2013/01/02 06:56:59
十勝国(とかちのくに) 16
ケプロン報文と慶応ボーイ
依田勉三は18歳で横浜に出て宣教師ワッデルの英学塾に入り、
2年後に慶応義塾で西洋学を学び福沢諭吉の教えを受けていたが
胃の病気と脚気のため2年で中退。
地元伊豆で兄が勉三のために創設した豆陽(ずよう)学校で教鞭をとっていた。
勉三が東京三田に滞在のおり、塾生に売ってくれと預けられた雑誌の中に
「ケプロン報文」があった。
この文章の一字一句が勉三25歳を奮い立たせていく。
ホーレス・ケプロンとは、明治4年わが国政府の招きに応じ、合衆国農務長官
の要職を辞して、開拓使教師頭取兼顧問となり北海道開拓の大業に参画した
人物である。
<ケプロン報文>
「(中略)そもそも本島(北海道)の広大たるや、合衆国の西部の未開地にひとしく、
その財産は無限の宝庫にして、これをして開拓をくわだてるに欲するところの
物資ことごとく備わざるはなし。
かかる肥饒の沃野を捨ててかえりみざること、日本政府の怠慢というても過言
にあらず。・・・・けだし政府は真実なる人民を得んに、随意に移住せしむべし。
それ自他のためにこの地を開拓し、その土地を守る者あらばこれ国家の宝なり。
もし外国(ロシア)、この地を侵略せば、必ず後世の悔いとなるべし。
わが探検は先例なく、日本国民にとって一大先駆たるべし。」
(写真は、札幌の大通公園にあるケプロン銅像。同じ公園内に対比して、ケプロンを連れてきた黒田清隆の銅像もある)
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