館内はその貴賓室130坪の大広間など当時の華やかな雰囲気をそのままに残しています。
函館の朝市
函館弁の威勢のいい声が飛び交う朝市。
JR函館駅西口そばに約400軒もの店がひしめき合い、
午前4時頃から店が開きます。魚、野菜、珍味、昆布なんでも揃う。
日用品や衣類の店もあり、昼頃で終わりますが、
乾物屋さんは夕方までやっています。
おいしい朝食が食べられる大衆食堂もたくさんあり、
朝市見学のあとの胃袋を満たしてくれます。
この朝市のルーツは昭和20年。
函館駅前広場の隅に、戦後函館周辺の農業生産者
の一部が換金の必要にせまられ、野菜の立売りを
始めたことです。
当時は、組織化された配給ルートもなく闇市の一部
とみなされていました。
現在の敷地に市と交渉し
支所有地(現在地)1,997㎡を買収、移転したのは昭和31年。
函館の朝市
函館市
函館市(はこだてし)は、
北海道内では旭川市に次ぐ第3の人口。
286,818人(2008年12月31日)
「1454年南部氏との戦いに破れた
津軽の豪族・安東政季を擁し、武田信広らと共に
蝦夷地に渡った河野政通が、函館山の麓(現在の弥生町付近)
に築いた館(「宇須岸館」とも「河野館」とも呼ばれる)
が箱に似ていたため箱館と呼ばれるようになり、
明治時代になって函館と改められたとされるが、諸説ある」
その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでの
わずかな期間には、函館県の県庁所在地でもあった。
北海道と本州との連絡としてかつては青函連絡船が、
そして今なお定期フェリーが青森との間に就航しており物流の結節点となっている。
小樽運河論争と景観条例について
小樽には、多くの指定歴史的建造物があります。
何故こうなったかといいますと
全国に先駆けた論争の歴史がありました。
発端は昭和41年に都市計画決定された
「運河埋立の立案」です。
それが5年後の札樽自動車道の開通とともに現実味をおび
昭和48年に「小樽運河を守る会」が発足し学識者、
住民を巻き込んで多彩な運動となりました。
しかし、若干の都市計画変更で昭和57年に埋立工事が着工
61年ついに小樽運河はその幅が半分に埋め立てられ、
臨海線が開通しました。
このことが引き金となり昭和58年
「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を制定。
「歴史的建造物」の単体指定と、歴史的な街並みの保全を目的とした
「景観地区」指定となりました。
この条例のもと、昭和60年には28棟の歴史的建造物が選定、
そのうち13棟が「小樽市指定歴史的建造物」となり、
平成4年3月までに31棟の歴史的建造物が指定されました。
また、昭和62年には、二ヵ所の歴史的景観地区
(小樽運河周辺地区、色内大通・緑山手通り地区)
が指定され、更に堺町本通りを「歴史的景観地区」、
入船七叉路地区を「拠点的景観形成地区」
も新規に指定しました。
508棟の歴史的建造物がリストアップされ、以前から指定してきた34棟
(31棟の指定歴史的建造物と国指定重要文化財、道指定有形文化財、鉄道記念物)
を加えた542棟のうち、98棟を「小樽市登録歴史的建造物」として登録し、
さらにその中から30棟を指定しました。
平成7年初頭に一棟が、諸般の理由で指定解除の後解体されたため、
現在「指定歴史的建造物」は60棟(登録は97棟)を数えるに至っております。
艀(はしけ)舟が使われ、運河方式ともいうべき荷揚げスタイルは
戦後の樺太輸送の断絶と、太平洋側の苫小牧港の整備、
小樽港湾内の埠頭の整備によって衰退していきました。
小樽運河は邪魔にされている時代もありました。
無用の長物と化し、放置されていた小樽運河はヘドロがたまり悪臭
が漂うようになり。
1960年代に入り、運河を埋め立てて、道路として整備する方針が
小樽市から打ち出されました。
それに対し運河の保存運動が全国規模で高まり、小樽市側は当初の
全面埋め立てに対し、運河の半分の幅を残す妥協案を提示するが、
保存派と意見が折り合わないまま、1983年には埋め立て工事に着手した経緯があります。
就航船 はまなす あかしあ
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就航船 らいらっく ゆうかり
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