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「琴似屯田兵村」12542142d6.jpeg


明治政府の東北処分 4

 

明治85

 斗南、庄内の人々が琴似に入って4日後に今度は
仙台亘理の92戸が入地し、兵村は急に賑やかになります。
 亘理の人々は既に屯田兵制度に先立って、主従一体となった
胆振有珠の開拓を進めており
(この開拓が、今日の伊達市の基礎を築くことになる)、
その意味では、北海道の事情については少なからず知識があった
ものと考えられます。
また仙台藩の特徴である地方知行制にもかかわりますが、亘理では
半士半農の生活をしていた者も多く、開墾ということでも知識のある者
が多かったといわれています。

 

 ともあれ、これにより兵屋59番から66番までに酒田県人、
67番から115番までに斗南藩の人々、106番から206番までに仙台亘理の
人々が落ち着いたことになります。
現在でも毎年527にとりおこなわれる琴似神社の春祭は、この最初
の屯田兵が琴似に入地した日を記念したものです。

 琴似屯田兵が現役としての役目を終えるのが明治243月。
16年間にも及ぶ兵役でした。
このあと予備役が286月までの4年、それを終えると後備役に編入され、
徴兵令の施行に伴い、明治37年屯田兵制度廃止を迎えます。
琴似兵村は琴似村になりました。
屯田兵制度のスタートからゴールまでを経験したのは琴似兵村ただひとつでした。

 琴似に初めて屯田兵が入地した明治8年から50年後、大正13(1924)年の調査
によると、琴似の旧屯田兵在村者は30戸とされています。
実に87.5%の人々が琴似を去っていったのでした。
転出した人々の大半は在留者と音信がとだえてしまったといいます。
 その年、琴似入植50年を記念して記念塔が立てられました。
琴似神社の境内に立つこの記念塔には、琴似屯田兵240すべての名前が刻まれています。


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「琴似屯田兵村」111f88cc76.jpeg


明治政府の東北処分 3

 

最初の屯田兵、琴似へ

 初めの屯田兵として琴似へやって来たのは、
 斗南藩と庄内藩(酒田県)の人々でした。

彼等には明治8513日までに青森港へ出頭せよとの屯田事務局の通知が
既にわたっており、集まった第一陣223名には同日「乗船の注意書」が手渡されます。
 注意書には乗船の順番のほか、「便所の以外の場所で、大小便をしてはならない」
といった細かな事まで記載されていました。

 移住者の多くは、蒸気船に乗るのは初めての経験だったのでしょう。
また、これから向かう北海道のことなどほとんど知識がなく、ましてや「琴似」というの
が、一体どんな場所なのか想像もできませんでした。
 さて、翌14日午後3時に一行をのせた通済丸は青森を出航し、2日後の16日に小樽
に入港します。彼等はその晩、小樽の宿屋、芝居小屋などで一泊しましたが、この時、
これから入居する兵屋の番号のくじ引きも行われました
 翌17日、小樽を徒歩で出発した一行は、銭函を経て36kmを踏破、琴似に入地したの
は午後6時頃と記録されています。
 琴似に着いて彼等がまず見たのは、整然と建ち並ぶ兵屋でした。

「開拓使最初の屯田兵」に以下のような記述があります。

「時は本道は草萌え出ずる頃、亭々たる柏の密林の中に建てられたるささや
かな此の兵屋に落ち付き、遥か故郷を後にして始めて蝦夷地の風景に接した
人々は、荒涼寂漠たる感があったが、これ我が住居なりと思へば、いささか慰
められ安堵の思を為し、将来に対する希望が湧き出たといふことである」




「琴似屯田兵村」10b969900e.jpeg


明治政府の東北処分 2



 明治4年には廃藩置県が行われ、藩から県に行政が変わっていましたが、
明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」の募集は「仙台」「斗南(旧会津)」「庄内」
という東北戦争に破れた藩が対象であることは明らかです。

屯田兵制度は北方防衛、開拓、士族の授産が目的だったといわれていますが、
まず新政府としては、官軍にはむかった東北地方の士族を北海道へ移住させ、
不平分子の芽をつみとろうという意図があったのでしょう。

 現実として、明治18年以降、東北以外の諸県からも屯田兵の募集が行われ
るのですが、この時の東北士族達の心情としては、まさに「島流し」の感があっ
たに違いありません。
 さて、その召募の条件は、18歳から35歳迄の身体強壮な者とされ、応募者には、
家屋のほか、鍋、釜、寝具などの生活用品、農具が支給され、入植から3年間は
給助米があるとされていました。
 これは少なくとも屯田兵にさえ志願すれば、餓死することは無いという保証でもあ
りました。
しかし、先祖伝来の故郷を離れ、見知らぬ寒冷地へ、しかも開拓という経験したこと
のない作業へ従事するということは、よほどの決心が必要だったでしょう。

屯田兵に志願した人と残る人との間には
「水杯を交し、お互いの無事を祈った」「泣きくずれて、別れの言葉も言えなかった」
などという逸話が数多く残されています。




「琴似屯田兵村」9e678c74d.jpeg


明治政府の東北処分 1

 

 東北戦争後、仙台62万石は、半分以下の28万石に減封。

会津に至っては、23万石から3万石に減封
の上、下北半島の斗南(むつ市田名部)
へ遠流のように移封と、明治政府の東北処分は過酷を極めました。

 会津藩士が移住した斗南の地は、多くが火山灰の不毛地か、泥炭地に葦が群生する湿地帯で、
公称としては3万石ですが、実収は7500程度であったといわれています。
 この地で、なにより大変だったのは食料の確保でした。
はじめ一人一日三合の扶持米が支給されることになっていたのですが、凶作などの理由で、支給
が減らされたり、遅配が続いたのです。
このため、大豆ばかり食べるので「はと」あるいは「干菜(保科にひっかけて)も食えぬ」と地元民
からかわれたという話や、餓死をまぬがれるため犬の死骸なども食べたという記録も残されています。

 また仙台藩においても事情は同じでした。
仙台藩は移封こそまぬがれましたが、大幅な家禄制限と知行制度の廃止を余儀なくされ、
一門一家には一律の俸禄制がとられました。
 かつて24千石だった亘理は、一門の扱いで585
これで、7800人といわれる家臣を養うのは不可能でした。
 このように東北の藩士達は、賊軍の汚名を着せられ、日々の生活の糧もままならぬまま、
明治という近代を迎えたのでした。

 こうした状況の中で、明治政府の北海道開拓使は、明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」
を召募する旨の通報を「宮城」「青森」「山形」の三県、及び北海道の館藩に発送します。





「琴似屯田兵村」88c60c5f7.jpeg

 

伊達政宗の時代には
 一時期、会津(黒川城)すらその領土の中にあり
   (現在でいえば宮城県の南半分、福島県の浜通りを除く部分、
    山形県の南部、新潟・栃木の一部までが領土だった)、

  軍事指揮下にある隣国を加えると、およそ東北の半分が
 伊達の勢力だったことになります。
   (幕末期は625千石、実高100万石といわれる)

 「伊達四十八館」という言葉があるとおり伊達藩の領地は、藩内の
要地に「要害」という城に準じる館を置き、「一門」などと呼ばれる伊達家の
重臣がそれぞれ土地と人民を治めるという地方知行制がとられていました。
 これは藩の中にさらに諸藩があると考えればわかりやすいでしょう。

 例えば亘理を治めていた成実は、一大名のように自らの土地と家来を持ち
ながら、同時に重臣として上部の伊達藩の中に属していたというわけです

(ちなみに、成実は伊達政宗のいとこにあたり、片倉小十郎とともに年少の頃
から政宗と行動を共にしてきた政宗の最高の重臣)。

 このような大藩・仙台藩をもって、会津討伐の先ぽうに当たらせようと考えた
 のが新政府でした。




「琴似屯田兵村」7f9b363ef.jpeg

 

会津藩の藩祖は「琴似神社」に祭られている保科正之です。

 徳川二代将軍秀忠の私生児として生まれた正之は、
 思想家としても異彩を放ち、独自の神道の立場から
「皇室尊崇」と「徳川家への絶対髄順」という思想を持つに至ります。

 琴似屯田兵を出身地別にみると、一番多いのが仙台藩亘理の人々です。

 会津藩祖保科正之とともに
 琴似神社に祭られている伊達成実は亘理藩の藩祖ですが
  (厳密には仙台藩亘理の知行主)
 仙台藩を語る時、まずその特殊な藩の行政に目をむけなければならないでしょう。
 
 仙台藩はご存じのとおり東北の覇者、伊達政宗を輩出した英雄の末裔で、
 加賀藩(前田家)、薩摩藩(島津家)に次ぐ大藩でした。




「琴似屯田兵村」64919e40a.jpeg

 

入植者はどんな人達だったのか

 

 琴似屯田兵になったほとんどの人達が、明治維新の際
「賊軍」とされ、いわれなき差別を受けた東北地方の武士達
だったのです(主に仙台藩亘理、次いで会津藩)。

 屯田兵は「官軍」と呼ばれた薩摩などの人達が士官として命令
を下すなか東北地方からやってきた屯田兵は、ほとんどが当初
兵卒(軍隊でもっとも下の位)として扱われました。

幕末京都の治安のために文久2年(1862年)京都守護職がおかれ
会津藩主松平容保がこれに任命されるのですが、ここで登場するのが
後に「琴似屯田兵」として一部の人々が琴似へ渡ることになる会津藩
の人々です。


  なぜ京都の治安維持を任されたのが東北の会津藩だったのか?
理由は、薩摩、長州、土佐等の兵力に対抗できる親藩(徳川家の親戚にあたる藩)
として、その藩秩序においても勇猛さにおいても、会津藩は幕府に絶大な信頼があった
からです。




「琴似屯田兵村」5c9066da8.jpeg

 

 琴似の地が、なぜ日本初の屯田兵村に選ばれたのか

1.    開拓使本府のある札幌に近かった

2.    小樽との流通もチェックできる場所であった

3.    以前から開拓が進んでいた土地であった

  琴似の地は安政年間より調査が進められており、開墾の適地として
注目されていましたし、兵村が出来た明治7年には既に本願寺移民などの
一般入植者が、この地で開墾をしていました。

 第一弾の屯田兵村をこういう地につくり、確実な成功をおさめることで、
後の道内各地の兵村設立のはずみにしようと考えたともいえるでしょう。



「琴似屯田兵村」46d9446df.jpeg

 

屯田兵の設置は、明治8年の琴似兵村に始まって
明治32年の士別、剣淵兵村
までおよそ25年間に渡って行われました。

 開拓使が廃止される明治15年までは、琴似、山鼻の2兵村と、
江別太、篠津太の2試験地
に設置されただけでしたが、以降陸軍省の
所管となってからは、実に34兵村が建設されました。

 初期の兵村は、札幌本府の警備と北辺の守りを固めるために、
全道の主要港湾の防備を目的としていましたが、後期になると営農を重視して、
石狩川の流域に集中して兵村が置かれました。

 その数は、全道38村、総戸数7,371戸、兵員およそ39,000でした。




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屯田兵の由来

 

 「屯田兵」という制度は元々日本のものではありません。

「屯田」という名は中国からきたもので、漢の武帝が中国の西域地に
田卒という名の兵士を置き、その地に駐屯させ外敵を防ぐ
「屯田」
設置をしたことに始まります。

 また、帝政ロシア時代のコザック兵は有名で、ロシア領内の辺地の守備
と地方開発にあたっていました。

 特に、北海道に本格的に屯田兵を設置するにあたっては、
後々初代第7師団長となる
永山武四郎がロシアでコザック兵の制度を調べ、
これを参考にして屯田兵拡大の具体策を立てています。

明治21年(1888年)6月にロシアより帰国した永山が、屯田兵本部長を兼ね
つつ北海道庁長官に就任すると、屯田兵の改革・増設計画が急速に進みました。




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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