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国道229号 18 島牧村

 弁慶岬を過ぎると日本の渚100選にも選ばれた
美しい海岸線の島牧村に入る。
島牧も鰊の採れたところで松前藩はシマコマキ場所を開いていた。

 また、御多分に洩れず交通は難所の陸路であった。
渡島国から天塩国への途上、南の瀬棚郡から狩場山
(標高1,520m道南最高峰)・茂津多岬(伝説を秘めた
奇岩怪石や大絶壁が続く景勝地)が難所となって島牧
へは舟に頼っていた。

 安政年間(1854年)に江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の
商人松前屋庄兵衛らが私費を投じ須築(現在の久遠郡せたな町)
からコタニシ(現在の島牧郡島牧村原歌のあたり)に至る狩場山道
を開削し陸路での移動を可能としたとある。
これが現在の国道229号の前身である。


 1997年8月25日午後2時30分頃、島牧村持田の
国道229号第2白糸トンネルの瀬棚側坑口で大規模な岩盤崩落事故があった。
更に、28日午後1時30分頃に2回目の崩落が発生し、
前年の2月10日におきた古平の「豊浜トンネル」の約5倍規模の岩盤崩落だった。

 しかし、幸いなことに崩落のあった区間は交通量が少なかったこともあり、
巻き込まれた車両などは無く犠牲者は出なかった。
この崩落事故で、隣にある第1白糸トンネルも崩落の危険性があるということで、
復旧は山側に大きく迂回するトンネルを新たに建設することとなった。
平成11年4月8日に新トンネルが供用開始となり、1年8か月ぶりに島牧と瀬棚が
行き来できるようになった。

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国道229号 17 弁慶岬

寿都の市街地を過ぎると政泊に達し、寿都と島牧の
境界に突き出た岬が弁慶岬である。

 更科源蔵の「アイヌ語地名解」によれば、この岬の先端が
裂けたようになっていてこの岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)
と言ったのを和人がベンケイとなまったという説。
 松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、ここをベニツケウと称し、
その形が獣の背に似ているところから付けられたという説。
 
 一方、義経伝説は武蔵坊弁慶が甲冑を曝されたところで
弁慶岬ともいう。奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、
この地に滞在していた。
 弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って
蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端
に立って海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることは
できなかった。
 そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことを、弁慶が
同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶岬と呼ぶよう
になった伝説が残り、その姿を再現した銅像が建てられた。

昭和63年、弁慶岬に高さ3.6mの大きな弁慶像が建てられた。
台座にはこの地で援軍の船の到着を待っていた弁慶の気持ちを表わす
「想望」の文字が台座に刻まれている。



 
国道229号 16 寿都町

 雷電トンネルを抜けると、そこは江差追分の

「忍路高島 及びもないが せめて歌棄(うたすつ) 磯谷(いそや)まで」

と唄われた寿都(すっつ)の古い海岸線に入る。
寿都町には、磯谷から政泊までの229号線に9の海神社がある。
この町も長い歴史を持つ鰊で栄えた港町だ。

歌棄(うたすつ)には「追分記念碑」があり、
向かいあった場所には明治12年に橋本与作が建てたといわれる
「鰊御殿」がある。
橋本与作は仕込屋というのは網元や漁師に品物や金を貸し、代金
を数の子、身欠鰊、鰊粕等で返済してもらってこれを売る商売。
創業者橋本与作は長栄丸、金栄丸など五百国積みの自家弁財船
で膨大な利益をあげ、当時で最高級の家を建てたのがこの建物。

また、義経の家臣、佐藤継信の末裔(まつえい)が建てた漁場建築
「佐藤家」がある。
この建物には現在も人が住んでおり、ニシン場時代の資料や文献
が保管されている。佐藤継信は源平屋島の合戦で義経めがけて飛
んできた矢を身代わりになって受け、戦死した忠臣といわれている。

建物内の長押には、家紋の「源氏車」をかたどった金具を打っている。
佐藤家は、嘉永5年(1852)以降に歌棄、磯谷二場所の場所請負人
を勤め、維新後は駅逓取扱人を命ぜられた同地方随一の名家。
積丹半島開発および漁法改良に尽力した開発功労者としても著名である。

(写真は、佐藤家)





 国道229号 15 雷電岬

 北海道の海岸線は源義経の伝説だらけだが、岩内から寿都に入る
雷電峠も例外ではない。
この峠も北海道難所の一つだった。
それゆえ伝説「義経雷電越え」の伝説が生まれ、雷電岬の突端の
刀掛岩も弁慶にちなむ。

昭和38年に雷電トンネルが開通し、国道229号で寿都方面への通過が
平坦なものとなった。

「雷電」地名の由来
    源義経伝説。
義経一行が日本海に上陸をし、この雷電の山間でアイヌの襲撃
に遭い囚われるが、このアイヌの酋長の娘と恋仲になり、別れの朝
「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」

と告げ「来年まで待っているわ」 二人の交わした「らいねん」が
いつからか「雷電」の 地名になったということ。定かではないが。
 
(写真は雷電海岸のカスペの岬にある有島武郎文学碑)




 

国道229号 14
  岩内町 

泊村を過ぎると岩内町である。
岩内も古い漁港で、往年は江差とともに千石場所といわれ、鰊の漁期には
内地から数千人のヤン衆が入り込み賑わいを極めた。
東京から歌舞伎の吉右衛門でも幸四郎でも興行を打ったと言われるほどの
由緒を持った町である。
また、文豪の往来も激しく幸田露伴、巌谷小波なども縁があり、
この町に夏目漱石の本籍もあったという。林芙美子も「アスパラガス」発祥の地
としての原稿もある。

しかし、何といっても小説でいえば
有島武郎「生れ出づる悩み」、八木義徳「漁夫画家」、水上勉「飢餓海峡」であろう。

これらが今は美術館や石碑として残り過疎を避けられないが、
隣村の原発のおかげで民宿と飲食街だけは群を抜いている。


(写真は、岩内から見た泊村原発3基と岩内郷土資料館)






 

国道229号 13
 泊村

泊村といえば、今は北海道唯一の原子力発電所基地である。
この村は明治に入ると50を越える鰊番屋があったといわれる。
「鰊御殿とまり」は必見の価値がある。
水産庁「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選定
されている建物で、「旧川村家番屋」と「旧武井邸客殿」を復元
したものだ。
また、小樽の祝津高台にある鰊御殿も泊村にあったもの。
明治24年、泊村の鰊網元田中福松氏が明治30年に竣工した
建築物で、昭和33年小樽市に移築された。
 
しかし、泊村は鰊に加えて北海道最古の石炭の町である。
今でも泊村のパンフを見ると、エネルギー発祥の地とあるのは
このためである。
安政3年(1856年)、一漁夫によって茅沼の山中で「燃える石」
が発見された。これが茅沼炭鉱である。
昭和39年に閉山になり、108年の歴史を閉じた。
だが、北海道で初の原子力発電所の計画が昭和42年に北海道
(当時町村金吾知事)が泊村、島牧村、浜益村の3村を建設候補地
として発表。
昭和44年に原子力発電所の建設予定地が共和・泊地区に決定された。
(後は、泊原子力発電所のカテゴリーへ)

(写真は、鰊御殿とまりの郷土資料館)



                                                国道229号 12
 西積丹 
                                                                                                                 平成8年11月1日、積丹町沼前―神恵内村川白間6.7キロが開通し、
ようやく全線が開通した。
6.7キロに西の河原トンネルなど4つのトンネルが造られ、この区間
の半分を超えている。
それだけ神威岬を回る道路の建設は困難を極めた。

                                                                                                                   積丹岬・神威岬を挟んで、
余市からの東積丹はシリパライン、
岩内からの西積丹はカブトラインと称している。
西積丹は、ニシン漁場としては東側よりも早く開けた。
難所の神威岬のせいであるが、その時代の拠点は岩内で神威岬
に通じるには岩内港から船であった。  
                                                                                                                   国道229号は陸上距離:307.0km。
トンネル76ヶ所は国道として全国一の多さ。
他に覆道73ヶ所、橋梁133ヶ所。
道の駅は9ヶ所。
スペース・アップルよいち(余市町)、オスコイ!かもえない(神恵内村)、
いわない(岩内町・道道270号)、イェルプラザ・港(蘭越町)、
みなとまーれ寿都(寿都町・道道9号)、よってけ!島牧(島牧村)、
てっくいランド大成(せたな町)、ルート229元和台(乙部町)、
江差繁次郎浜 (江差町)  
                                                                                                       (写真は道の駅オスコイ!かもえない。平成16年9月の台風18号の高波の被害を受け、長らく閉鎖していたが、解体と建て替えで平成22年4月24日から営業を再開した)


                                
  国道229号 11

 神威岬/女人禁制   


 神威岬は断崖の高さ80mで、今は先端の灯台まで遊歩道が
続いている。
遊歩道は女人禁制の門をくぐり、まるで恐竜の首の上を伝って
いくようだ。
海の透明度は20m以上、日本海有数の海の難所といわれ、
義経伝説にもなっている。 

 むかし、この岬から北へ行くものはワラ人形や神酒を海神に
捧げて航海の安全を祈り、婦女子の通行は海が荒れるという
理由で許されなかった。
松前藩が奥蝦夷の資源を秘密にするための政策だとも言われ
るが、とにかくこの岬から先は女人禁制であり、従って移住者が
入ってゆくこともできなかった。
 
 女人禁制が解かれたのは、蝦夷地が松前藩から幕府直轄に
なった安政年間で、蝦夷地各地へ妻子を連れての移住が奨励される。
安政3年(1856)に宗谷に赴任した梨本弥五郎という役人の妻子が、
神威岬通過の第一号だったといわれる。

(写真は、女人禁制の門)


                                                 国道229号 10
 神威岬/念仏トンネル 


 三浦哲郎(忍ぶ川で芥川賞)の小説で「愛しい女」があるが、
神威岬の描写が見事で念仏トンネルを通った者には懐かしい。   
                                                                     【やがて神威岬の付け根のところにあるお土産屋を兼ねた食堂
でジープを降り、岩鼻をめぐる小道を歩いた。

(中略)ようやく断崖のあたりに、トンネルが黒い口を開けているの
がみえた。念仏トンネルである。

(中略)荒削りで天井が低く、洞窟にでも入っていくような気がする。
やがてトンネルが鉤の手に折れると、あたりは全くの暗闇になった。

(中略) トンネルを抜けると、目の前が茜色の陽が砕けている入海で、
そのむこうに、左手から弓なりに海へ突き出ている神威岬と、
その前方の岩礁地帯に石地蔵のように立っているメノコ岩が、
黒々とみえていた】   
                                                                                                  
 念仏トンネルは現在立入禁止となっているが、以前は神威岬に行く
にはこのトンネルを通る必要があった。
このトンネルは、大正7年に開通となったもので全長60メートル。                                                        大正元年、神威岬灯台守の家族がワクシリ岬付近で荒波にさらわれ
死亡するという事故が起きたのを契機に、土地の人々が大正3年に
着工した。
両側から手掘りで掘り進むうちに食い違いが生じ、工事が中断したが
念仏を唱えて鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が分か
り工事が再開できたと言われている。
このため、途中で2度折れ曲がっており、内部は真っ暗である。
 
(写真は、念仏トンネルの出口が見える) 


                                                国道229号 9
 積丹岬(島武意海岸)     

 美国を過ぎて半島高台に入ると、間もなく道道913号
野塚婦美線がみえてくる。
並行する国道229号よりも海岸線に近く幌武意集落に
入り入舸に至る。
積丹岬は、東に遠く余市のシリパ岬、西には神威岬を望む。
この岬の一般的な遊歩道コースは、幌武意から入舸へと
結ぶ4.7キロのことである。 
            
                                                                               
 積丹岬の中間地点に人間が立ったまま通れる小さなトンネルがある。
この薄暗いトンネルをくぐると、眼前に広大な海原が忽然と開ける。
眼下の海の中には絶壁から転がり落ちたような巨大な岩が突き出ている。
蒼、緑、群青、碧玉の色をした日本海が広がる。
透明度が高く「日本の渚百選」にも選ばれた島武意海岸である。


(写真は、展望台から見える島武意海岸)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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