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   北海道人 11
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

  松浦武四郎が自費で蝦夷地・カラフト・クナシリ・エトロフを
 回り終えたのは1849年だった。

 アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航は後4年後のことである。
 
 武四郎の蝦夷探検は日誌として書物になり、幕府や後の新政府
 の許可を得て出版され公のものとなった。
 しかし、一冊だけ亡くなってから出されたものがあった。

 又、中には松前藩を暴露したものもあり、松前藩の刺客に狙われる
 羽目になった。
 いつの世も同じことがおきる。
 
 (写真は箱館山を背景に建てられたペリー提督の銅像)
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   北海道人 10
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 嘉永2年(1849年)武四郎は3度目の蝦夷地探検に向かう。

 東蝦夷地の最果ての地クナシリ、エトロフへ船で行く。
 4月18日箱館湊を出帆し、恵山岬、室蘭の絵鞆岬、えりも岬、
 キリタップ岬、ネモロイ沖、モユルリ島、シコタン島、
 29日クナシリ島のトマリ湊に着いた。

 60年前に起こったクナシリ・メナシのアイヌの蜂起をつぶさに記録した。

 「三航蝦夷日誌」           


 (写真は、厚岸の隣、霧多布である)


 
  北海道人 9
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 1846年2度目の蝦夷地探検である。
37年前の文化6年(1809)に間宮林蔵が探検したカラフト島を目指す。
(当時カラフトは北蝦夷地と言われていた)

しかし、渡るには松前藩の許可が必要で松前藩医師の下僕として
立つこととなった。
4月10日、江差から熊石,瀬棚を過ぎて山間に入る。
数日後にイシカリ場所に到着。
ソウヤに着いたのは江差から一ヶ月余り。
海上18里にカナフトである。
「再航蝦夷日誌」に詳しい。
カラフトの調査の帰りに、宗谷~知床間のオホーツク海岸を調査し、
再度宗谷に戻り陸路をイシカリに行き、イシカリ川をチトセに出て、
勇払をまわって9月初めに江差に帰った。  


                                                                        (写真は道北美深町にある松浦武四郎の碑)  

 

  北海道人 8 

 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。  

各場所の商人が松前藩に納めていた税金(運上金)はどれくらいだったのか。                                              これらを武四郎は「初航蝦夷日誌」に記録してる。

1845年の税金で東蝦夷の一部だけ。  
 ・ ユウフツ(勇払)   250両 松前 山田屋文右衛門  
 ・ シャマニ(様似)  1048両 松前 万屋仙左衛門  
 ・ ホロイズミ(幌泉)  808両 箱館 福島屋嘉平   
 ・ クスリ(釧路)  5060両 松前 米屋勝三郎   
 ・ アッケシ(厚岸) 600両 松前 山田屋文右衛門  
 

   武四郎は、地形の探検だけではなく蝦夷地における
   松前藩の現状視察もおこなっていた。

 (写真は、幕府三官寺の一つ厚岸の国泰寺)



   

   北海道人 7
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 蝦夷地は松前藩に税を治める商人による場所請負制の交易で成り立っていた。

場所ごとに「会所」と呼ばれる交易所が設けられ、松前藩の役人と商家の支配人、
通辞、帳役、番人が駐在し、
アイヌを傭い、鮭・鱒・鰊などの漁場と熊の皮・ラッコなどの交易を一手に取り仕切っ
ている。
 
 武四郎の「初航蝦夷日誌」は翌年に書かれるが、
箱館から噴火湾に出て、虻田、有珠、室蘭、白老、様似、広尾、釧路、厚岸、根室、
知床までを克明に記録している。     
                                           

  (写真は現在の有珠善光寺前。伊達市・洞爺に近く観光地となっている。
  幕府三官寺の一つで武四郎はよく利用したようだ)



 

 北海道人 6
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。  
 
  1845年、松前・江差の商人斎藤佐八郎の持ち船に乗せてもらって
 鯵ケ沢から松前に渡った。
 
 蝦夷地は一時幕府直轄地であったが当時は松前藩に戻っていた。
 (この時の松前城にはまだ天守閣はない)
 武四郎は西蝦夷地に向けて日本海を北上する。
 上ノ国から江差に入り、熊石と向かうが関所が置かれていた。
 ここは強引に押し通ったが、瀬棚でも通行を禁じられやむなく引き返すことになる。
 
 江戸者を極度に警戒していた為に、斎藤佐八郎に頼んで江差の人別帳に登録を
 してもらうことになる。今度は箱館から東蝦夷地に向けて出発した。
 

  (写真は津軽半島の龍飛岬と渡島半島最南端白神岬、最短19.2km)


                                                                  北海道人 5 

「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。  

1844年津軽(鰺ヶ沢)から蝦夷地に渡ろうとした武四郎にとって
松前藩の取締りは厳しいものだった。

蝦夷地商品流通の独占と、内情が外に漏れることを恐れていたので
旅人は出入り禁止だった。
身分を代えてようやく翌年蝦夷地に渡った。
武四郎の目的は
「蝦夷地内陸の調査(幕府は海岸を調べたものばかり)、
更に山脈・河川の上流・住民・蝦夷地の産物を極める」。 

 (写真は、現在の江差で見えるのは鴎島と開陽丸)


 
  北海道人 4  
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 幕末の探検家に間宮林蔵を含めて多くの幕府の役人が蝦夷地を訪れている。

 武四郎が彼らと決定的に違うのは自費で海を渡ったことである。
 今でいえば会社の目的のために現地に行くのと、自らの志のために
 行くことの違いであろう。

 上を気にすることなく現地を観察できたことでアイヌの現状と実態を記録に残せた。
 しかし、このことが武四郎を世に出すことを遅らせてしまう。
 
(写真は日本海小平町にある松浦武四郎像・この地に4回来ている)


  

 北海道人 3 

 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。   

 松浦武四郎は文政元年生まれ(1818)~明治21年(1888)に亡くなっている。

 幕末から明治維新の歴史のうねりの中で生きてきた71年だった。
28歳の時に初めて蝦夷地に渡るり計6回の探検にのぼる。

 最初の3回(1845・46・49)は私人として自費で、
 幕府の役人として3回(1856・57・58)だった。

私人としての3回で蝦夷地・樺太・千島全域を回り、アイヌ語も不自由しなくなった。
 


  (写真は松前町にある北限の孟宗竹。車で行くにも道が中々わからない場所だ)


  

  北海道人 2  

「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。                                                     

 松浦武四郎は文政元年(1818)伊勢の国、
現在の三重県(津市と松坂市の中間)の生まれ。
お伊勢参りの参宮街道筋であったことが旅に強い関心を
持ったと思える。
北は東北、南は九州から言葉もまちまちな人の群れを見ている
うちに旅に出たいと思う環境があったのではないか。

 事実、郷士の四男で末っ子だったこともあり、16歳で実家をあと
に江戸へ出るのだがその後21歳長崎に入るまで日本をよく歩いた
ものだと思う。
長崎で6年過ごし朝鮮に渡ろうとしていたが、蝦夷地の形勢と
北方探査の緊急性を聞き北に向かうことになった。
 

 (写真は、松前小島の隣に見える渡島大島無人島)

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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