人の末と聞いている。」と答えた
と報告している。
 間宮林蔵の報告を受けて、1823年に日本にきたシーボルトが
義経・成吉思汗説を打ち出す。
シーボルトは自国への報告の必要性からも間宮から蝦夷地のこと
を細かく聞いたものと思われる。
シーボルトがいなければ間宮海峡という日本人の名前は地図上に
現れてことはなかった。
シーボルトは帰国後、著書「日本」を著し、義経・成吉思汗説を主張した。

 
(写真は、稚内公園にある氷雪の門・40キロ先が樺太である)

 

国道229号 26 終点江差

 乙部の町を過ぎると江差町に入り、
国道229号と国道227号の交差点が終点である。
函館から渡島半島の山間部を回って日本海に出る所地点が
国道229号との交差点となる。
これから国道227号は海岸線を走り江差の市街地へと入り終点となる。

 
 小樽を起点として307キロの国道229号線は、
日本海沿岸を走るドライブコースとして快適な道路となった。

 この沿線は、山脈が海に突き刺さるように入り込んでいるため
断崖絶壁が続き、道の開削には崖を切り崩すか、崖と崖の間を
くぐる様にトンネルを小刻みに作っていくことで道をつなぐ方法し
かなかったのだろう。
 従って、明治20年代から進められた旧、旧旧道は事故が多く、
長いトンネル工事の技術が開発されるまで全線開通が難しかった。

 安全な道路に近づくにつれて、絶景の景観は遠くなり、延々とトンネル
を走ることとなった。
 かつて昔、見た景色は今はもう見ることができない。

 
(写真は、国道227号終点地。江差追分会館前)

 
国道229号 25 乙部町その4 
 義経伝説 

  乙部町には、源義経が蝦夷地上陸した時の最初の地であると
いう伝説が残っている。
北海道には100を越える義経伝説があるが、最初に上陸したのが
どこであったか?
 もっともらしく伝えられているので楽しい。

乙部の人たちは

『その昔、九郎半官義経が兄頼朝の追討を逃れ、乙部に蝦夷地
で最初の足跡を残しました。
 乙部には地名としてその逸話が刻まれています。
乙部岳は義経の別名九郎半官から九郎岳、静御前を思いつつも
越えなければならなかった峠は姫待峠と呼ばれています。
 また義経を追って乙部にたどり着いた静御前ですが、義経はす
でに乙部岳を越え、2人は会うことが出来ませんでした。
悲嘆にくれた静御前は、川に移った自分の姿を見て、もうこの世
に生きながらえる望みも力も失ったと、その川に身を投げてしま
いました。
 そしてこの川を姫川と呼ぶようになったのです』


乙部には「九郎岳」、「姫川」の名称の山や川が存在する。

(写真は、乙部の海)


 
国道229号 24 乙部町その3 
 箱館戦争官軍上陸の地 

乙部の町は、箱館戦争で官軍が初上陸した海岸。

 明治元年(1868)10月20日、旧幕府軍の榎本武揚が軍艦「開陽丸」
で鷲ノ木の浜(現森町)に上陸し、箱館へ進軍12月に五稜郭に蝦夷共和国を成立。

 これに対し官軍は、翌年(明治2年)青森で兵力をたて直し、4月9日、
1,500人の兵と「甲鉄」「春日」など軍艦8隻で乙部沖に到着、現在の乙部漁港
付近に続々と兵士が上陸した。


 その後、軍艦から旧幕府軍の陸兵への艦砲射撃などにより江差を奪還。
更に松前道・鶉山道(渡島中山峠)などから箱館へ進軍し、5月18日、榎本武揚
をはじめ旧幕府軍1,000人を五稜郭から投降させ、箱館戦争が終結した。
上陸した場所(現乙部漁港内)に碑が建っている。

(写真は、上陸した地点に碑が立っている)

 
国道229号 23 乙部町その2

 道の駅ルート229元和台(げんなだい)は、日本海を見渡すことができる高台にある。
その展望台の一角に一風変わったモニュメントが建っている。
 
「潮笛」というタイトルの横には次のような解説がある。
 
『寛政7年(1795年)、この地の漁師重兵衛・孫太郎・安次郎が小船
でコンブ漁に出漁中、強風に遭いダッタン(中国吉林省)に漂流、
北京をへて2年後、長崎出島より苦難の末帰郷した。この力を讃え、
岬に打つ波涛と潮風にこめ作品とした』


ダッタン漂流記として、この地に残っている。
「 19世紀になろうとする頃、現在の元和地区に3人の漁師が住んでいました。
ある日、船でこんぶ漁に出かけた 3人は嵐に遭い、ダッタン国(現在の中国吉林省)
に漂着してしまいました。
彼らはその国の役人の指示に従って国内を移動し、
当時の宮殿「紫禁城」(しきんじょう)でやっと日本に帰国する許可をもらいました。
当時は鎖国していた日本のこと、船で長崎についた3人は長崎奉行で厳しい取調
べを受けました。大変な思いをした3人は、北前船に乗って約2年半後に乙部に帰
ることができたのです。」

(写真は、モニュメント潮笛)


 

国道229号 22 乙部町その1

 現在、国道229号には「豊浜トンネル」が二箇所ある。
一つは、余市と古平を結ぶ「豊浜トンネル」だが、もう一つが
熊石と乙部町を結ぶ豊浜トンネルである。
乙部の豊浜トンネルも悲惨な事故の歴史がある。
 

 繰り返してきたが、この国道229号は海に面した断崖絶壁
が連続し、全通したのもそれらを迂回する長大トンネルが完成
したからである。(平成8年まで待たなければならなかった)

 二級国道から一般国道229号に指定されたのは昭和40年の
ことだが、本格的な整備は明治20年代の半ばに始まり、区間
ごとに整備されている。
当時のルートは現在でいうところの「旧旧道」にあたる。
 大正8年には準地方費道「江差岩内線」に指定され、戦前まで
部分的な改修が各所になされた。
戦後、昭和25年から26年にかけて、乙部側から順に豊浜1号から
豊浜8号までの8つの隧道となり、現在でいうところの「旧道」が完
成している。
 昭和28年には二級国道「江差小樽線」に指定された。

 事故が起きたのは昭和37年10月17日午前10時45分頃のことである。
豊浜3号隧道と豊浜4号隧道の間の「明かり区間」において、土砂量
350万立方メートルにもおよぶ巨大な山津波が発生し、たまたまそこ
を通行していた路線バス(函館バス)と警戒に当たっていた開発建設部
の職員を飲み込んで、海になだれ込んだ。
この事故により、死者11名、行方不明者3名を出す大惨事となった。


事故を受けてルート変更が検討され、昭和48年、事故現場を含む
危険箇所を大きく迂回する豊浜トンネル(延長1270メートル)が開通し、
事故現場と昭和20年代に完成した8つの隧道は廃道となった。
(バスは現在も大量の岩塊に埋もれたままである)
 
(写真は、館の岬<たてのさき> 東洋のグランドキャニオンとも呼ばれている)


 

国道229号 21
 熊石町

 大成区からポンモシリ岬を越えると「熊石町」に入る。
この町も平成17年に太平洋側(噴火湾)にある八雲町と合併をした。
そのために、檜山振興局は日本海沿岸を分断する状態で、
北部のせたな・今金と乙部・江差の南部に二分され飛地となっている。
 
 ポンモシリ岬を越えると関内であるが、
この地は元禄四年(1691年)に番所が設けられていたという。

江戸時代の初期には和人地(わじんち)という北海道における地域区分
が存在していた。
主に蝦夷と呼ばれるアイヌが居住する蝦夷地に対して、和人が居住する
渡島半島南端の一帯を指していた。
(後年、和人地は後志国や胆振国山越郡に拡大)

熊石の鰊漁は松前藩の経済基盤を支える産業で、米のとれない蝦夷地
にあっては重要な資金源であった。
更に、初期の松前藩の収入は、アイヌとの交易にあったため和人地に境界
を引き往来を取り締まっていたのである。

そのため、熊石というのは和人地とエゾ地の境界地で当時の日本国最北の地もであった。
 
 鰊漁による蝦夷地の繁栄は江戸や大阪等にも北前船をとおして伝えられ、
熊石にも当時の新しいたくさんの文化が伝わってきていた。
しかし、松前から鰊漁が江差、乙部、熊石と北上し、とうとう鰊漁が慢性的不漁
に陥ると、蝦夷地に和人が北上し漁労に出るようになっていく。

 (写真は、アイヌのシャチ跡分布)


 

国道229号 20 大成区

 せたな町は、瀬棚と書かれるほうが馴染み深い。
平成の合併で平成17年に3つの町が合併してできた町だ。
瀬棚郡北檜山町が町役場を、瀬棚郡瀬棚町が町名を、九遠郡大成町が
郡名をそれぞれ引き継ぐ形となった。
 
 一番南にある大成区に、創立は1441年と言われている大田山神社がある。
571年も前のことである。
松前藩の始祖武田信広が太田に上陸した際、航海の安全と霊神の加護
として太田大権現の尊号を賜り信仰されているという。
しかし、この神社はそう簡単には行くことができない。
社殿までの道程は急勾配の階段を始め、両側に設置されたロープを使わ
なければ登れないという道南五大霊場の一つである。
探検家松浦武四郎や札幌定山渓温泉の開祖美泉定山もかかわった記録
が残っている。


また、国道229号を南下すると小熊に親熊が手を伸ばしているような姿に
見える奇岩が見えてくる。

親子熊岩物語の伝説

「大昔、この地に天変地異をもたらす大嵐があり、
生物の生存をおびやかし、自然の猛威は飢餓という試練を与えた。
この頃、山奥に親子の熊が棲んでいたが飢えをうったえる子熊を連れ、
海岸に辿りついた。
親熊は海岸に群れる子蟹を見つけ食べさせていた。
子熊も親のしぐさを真似て子蟹を追ったが、一瞬のうちに岩をすべり
海中へ・・・・・親熊は夢中で溺れる子熊を助けるため手を伸ばすがぬ
れた岩に足をとられ、無残にも海中へ・・・・・
一部始終を見ていた海の神様は、子を思う親の愛の深さに心をうたれ、
溺れる親子熊をすくいあげ、愛の姿をそのままに岩に変身させたのだった」
 

国道229号は、鰊で栄えた街道なので多くの伝説が残っている。


 

国道229号 19  せたな町

 島牧村の海岸国道229号を走り抜けて茂津多(もった)トンネル
を出ると瀬棚町である。
狩場山を中心とした山岳地帯で、これが日本海に落ち込むところ
に茂津多岬がある。
茂津多トンネルを抜けるまでが「雷電国道」、その先は「檜山国道」
と呼ばれる。せたな町は平坦部が少なく、海岸に近づくにしたがって
起伏する段丘となり、大半が草地地帯。
また、総延長約77.6km の海岸線は変化に富んだ奇岩、絶壁が多く、
狩場茂津多道立自然公園に指定された景勝地である。
道南の函館市までは約120km、札幌市までは約200kmの距離にある。



 この町も江戸時代から鰊で栄えたところで「セタナイ場所・スッキ場所」
と呼ばれていた。
瀬棚港は明治中期から、函館から小樽航路の寄港地、農・水産の
集積基地として栄え、戦後埠頭も完成し、現在では奥尻へフェリーも
運航している。
また、この瀬棚には鉄道があったことを知る人は少ないだろう。
昭和7年に国縫~瀬棚間が開通し、昭和22年ころまで木材の出荷で
にぎわう。昭和62年幕を閉じた。

 
 瀬棚といえば萩野吟子である。
明治27年日本で最初の女医となった萩野吟子が移住し、産科・小児科
萩野医院を開業した町である。
渡辺淳一伝記的小説『花埋み』で、NHKテレビ「風雪」などで紹介された。
この瀬棚郷土資料館は一見の価値がある。

 
別な機会に開拓移民を紹介したいが、明治3年に須築に旧会津藩士高橋新衛門他12戸が、翌年には斗南藩士が、明治25年には福島県丹羽団体が入植している。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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