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長いあいだ休んでおりましたが、体調も序々に戻ってきましたので再開をします。

毎日多くの人たちが「どうしても北海道の旅」にアクセスいただきありがとうございます。
今年の北海道は春が遅くて、先週ようやく梅が咲きました。
本州と違い、北海道は桜の後に「梅」が咲きます。同時に咲く年もあります。

いずれにしても、春は「いっせい」にやってきます。
今後共このブログを宜しくお願いいたします。


写真は、札幌の「梅園」です。
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 雄冬岬(国道231号) 3   

  雄冬岬の中心に日本海岸は、石狩、厚田、浜益、増毛、留萌、小平と
江戸時代から鰊の漁場として栄えただけに、道路開削の努力は江戸から続けられていた。


 1857年(安政4年)、浜益と増毛両場所の場所請人を兼ねていた
伊達林右衛門が自費で道路を開削した。
 だが、それは道と呼べるものではなかった。

 明治7年にここを通った開拓使の御雇い外国人技師ライマンは
「鹿の作りしものならん、人間の建築とは思われ難し」と報告書に述べている。
日本海岸から鰊が去ると、増毛、浜益とも衰退し、この山道も大正の後半には
まったく忘れられてしまった。
雄冬岬、特に浜益村千代別から雄冬の間は安政期以降まったくの手付かずだった。

      (写真は増毛から見た暑寒別岳)

 
  雄冬岬(国道231号) 2     

 国道231号は札幌(北区北34条西2丁目)を起点とし、
留萌を終点とした130.4kmの区間のことである。

 昭和28年に指定されたこの国道が全線開通したのは昭和56年11月10日。
それも開通から40日後、トンネル崩落事故が発生し、再開されたのは2年7ヶ月後の
昭和59年5月のことだった。


 難所の多いところで23箇所のトンネルが作られたが、
その最大の難工事が雄冬岬トンネル(878m)だった。
雄冬岬、特に浜益村千代別から雄冬の間は安政期以降まったくの手付かずで
断崖絶壁が続き、双方の入口とも陸上から行くことかできず断崖に足場を設けて
資材や生活物資を船で運んだとされる。


    

   雄冬岬(国道231号) 1   

 石狩館内浜益区と留萌館内増毛町の間にある「雄冬岬・おふゆみさき」(石狩市浜益区)は、
茂津多岬(島牧郡島牧村)、神威岬(積丹郡積丹町)と並んで蝦夷の日本海三険岬と呼ばれていた。                                                    

 また、その厳しさゆえに道路が未整備で訪問が困難であったことから
「北海道三大秘岬」(室蘭の地球岬・根室の落石岬)の一つともいわれる。


  標高1491mの暑寒別岳を中心に雄冬岳、浜益岳、郡別岳といった
標高1200m級の山々が連なり、すそ野は切り立った崖となり海に落ち込んでいる。 

  昭和28年、札幌―留萌間は国道231号に指定されたが、
自動車が通行可能なのは、札幌から厚田村を経て浜益村の一部までと増毛―留萌間だけ。
国道231号はながく「幻の国道」といわれていた。


   
  ムツゴロウの無人島(嶮暮帰島)                                                 

 今から41年前、昭和46年札幌の地下鉄が開通した年に、
北海道東部の太平洋にある無人島に動物王国を作り住んだ人がいた。 

 
 無人島の名は「嶮暮帰島(けんぼっきとう)」。
住所は北海道厚岸郡浜中町大字琵琶瀬村字嶮暮帰島6番地。
住人は、畑正憲(はたまさのり)昭和10年福岡生まれ。

動物記録映画製作に従事後、作家。
「ムツゴロウ」シリーズを出版。 
このムツゴロウ王国は、翌年は大地に移り、その後根釧原野の大地に王国をつくる。 

 写真は、霧多布のアゼチの岬から写したもの。
手前に見えるのは小島で、その奥が嶮暮帰島で外周は約4.5キロある。
貴重な動植物の宝庫、世界最小の動物といわれるトウキョウトガリネズミや
コシジロウウミツバメの生息地。
自然のままの姿を残しており、現在浜中町において自然保全と利用の側面
から島の立ち入り条件を定めている。



国泰禅寺                                  釧路から更に東に1時間ほど走ると厚岸の町がある。厚岸町は、東北海道では最も早く開けたところで、松前藩によるアッケシ場所の開設は寛永年間(1624年~1643年)とされ、文化元年(1804年)には蝦夷三官寺の一つとして国泰寺が建立されている。(蝦夷三官寺とは、有珠の善光寺、様似の等澍院) 厚岸が何故、東北海道の玄関口となったかは、地形にあると思われる。有珠も様似も同じことが言えるが、自然の入江湾があり交通の基盤があった。

 
上砂川駅(悲別駅)6   

 上砂川町の北にある歌志内市で、町を横切る道道114号を
走ると右手に旧「住友上歌会館」が見えてくる。
昭和28年にオープンした住友炭坑職員の福利厚生として建て
られたもので、東宝歌劇団や東海林太郎や当時のスターが舞台に立った。

 昭和46年に閉山となり解体費用がないという理由で放置され
ボロボロの廃屋の状態が続いた。この廃屋で最初に映画のロケが行われた
のは、昭和52年「幸せの黄色いハンカチ」だった。 

 そうして、昭和59年~61年のテレビドラマ「昨日悲別で」で映画館「悲別ロマン座」
として登場した。
昭和61年に全面改修に向けて募金活動が始まり、180万円か集まり、市から2500万円
の補助を出してもらい改装された。
しかし、その後は何もなくまた廃屋が続いた。
今、この廃屋を建て直そうと一人の男が軽食屋をここで開いている。
立ち寄ってみると面白い。



(写真は、映画館「悲別ロマン座」の中)


 

上砂川駅(悲別駅)5
   

 空知地域における旧産炭地の町は、国道12号線を
北上する右側に連なっている。
夕張市・三笠市・芦別市・上砂川町・歌志内市・赤平市である。



 特に上砂川の北にある歌志内は開拓より先に、石炭を
運び出すための鉄道が引かれた地区である。                                             この狭い地区にゴールドラッシュで46000人に人口が増えた。
鉄道の終着駅近くに、悲別ロケで使われた「ロマン座」が今も残っている。
残っているというよりは、残すために一人の男性が必死に支えている。



(写真は、悲別ロマン座として使われたところで、今も昔の撮影機が残っている)


 
上砂川駅(悲別駅)4   


  倉本聰の「悲別」シリーズは3部作となった。

「昨日悲別で」「今日悲別で」「明日悲別で」、
現在震災後の福島をテーマとして「明日悲別で」が始まっている。

(写真は、今も残っている上砂川駅の駅舎ない)


 
上砂川駅(悲別駅)3                                               

 悲別というのは架空の町である。
倉本聰の脚本で、昭和59年~61年炭鉱育ちの若者を描いた
TVドラマ「昨日悲別で」のロケセット。

このドラマで「悲別ロマン座」として使われた
歌志内の「住友上歌会館」も残っている。


(写真屋は、今も残っている「住友上歌会館」跡)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
男性