2013/01/11 07:38:57
十勝国(とかちのくに) 25
バッタの大群
明治16年、晩成社は現在の国道38号と南6丁目線が交差する
あたりに最初の鍬を入れて開拓は始まった。
しかし、早くも開拓の現状に驚き3戸4人が逃亡する。
10月には鈴木親長・カネ・弟の文三郎が入地した。
だが、逃亡して伊豆に戻った者の噂で第二弾の応募者はなかった。
更に、最悪なことにバッタの大群が襲い根こそぎ収穫を失った。
明治16年8月4日の晩成社幹部の鈴木銃太郎の開拓日記に
次のように記されている。
「晴れ。
午前9時突然蝗虫南ウレガレップ地方より来り空中に飛揚す。
移民く石油の空缶銅盥等を鳴らし或いは炬火を焚き専ら防禦す。
然かも遂に蝗虫罹り穀菜皆無野に草色を見ざるに至れり。」
地中から掘り出したバッタの卵や成虫は積み上げられ、
土をかけて固められて塚状にされた。
この塚はバッタ塚と呼ばれた。
十勝の蝗虫は、明治12年から18年にかけて大発生した。
その群れは日高、胆振や札幌方面にまで飛来した。
16年から17年は渡島、釧路地方にも及んだ。
(写真は、足寄湖)
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