忍者ブログ
2025 12
≪ 2025 11 1 2 3 4 5 67 8 9 10 11 12 1314 15 16 17 18 19 2021 22 23 24 25 26 2728 29 30 31 2026 01 ≫
*admin*entry*file*plugin| 文字サイズ  

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



 
十勝国(とかちのくに) 18 
 晩成社を設立(資本金2億円) 


  明治15年(1882年)、合資会社晩成社を設立し資本金は5万円
(今に換算すると2億円)とした。
政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け、15年計画で
開墾しようというものである。
開墾されれば大地主となる。
土地の無い伊豆からみれば魅力的な事業計画だった。
依田勉三は専務となり、出資役員の中でただ一人の現地責任者となった。

 
 勉三の学友鈴木銃太郎と鈴木の父・鈴木親長と共に横浜港から北海道
に向かい札幌県庁に開墾の許可を願い十勝に向かった。
 (願いでをしただけで認可を受けたわけではない)
十勝国河西郡下帯広村(帯広市)を開墾予定地と定め、鈴木銃太郎と鈴木親長
は帯広に残り勉三は帰国した。
その頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだった。

 しかし、この時「飛蝗(トノサマバッタ)」が飛来することは知らなかった。
PR


 
十勝国(とかちのくに) 17 
 依田勉三28歳


 明治14年(1881年)、依田勉三28歳の時に下調べで北海道に渡る。
横浜から汽船で函館に着いたのが7月末日。
函館から長万部を経て室蘭に陸行し、そこから函館に船でもどる。
(雇ったアイヌが強引な旅に逃げ出してしまった)

 今度は函館から根室に向かう。到着したのが9月20日。

横浜の船の中から一貫していたことがあった。
入植者があると聞けば直ちに足を向けて徹底した聞き込みをおこ
なっていたことである。
その中で開進会社の躍進ぶりは勉三の競争心をそそった。
特に根室にある開進会社の出張所で、十勝平野へ進出する計画
があると洩れ聞いた。


 根室から海岸つたいに浜中・厚岸・釧路・十勝と歩き続けて厚内
(十勝郡浦幌)へ、更に一里ほどで十勝川の河口大津の港。
ここから舟をやとい十勝川を上り、次の日の夕刻オベリベリ(帯広)
に着いた。この視察では、苫小牧・札幌を経て南伊豆に戻った。

 
<開進会社>とは、1880年に和歌山県士族の岩橋徹輔が設立した会社。
「遊手坐食」の士族を授産させるために第四十四銀行頭取であった岩橋徹輔
が岩倉具視ら華族から200万円の資本金の出資をもくろんで設立した会社で
あった。全道各地に土地の払い下げを受けたが、思うように資本金が集まらず
1884年に解散した。

(写真は、今の厚岸の隣町浜中町である・ハーゲンダッツはこの町の牛乳)


 

十勝国(とかちのくに) 16 
 ケプロン報文と慶応ボーイ 


  依田勉三は18歳で横浜に出て宣教師ワッデルの英学塾に入り、
2年後に慶応義塾で西洋学を学び福沢諭吉の教えを受けていたが
胃の病気と脚気のため2年で中退。
地元伊豆で兄が勉三のために創設した豆陽(ずよう)学校で教鞭をとっていた。

 勉三が東京三田に滞在のおり、塾生に売ってくれと預けられた雑誌の中に
「ケプロン報文」があった。
この文章の一字一句が勉三25歳を奮い立たせていく。
ホーレス・ケプロンとは、明治4年わが国政府の招きに応じ、合衆国農務長官
の要職を辞して、開拓使教師頭取兼顧問となり北海道開拓の大業に参画した
人物である。
 
<ケプロン報文>
「(中略)そもそも本島(北海道)の広大たるや、合衆国の西部の未開地にひとしく、
その財産は無限の宝庫にして、これをして開拓をくわだてるに欲するところの
物資ことごとく備わざるはなし。
かかる肥饒の沃野を捨ててかえりみざること、日本政府の怠慢というても過言
にあらず。・・・・けだし政府は真実なる人民を得んに、随意に移住せしむべし。

それ自他のためにこの地を開拓し、その土地を守る者あらばこれ国家の宝なり。
もし外国(ロシア)、この地を侵略せば、必ず後世の悔いとなるべし。
わが探検は先例なく、日本国民にとって一大先駆たるべし。」


(写真は、札幌の大通公園にあるケプロン銅像。同じ公園内に対比して、ケプロンを連れてきた黒田清隆の銅像もある)


 

十勝国(とかちのくに) 15  
 十勝のルーツ


新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。
 
 十勝国は現在19の市町村に別れているが、この19の村に開拓に入った
団体を時系列に並べてみた。
20ヶ所あるが、忠類は現在幕別町に合併されている。
最初に入植した晩成社は早かった。しかし、次が遅かった。
同じような志を持った人物が入ってくるのは明治30年(豊頃町)、明治34年(陸別町)
であった。
 
帯広市  晩成社     明治16年
大樹町  晩成社     明治19年

幕別町     香川県移民    明治25年
忠類(現幕別町)岡田新三郎     明治27年
芽室町     愛知団体        明治29年
池田町     池田農場        明治29年
豊頃町     興復社            明治30年
本別町          利別農場        明治30年
音更町          富山県移民      明治30年
広尾町          桐渕農場        明治31年
足寄町          函館農場        明治31年
清水町         十勝開墾㈱       明治31年
士幌町         美濃開墾㈱       明治31年
新得町         山形団体         明治32年
陸別町         関農場           明治34年
中札内村      大井上農場       明治34年
浦幌町         土田農場        明治34年
上士幌町       長野団体       大正  2年
更別村         島根団体        大正 6年
鹿追町         天理教団体     大正  5年


 
十勝国(とかちのくに) 14 
 帯広(オベリベリ) 


 十勝は現在19の市町村で区割りされている。
一市16町2村で中心地が帯広市である。
帯広市は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓で
はなく、静岡県(南伊豆)出身の依田勉三率いる晩成社一行が、
明治16年に入植したのが始まりだった。
依田勉三が開拓者として最初に申請をだした土地が帯広(オベリベリ)
であったところに運命を感じる。

 依田(よだ)家は、織田信長に敗れた武田勝頼の重臣で、一族は
伊豆に逃れて帰農し、明治のころには南伊豆で大事業家となっていた。
帰農した旧大沢村(現松崎町)は、西伊豆の土肥から車で石廊崎に向
かって30分くらいの所にある。 
 依田勉三が裕福な豪族の三男に生まれたのにも係わらず、何故北
海道に開拓者として挑んだのかを様々な人が書かれているが憶測で
しかない。
 しかし、73歳で亡くなる生涯を通してみると彼の一貫した思想が見えてくる。

 まず晩成社の社名がそれを表している。
晩成とは「大器晩成」からとったものである。
北海道開拓の事業は、目先の生活のための事業ではないということである。
その覚悟は、生涯を通してあらゆる場面でみることができる。



 
十勝国(とかちのくに) 13 
 日本最大の食糧基地
 

 十勝総合振興局が2012年度の農畜産物の十勝管内24
農協取扱高(概算)を発表した。
畑作と畜産を合わせた取扱高は小麦、豆の収量増や乳価上昇
から前年比4%増の2630億円と、現集計方法になった2008年
以降最高となった。
 
 3年前だが全国・全北海道と比較された数字があるので見ていただきたい。
農家一戸当たりの平均耕地面積は全国平均の約24倍。
十勝は大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの有数な産地であり、北海道一の
畑作地帯である。

  日本最大の食糧基地 (2009年度の生産量)
 
麦の生産数量           全国 674,200t       (全道59.3%・十勝24.5%)
 甜菜(てんさい)の生産数量    全国 3,649,000t      (全道100%・十勝41%)
 生乳の生産数量           全国 7,881,000t      (全道49.9%・十勝13.5%)
 小豆の生産数量             全国 52,800t       (全道88.1%・十勝51.8%)


 今から130年前、陸路が絶たれていたこの大地に日本の将来を見据えて敢然と挑んだ人物がいた。


 
十勝国(とかちのくに) 12 
 「砂金 歴舟川(れきふねがわ)」


 北海道では砂金の採掘が70ヶ所近く確認されている。
まさに黄金の島だった。
今は昔となったが、北海道を回ると町おこしの一つとして
「砂金掘り体験」や「砂金ラーメン」を食べさせてくれる町もある。
また、郷土資料館には貴重な資料も保存されている。

 蝦夷地といわれていたころ、砂金がとれる川が各地にあった。
松前藩は幕府より領内の金山も下賜されていたため元禄までの
約100年間はゴールドラッシュだったという。
砂金掘りには、ひとり一ヶ月1匁(3.75グラム)の運上が課せられた。
松前藩は関所を設けて和人とアイヌ民族との住み分けをしていたが、
砂金掘りだけは別であった。
彼らが川に入るのはアイヌも住まない蝦夷地の山深い沢に限られ、
しかも確実に豊富な運上金が入ったからである。


十勝では、アイボシマ付近(現大樹町)がよく知られている。
明治30年代には、歴舟川、当縁川、紋別川、アイボシマ川などを中心
に100人近くの砂金掘師たちがいた
。最後の砂金掘師が昭和46年に引退、大樹町の砂金採取は一部の
好事家による採取となった。

(写真は、中札内より)



 

十勝国(とかちのくに) 11 
 「十勝モンロー主義」 


 広大な十勝平野は日高山脈で陸路は遮断され、太平洋沿岸は
遠浅のため港としての施設がなく陸の孤島となっていた。
 
「十勝モンロー主義」という独特な思想が生まれた。
モンロー主義とはアメリカの5代目大統領モンローが

「アメリカでは将来ヨーロッパ諸国が植民地を築く権利のないこと、
主権国家としてヨーロッパはアメリカに干渉すべきでないことを宣言した」

つまり十勝モンロー主義とは、外部からの干渉を受けずに自立していこう
とする気持ちを表している。


この言葉は、明治15年に開拓団体として最初に入った「依田勉三の生涯」
をみると納得できるものがある。依田勉三については、追々述べていきたい。
 
(写真は、現在の広尾港)


 
十勝国(とかちのくに) 10 
 「ここから十勝」 

 日高山脈は、北海道中央高地の狩勝峠(かりかちとうげ)から
太平洋に突出する襟裳岬(えりもみさき)まで総延長約200キロ。
北海道南北につらぬく背梁の南半分をつくっている。
この山脈は標高2000m級が立ち並び、道央・道南から道東の十勝
への壁となっていた。

 蝦夷といわれる時代から通行は太平洋沿岸の
襟裳岬を通る道だけだった。
狩勝峠とは、石狩国と十勝国の県境の峠で一文字
ずつとって名づけたものだが
「ここから十勝」とは、この峠越えのことである。


 この峠を越えて十勝に入る鉄道が開通するのは、まだまだ
先の明治40年まで待たなければならなかった。
更に、日高から十勝に入るもう一つの日勝峠(日高・十勝)が
国道274号線として全線開通するのは、昭和40年のことである。

(写真は、南富良野にある金山湖。この湖を越えるとトマムである)


 

十勝国(とかちのくに) 9  
 「十勝日誌 」

 探検家松浦武四郎の十勝紀行文は「十勝日誌」として
1860年(万延元年)に書き上げた。
現代文の訳で出版されているのもあるので読みやすい。
一日の日記として寒地と越冬を克明に記録し、山や川を
見事に描写している。寒さの中で、よく描いたものだと思う。


「この広い平野の低地は谷地で、丘陵地帯は深い森林に
覆われ、その間を複雑に入り組んで川が流れ、その川筋
は自然の交通路となっていた。
山野には鹿をはじめとする多くの獣が、川には溢れるばか
りに鮭や鱒が上る。」

武四郎の訪れた頃の十勝の国は、ほぼこのような所であった。
(今でも十勝の中心地に鮭の遡上が観光名称となっている)
 豊かな土地なので、他の地区と比べるとアイヌ人口も多く、
安政3年(1856)の調べでは、190戸、1209人と記されている。



余談ではあるが、1860(万延元)年とは帯広の六花亭の前身で
ある「千秋庵総本家」が箱館(函館)に開業した年である。
六花亭に「十勝日誌」のお菓子の詰め合わせがあるが、これは
松浦武四郎の紀行文の表紙からイメージしたものである。
 
(写真は、占冠道の駅から)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
11 2025/12 01
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
HN:
上家二三夫
性別:
男性