2013/01/13 06:55:54
十勝国(とかちのくに) 27
「開拓の始めは豚とひとつ鍋」
晩成社が最初に鍬を入れた場所に「帯広発祥の地」の碑があり、
「開拓の始めは豚とひとつ鍋」が刻まれている。
この句は明治17年、幹部の渡辺勝が「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋」
と詠んだ句に、勉三が「開拓の始めは豚とひとつ鍋」と返したものである。
晩成社は実質的にはこの時に分解していた。
翌年、 帯広の開拓に行き詰まった依田勉三は、当縁村(現大樹町)に
移り牧畜業を始めた。
1900haという土地の払い下げを受け、家畜を青森に買い付けに行き、
40頭を船で大津まで運んできた。これらの事業も国の補助は一切なかった。
明治23年には、牛は130頭、馬40頭を飼育するまでになる。
牛の乳をしぼり、バターやチーズをつくり、牛肉の缶詰まで製造した。
しかし、晩成社には販売の見通しがなかった。
十勝はまだ陸の孤島である。
人口が増えている札幌までの道が開かれるのは明治40年である。
明治27年、肉の販路を求めて函館に肉屋を開業したのである。
店員として採用したのが後の妻となるサヨである。ところが、牧場から
生体で輸送した家畜は、黄金道路―日高路―噴火湾沿いで函館に
ついたが、日数でやせ細っていた。
勉三はサヨを伴い当縁村(現大樹町)に戻った。
(写真は、更別にある十勝スピードウェイ)
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