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十勝国(とかちのくに) 28
 十勝分監創立 

 1895年(明治28)4月1日、
北海道集治監としては最後になる五番目の十勝分監が開庁した。

刑期12年以上の重罪犯を収容するので、入所は多いが出所する者は少ない。
十勝分監の所有地は、現在の帯広駅北部の十勝川から、柏林台団地・競馬場
・緑が丘・駅南・自衛隊・南町・自由が丘などすべて、南部一帯は囚人により
農耕地として開拓された。 
当時の一般住民は上川・河東・河西の三郡で約800人。
これに対して、十勝分監は囚人1200人、職員500人で倍の人数が一挙に帯広
に流入した。
 

 現在の大通(当時は監獄道路と呼ばれていた)が整備され、市街地誕生の基礎
となった。
更に、勉三が嘆願していた大津までの道も囚人によって開削された。


 以後、下帯広村は、明治35年(1902)に十勝で最初の町となり、
昭和8年には市制が施行された。
これらの土地は明治40年に鉄道が開通し、徐々に土地所管換えをして昭和51年
に全て市に明け渡されることとなった。

(写真は、十勝川河口付近)
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十勝国(とかちのくに) 27 
 「開拓の始めは豚とひとつ鍋」


 晩成社が最初に鍬を入れた場所に「帯広発祥の地」の碑があり、
 「開拓の始めは豚とひとつ鍋」が刻まれている。
この句は明治17年、幹部の渡辺勝が「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋」
と詠んだ句に、勉三が「開拓の始めは豚とひとつ鍋」と返したものである。
 晩成社は実質的にはこの時に分解していた。


 翌年、 帯広の開拓に行き詰まった依田勉三は、当縁村(現大樹町)に
移り牧畜業を始めた。
1900haという土地の払い下げを受け、家畜を青森に買い付けに行き、
40頭を船で大津まで運んできた。これらの事業も国の補助は一切なかった。

 明治23年には、牛は130頭、馬40頭を飼育するまでになる。
牛の乳をしぼり、バターやチーズをつくり、牛肉の缶詰まで製造した。
しかし、晩成社には販売の見通しがなかった。
十勝はまだ陸の孤島である。
人口が増えている札幌までの道が開かれるのは明治40年である。


 明治27年、肉の販路を求めて函館に肉屋を開業したのである。
店員として採用したのが後の妻となるサヨである。ところが、牧場から
生体で輸送した家畜は、黄金道路―日高路―噴火湾沿いで函館に
ついたが、日数でやせ細っていた。
 勉三はサヨを伴い当縁村(現大樹町)に戻った。


 
(写真は、更別にある十勝スピードウェイ)


 
十勝国(とかちのくに) 26
 三県一局時代 

 晩成社の不運は明治15年に開拓使が廃止となり、
札幌県・函館県・根室県の三県一局と重なったこともある。
十勝国が札幌県の行政区画となった。
札幌と十勝は山脈の遥かかなたである。
更に、この三県も明治19年には廃止され道庁制度が設立される。
勉三の嘆願書は、紙くずでしかなかった。
 
 晩成社は政府が進める移民制度と異なるのは、全て自費であることだ。
これは、明治3年に北海道に渡った仙台藩と同じである(伊達・当別など)。

屯田兵は建物・生活の道具・食料は入地時支給される
(一棟200円で現在の伊藤組が請け負っていた)。
更に戸数は100~200単位で多数の仲間がいた。
道路は囚人よって開削されていると雲泥の差があった。


 勉三は、大津港まで道の開削を政府に何度も嘆願書を送るがナシのつぶて。
帯広と下界の連絡は大津まで出ていかなければ繋がらない。
手紙も米・味噌・塩などの食料を伊豆から送ってもらうが、引き取りに行くには
2~3ヶ月に一回のありさまだった。 
 輸送が絶たれており、蚊・ブヨ・アブに悩み、そうしてバッタの大群、衛生環境
の悪い中でマラリヤ病であった。 
 
(写真は糠平で、ミヤママタタビ・葉が白からピンク色に変わる)


 
十勝国(とかちのくに) 25 
 バッタの大群 

 明治16年、晩成社は現在の国道38号と南6丁目線が交差する
あたりに最初の鍬を入れて開拓は始まった。
しかし、早くも開拓の現状に驚き3戸4人が逃亡する。
10月には鈴木親長・カネ・弟の文三郎が入地した。
だが、逃亡して伊豆に戻った者の噂で第二弾の応募者はなかった。
更に、最悪なことにバッタの大群が襲い根こそぎ収穫を失った。

 明治16年8月4日の晩成社幹部の鈴木銃太郎の開拓日記に
次のように記されている。

「晴れ。
午前9時突然蝗虫南ウレガレップ地方より来り空中に飛揚す。
移民く石油の空缶銅盥等を鳴らし或いは炬火を焚き専ら防禦す。
然かも遂に蝗虫罹り穀菜皆無野に草色を見ざるに至れり。」  

 地中から掘り出したバッタの卵や成虫は積み上げられ、
土をかけて固められて塚状にされた。
この塚はバッタ塚と呼ばれた。
十勝の蝗虫は、明治12年から18年にかけて大発生した。
その群れは日高、胆振や札幌方面にまで飛来した。
16年から17年は渡島、釧路地方にも及んだ。

(写真は、足寄湖)


 
十勝国(とかちのくに) 24 
 幌泉(襟裳岬)
 
 

 襟裳岬という名前は、アイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)または
「エリモン」(うずくまったネズミ)からという説がある。
しかし、この地区は幌泉(ほろいずみ)と言われていた時代が長く、
現在も1町(えりも町)で幌泉郡といわれている。

 襟裳岬は島倉千代子・森進一の歌で全国区となり、
昭和45年に「幌泉町」から「えりも町」と改称された経緯がある。
岬の名が町名となったのである。
本町から岬までは15キロで一帯はまさに何もない草原である。


 余談ではあるが、森進一の「襟裳岬」が大流行していた
昭和40年代後半は、苫小牧からの日高本線終点「様似駅」で、
バスに乗り換えて岬を目指す若者が年間40万人に達した。
岬にあった(今は民宿せんばとなっている)ユースホステルは
連日満員で廊下や屋根で寝ていた若者もいたという。
 その後、この岬がブレークするのは平成13年(2001)の
「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」だった。


機会を持って苫小牧から襟裳岬までの旅も連載してみたいと思う。
この区間も埋もれた歴史が連なっている海岸である。

(写真は、日高線終点の様似駅。ここから襟裳岬までバスで1時間)




 
十勝国(とかちのくに) 23 
 海路を選んだ人たち
 
 

 海路で大津港に向かった一行も容易な船旅ではなかった。
函館から船に乗った11名は、日光丸が風帆船で出帆して6日目、
海がないで進まず、幌泉(襟裳)の入江に寄った。
 襟裳岬でさえぎられた潮流が複雑な渦となり、この岬特有の
強烈な突風が吹き始めた。

上陸しろと叫ぶ者、船から飛び降りかける者と、船の上は修羅場
となった。決然と錨綱を切って帆をあげた船長の英断がなければ、
船はこなごなに砕けていたという。
 結局、11名は猿留(今の黄金道路)で船を降り二手に別れ、海づ
たいに大津を迂回し、アイヌ人に支えられて5月14日にたどり着いた。
一ヶ月の旅だった。



 海路を選んだメンバー 
 ・渡辺勝         晩成社幹部   
   ・山本初二郎(48)   農商・炭焼
              妻トメ(46)    長男金蔵(13)    次男新五郎(6) 
   ・土屋広告(24)       農業   
   ・山田彦太郎(32)   農商 農業
             妻セイ(27)  長男建治(4)   次男扶治郎(1)  
   ・高橋金蔵(52)       農業 


 4月11日に函館に27名が到着してから、帯広に全員が揃ったのは
40日後の5月20日だった。

(写真は、襟裳岬の百人浜)


 
十勝国(とかちのくに) 22 
 陸路からの幌泉(襟裳岬)
 

 襟裳から十勝国の入口である広尾に至るには、
幌泉(現えりも町)から庶野に抜けて、
目黒(猿留)を経由してビタタヌンケに達し、近藤重蔵が開削したという
ルベシベツ山道を経由して音調津・美幌・広尾というコースとなる。

 1790年以降、蝦夷地随一の難所とされたこの区間は旅人を悩ませた。
この道なき道を最上徳内、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎
たちも通行していったところである。
 しかし、晩成社は一般人である。ましてや女性と高齢者もいた。
 
 一行は、この区間の猿留(さるとめ)峠が聞きしにまさる険路となった。
雨も降りぬるぬるする断崖に網梯子をかけてよじ登り、原始人さながら
につたかづらを頼って登らなければならなかったのである。
ここで発病する者が出て2名が幌泉に引き返した。
 更に、4名が陸路を諦めて船で大津回りとなった。 


 帯広で待つ晩成社幹部鈴木銃太郎のところに第一陣が到着したのは
5月7日であった(2名) 。 

 第二陣は8日、チオプシ(長節)川にそって十勝川に入り、徒歩で札内川
をのぼってきた2名。

 第三陣は9日、依田勉三たちで広尾村の地点で内陸に踏みいれ、タイキ
(大樹)を通過して札内川を降って入植した10名。

 第四陣は、発病した夫婦が漁師小屋で休養して20日に到着した(2名)。

(写真は、黄金道路にあるフンベの滝)


 
十勝国(とかちのくに) 21
 陸路を選んだ人たち
 
  陸路を選んで函館を出発したメンバーは依田勉三夫婦を
  含めて16名だった。 

 ・依田勉三(30)    晩成社専務      妻リク               
 ・藤江助蔵(34)    農商・炭焼      妻フデ(25)          
 ・山田勘五郎(53)  農業                妻ノヨ(43)      長男広告(19)   
 ・山田喜平(11)    農業 
 ・池野登一(42)      農業                妻アキ(42)  
 ・高橋利八(22)        農業               妻キヨ(26)  
   ・進士五郎(21)      農業              父文助(45)    母チト(42)  
 ・吉沢竹二郎(34)    大工                                              (  )は年齢
 

   明治16年の北海道は、道南・道央圏を中心に開拓は
急ピッチに進んでいた。
依田勉三は、晩成社の社員たちは伊豆を出ることが初めてであろうし、
北海道の現状を知るには陸路の方が良いと思ったのではないかと推測する。   

   明治6年には日本初の本格的な西洋式馬車道が
札幌から函館まで完成していた。これはケプロンの提案だった。
 (現在の国道36号と国道5号に相当する。ただし、静狩・礼文華峠を避けて
森町からは航路で室蘭)  

  明治3年から明治14年までの約10年間に仙台藩士は、岩出山藩612人、
亘理藩2,648人、角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人の
合計4,512人もの人が北海道に移住していた。
道南の八雲には明治11年、旧尾張藩主徳川慶勝侯が72名を移住させていた。


襟裳岬までの道のりは噴火湾、太平洋沿岸と比較的平坦な道のりである。
アイヌの集落も続くので泊まることも可能、現実を知るには良い機会だと思えた。

(写真は、森町にある鷲ノ木戦没者の碑・榎本武揚の開陽丸上陸の地)


 
十勝国(とかちのくに) 20 
  晩成社出発

 明治16年(1883年)4月6日に13戸27人が横浜に集結した。
北海道に向けて4月10日、午後6時、煙をはく船は出港した。
4月14日、午前11時、雨上がりの函館に入港した。 
 

 27名の中で北海道に上陸したことのあるのは、依田勉三だけであった。
他の者は初めての来道である。津軽海峡から函館港に到着後、更に延々
と東にある「十勝国」という陸の孤島へどのようにして、たどり着いたのか
興味のあるところだ。
 
 依田勉三は27人が同じ道程をとって同じ日に入地すると思っていた。
しかし、 早くも函館で勉三の意見に異を唱えるものも出てきた。
陸路を嫌い海路で行く者たちと二手に別れた。
いつの時代も同じで、人が集まればナンバー2が問題となる。
陸路も海路も幌泉(襟裳岬・現黄金道路)が命がけの旅となった。


1902年(明治35年)の青森『八甲田山死の彷徨』の夏バージョンとなるところだった。

(写真は、新しくなった函館五稜郭タワー)


 
十勝国(とかちのくに) 19 
  大津港 


 依田勉三が十勝国に入植した時代は大津(現豊頃)が行政の中心だった。
開拓使は、明治11年に函館―根室間を開設し寄港地に大津があった。
明治13年2月の大津村管轄の人口は307戸・1307人で駅逓なども設定されていた。


 大津村というのは、大津川(現十勝川)河口で両側から砂州が延び、船は
川内に進入できなかった。
従って、港湾施設は無く、到着した船舶は沖に停泊し、乗客や貨物は艀で
運搬して砂浜に上陸させるというものだった。
時化(しけ)ているときには釧路に向かうか函館に戻ることもあった。 


 大津港と内陸地への集落を結ぶ手段は、十勝川の舟運に限られていた。
川舟は大津を出ると茂岩、利別太、武山を経て終着下帯広を目指した。

 晩成社の「渡辺勝・カネ日記」によると、往復に4日~9日もかかるとある。
現在であれば、車で1時間程度の距離である。
当時、帯広内陸との連絡や流通は大津まで出てこなければならなかった。

それは、依田勉三と南伊豆との便りは、大津まで来なければ手紙を読む
事ができなかったということだ。

 
(写真は明治31年に士幌町開拓で入った美濃開墾㈱の入植経路である)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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