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オホーツク文化6

 

北の黒船

寛政元年(1789年)物資を積んだ船を通じて、
斜里アイヌから松前藩に対する正式な交易船の派遣願いが出されました。
つまり、斜里場所開設の要請です。
寛政2年(1790年)、宗谷場所から分設するかたちで斜里場所が開設されました。


斜里場所の運営は、ロシア船による樺太、千島など各地で商船襲撃などで脅かされる
こととなり、北辺の警備が必要となりました。
斜里場所にも津軽藩士100余名
が派遣されました。
陸行12日をかけて文化47月に一番隊が到着。
しかし、初めての寒地での越冬に慣れていず、布団や栄養の補給も充分ではなく、
11月中旬にはほとんどが水腫病にかかり、70数人という多くの藩士が無念のうちに
斜里の土と化してしまったのです。

シャリ運上屋跡 

寛政2年(1790年)、斜里場所は、
宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられました。
斜里場所が開かれて、はじめて航路は斜里にまでのばされ、斜里の地域が開発
されるようになりました。

 

そのころ、江戸幕府の役人・谷口青山という人が、
この斜里地方を見に来ましたが、そのときかいた絵にも運上屋と弁天社(神社)が
かかれていて、運上屋が江戸時代の斜里の中心地であったことがわかります。

 

明治2年(1869年)、場所という制度がなくなり、
それにともなって運上屋もなくなりました。
明治36年(1903年)の斜里の地図によると、運上屋があった場所の近くに
斜里戸長役場、警察分署、駅逓などがあり、その南側の丘には弁天社が
あったことが記されています。

 

やがて、交易をする商人があらわれ、
斜里場所に「運上屋」と呼ばれる事務所を開きました。
運上屋は、初め和人とアイヌとの交易の場所として始まりましたが、やがて、
魚をとる場所の管理や役場のような仕事もするようになりました。

文化4年(1807年)、江戸幕府は蝦夷地を直轄地
[それまで松前藩が蝦夷地をおさめていました]としましたが、
それにともなって、運上屋は「会所」と呼ばれるようになりました。
このとき北の地方を探検して有名になった最上徳内という人が、江戸幕府から命じられて、
斜里場所に来ていた津軽藩の兵士を指揮していました。

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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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