2010/07/18 00:02:27
復員後
4年にわたって戦場におり、死んだとの情報が入っていたことも関係し、
痩せこけて帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたという。
その後は胃袋とあだ名されるほどに食事を摂り、
人一倍稽古もして失なわれた4年間を取り戻すべく必死だった。
1947年(昭和22年)6月場所十両東4枚目の位置で復帰、翌11月場所で入幕した。
痩せこけて帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたという。
その後は胃袋とあだ名されるほどに食事を摂り、
人一倍稽古もして失なわれた4年間を取り戻すべく必死だった。
1947年(昭和22年)6月場所十両東4枚目の位置で復帰、翌11月場所で入幕した。
新三役(関脇)で迎えた1950年(昭和25年)9月場所、13勝2敗の成績を挙げたが、
優勝決定戦では本割でも負けた相手である照国に敗れた。
新関脇での13勝は15日制となってから五ツ嶋に次いで2人目で現在まで最多である
(後に、琴欧州も達成)。
翌場所も13勝2敗であったが、今度は照國が全勝した。
しかし、関脇で2場所連続13勝が評価され大関に昇進する。
皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があり横綱昇進を期待されたが、優勝がなくなかなか届かなかった。
1953年(昭和28年)5月場所では14勝1敗であったが、平幕の時津山が全勝した
(当時は下位の力士がいくら勝っても三役と当てることはまずなく、吉葉山としては阻止するすべがなかった)。このように、吉葉山の土俵人生には悲劇が纏わり付いていた。
優勝決定戦では本割でも負けた相手である照国に敗れた。
新関脇での13勝は15日制となってから五ツ嶋に次いで2人目で現在まで最多である
(後に、琴欧州も達成)。
翌場所も13勝2敗であったが、今度は照國が全勝した。
しかし、関脇で2場所連続13勝が評価され大関に昇進する。
皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があり横綱昇進を期待されたが、優勝がなくなかなか届かなかった。
1953年(昭和28年)5月場所では14勝1敗であったが、平幕の時津山が全勝した
(当時は下位の力士がいくら勝っても三役と当てることはまずなく、吉葉山としては阻止するすべがなかった)。このように、吉葉山の土俵人生には悲劇が纏わり付いていた。
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