2013/01/07 08:02:30
十勝国(とかちのくに) 21
陸路を選んだ人たち
陸路を選んで函館を出発したメンバーは依田勉三夫婦を
含めて16名だった。
・依田勉三(30) 晩成社専務 妻リク
・藤江助蔵(34) 農商・炭焼 妻フデ(25)
・山田勘五郎(53) 農業 妻ノヨ(43) 長男広告(19)
・山田喜平(11) 農業
・池野登一(42) 農業 妻アキ(42)
・高橋利八(22) 農業 妻キヨ(26)
・進士五郎(21) 農業 父文助(45) 母チト(42)
・吉沢竹二郎(34) 大工 ( )は年齢
明治16年の北海道は、道南・道央圏を中心に開拓は
急ピッチに進んでいた。
依田勉三は、晩成社の社員たちは伊豆を出ることが初めてであろうし、
北海道の現状を知るには陸路の方が良いと思ったのではないかと推測する。
明治6年には日本初の本格的な西洋式馬車道が
札幌から函館まで完成していた。これはケプロンの提案だった。
(現在の国道36号と国道5号に相当する。ただし、静狩・礼文華峠を避けて
森町からは航路で室蘭)
明治3年から明治14年までの約10年間に仙台藩士は、岩出山藩612人、
亘理藩2,648人、角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人の
合計4,512人もの人が北海道に移住していた。
道南の八雲には明治11年、旧尾張藩主徳川慶勝侯が72名を移住させていた。
襟裳岬までの道のりは噴火湾、太平洋沿岸と比較的平坦な道のりである。
アイヌの集落も続くので泊まることも可能、現実を知るには良い機会だと思えた。
(写真は、森町にある鷲ノ木戦没者の碑・榎本武揚の開陽丸上陸の地)
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