2010/02/09 00:39:00
北方領土(ロシア名:Итуруп イトゥルップ)
●住所/(日本の行政区域では根室支庁)
北海道択捉郡留別(るべつ)村・紗那(しゃな)郡紗那村
・蘂取(しべとろ)郡蘂取村
●面積3,182.65k㎡●周囲658.5km
●人口/6,739人(2006年ロシア統計)
[昭和20年8月当時3,608人]
●アクセス/ビザなし交流(元住民、他関係者)
【飛行機・サハリン航空】 (ロシアのビザを取得して行く)
函館空港or新千歳空港→
南サハリン(樺太)のユジノサハリンスク(豊原)空港→
択捉島留別村のブレヴェスニク空港
【船・サハリンクリル海運】
サハリン・コルサコフ(大泊)港→択捉島
※ロシア発行のビザを取得して渡航する方法は、
北方領土をロシアの領土と認めることになるので、
日本政府はこの方法での渡航に自粛要請をしています。
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2010/02/07 00:11:06
ソ連占領後の国後島は、日米安保条約のもとにおかれた
日本に対峙する共産圏の最前線となり、軍事基地や
国境警備隊基地が多く配置された。
一方、日本政府は、米国の意を受けて日ソ平和条約交渉
においてこの島の返還を要求したが受け入れられず、
1956年の日ソ共同宣言による国交回復後も、日本政府の
返還要求をソ連が拒否し続けた。
日本に対峙する共産圏の最前線となり、軍事基地や
国境警備隊基地が多く配置された。
一方、日本政府は、米国の意を受けて日ソ平和条約交渉
においてこの島の返還を要求したが受け入れられず、
1956年の日ソ共同宣言による国交回復後も、日本政府の
返還要求をソ連が拒否し続けた。
1967年からは墓参を目的とした少人数の日本人訪問が実現したが、
ソ連側がビザを要求するようになり、長期中断を余儀なくされた。
ソ連側がビザを要求するようになり、長期中断を余儀なくされた。
辺境地として労働条件もソ連本土に比べ優遇されていたため、ソ連末
期の1989年にも7766人が居住していた。
期の1989年にも7766人が居住していた。
日本政府見解としては同島のロシアによる占領は日ソ中立条約に反した違法行為であり、
現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている。
現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている。
2010/02/06 00:09:54
国後島(くなしりとう) 3
ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は
連合国に占領されたが、国後島を含む千島列島は、
一般命令第1号によって、ソ連占領地となった。
連合国に占領されたが、国後島を含む千島列島は、
一般命令第1号によって、ソ連占領地となった。
1946年1月29日、
GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を
停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に編入した。
SCAPIN-677は領有権の移転を命じたものではない。
GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を
停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に編入した。
SCAPIN-677は領有権の移転を命じたものではない。
同年3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更された。
当初は、ハバロフスク地区の一部とされていたが、1947年1月にはサハリン州が独立した。
当初は、ハバロフスク地区の一部とされていたが、1947年1月にはサハリン州が独立した。
1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、
1948年までにほぼ全員の日本人が帰国した。
戦後のソ連は、日本に近すぎる泊を嫌い、ユジノクリリスクという新たな中心集落を、
日本時代の漁村であった古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設した。
1948年までにほぼ全員の日本人が帰国した。
戦後のソ連は、日本に近すぎる泊を嫌い、ユジノクリリスクという新たな中心集落を、
日本時代の漁村であった古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設した。
2010/02/05 00:08:14
国後島(くなしりとう) 2
飛騨屋はアイヌ人を酷使して経営を行い、不満を募らせた
アイヌ人はついに、1789年5月、国後島泊の運上屋(交易拠点)
を襲撃。
これは対岸の根室・標津方面にまで広がり、大規模な
「国後目梨の蜂起(いわゆるクナシリ・メナシの戦い)」
に発展した。
松前藩は、260名の鎮圧部隊を送り込み、
首謀者のアイヌ人37名を全員処刑して、蜂起は鎮圧された。
この結果、日本人による国後島領有は確立された。
アイヌ人はついに、1789年5月、国後島泊の運上屋(交易拠点)
を襲撃。
これは対岸の根室・標津方面にまで広がり、大規模な
「国後目梨の蜂起(いわゆるクナシリ・メナシの戦い)」
に発展した。
松前藩は、260名の鎮圧部隊を送り込み、
首謀者のアイヌ人37名を全員処刑して、蜂起は鎮圧された。
この結果、日本人による国後島領有は確立された。
1811年頃、ロシアの海軍軍人ゴローニンが、ロシア帝国軍に命じられた
千島列島測量のため国後島に上陸すると、日本の幕府役人は彼を逮捕し、
箱館に連行して幽閉した。
1855年の日露和親条約で、国後島の日本領有は国際的に確認された。
千島列島測量のため国後島に上陸すると、日本の幕府役人は彼を逮捕し、
箱館に連行して幽閉した。
1855年の日露和親条約で、国後島の日本領有は国際的に確認された。
第二次世界大戦前は、北海道本島からの船が発着した泊に国後島全体
を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった。
を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった。
島の沿岸には、全域にわたり80以上もの漁業集落が点在しており、
産業としては、コンブ・サケ・カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。
また、畜産、金属や硫黄の採掘も行われていた。
産業としては、コンブ・サケ・カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。
また、畜産、金属や硫黄の採掘も行われていた。
2010/02/04 00:06:34
国後島(くなしりとう)。
島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い島)」
または「キナ・シリ/キナ・シル(→草の島)」
からであるが、どちらが本当の由来かははっきりとしていない。
島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い島)」
または「キナ・シリ/キナ・シル(→草の島)」
からであるが、どちらが本当の由来かははっきりとしていない。
この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で「クナシル」と呼ん
でおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。
でおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。
面積1497.56 km²、長さは123kmに及ぶ細長い島で、
沖縄本島より大きく、日本では、2番目の大きさを持つ島。
2006年の島全体の人口6,801人(ロシア統計より)。
中心集落である古釜布(ふるかまっぷ)の2006年の人口は、6,081人。
沖縄本島より大きく、日本では、2番目の大きさを持つ島。
2006年の島全体の人口6,801人(ロシア統計より)。
中心集落である古釜布(ふるかまっぷ)の2006年の人口は、6,081人。
本島は日本が返還を要求している「北方領土」の四島のうちの一つで、
択捉島に次ぎ二番目に大きく全体の29.6%の面積を占める。
択捉島に次ぎ二番目に大きく全体の29.6%の面積を占める。
日本の制度上、根室支庁に所属し、国後郡泊村と留夜別村がおかれている。
2010/02/02 00:43:18
北海道の東、根室海峡からカムチャッカ半島の南、
千島海峡までの間に連なる列島。
国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)、得撫島(うるっぷとう)、
幌筵島(ぱらむしるとう/ほろむしろとう)、占守島(しゅむしゅとう)
などの島々からなる。
総面積10355.61km²。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連は
サンフランシスコ講和条約に調印しておらず、
日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、
台湾と同様に他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。
現在も北方四島はもちろん、
得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄
とされており、法制的には存続しているという主張も一部にはあるが、行政権における不整合
はそれが障害にならない限り是正はされないのが原則であり、行政、法律に関して通暁して
いない素人議論である。
写真
A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村