2011/11/23 00:51:59
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1901年(明治34年) |
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| 1月1日 | 私立北鎮尋常高等小学校として設立 旧第七師団私設教育所として開設 | ||||||||
| 2月3日 | 福沢諭吉死去(享年68歳) | ||||||||
| 4月20日 | 東京の日本女子大学開校式(校長成瀬仁蔵、来賓渋沢栄一、大隈重信、ケーベル等の祝辞あり) | ||||||||
| 4月 | 阿寒小学校の前身、舌辛簡易教育所として開設 | ||||||||
| 5月2日 | 伊藤首相、財政をめぐる閣内不統一により辞表提出 | ||||||||
| 6月2日 | 第一次桂太郎内閣設立 | ||||||||
| 7月 | 近文第5尋常小学校設立 | ||||||||
| 10月23日 | 田中正造、足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職 | ||||||||
| 11月18日 | 官営八幡製鉄所、作業開始 | ||||||||
| 12月10日 | 議会開院式還幸の御途、前代議士田中正造、足尾銅山鉱毒事件の直訴を行う | ||||||||
| 12月27日 | 学生の鉱毒地視察、906名参加 | ||||||||
| 12月29日 | 食堂車が東海道線急行列車に登場 | ||||||||
| ※ | 京極小学杖の前身開設。 | ||||||||
| ※ | 札幌の3新聞が合同して北海タイムスを創刊する | ||||||||
| 内閣総理大臣 伊藤博文(明治33年10月19日~明治34年5月10日) | |||||||||
| 西園寺公望(明治34年5月10日~明治34年6月2日) *臨時兼任 | |||||||||
| 桂 太郎 (明治34年6月2日~明治39年1月7日) | |||||||||
2011/11/22 00:50:28
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1900年(明治33年) |
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| 3月10日 | 治安警察法公布 | ||||||||||
| 4月30日 | 『軍艦マーチ』演奏される | ||||||||||
| 7月26日 | 津田梅子、女子英学塾を創立 | ||||||||||
| 7月26日 | 清の孫文、日本に亡命 | ||||||||||
| 9月14日 | 女子英学塾(津田塾大学)開校 | ||||||||||
| 9月15日 | 立憲政友会発会式挙行(伊藤博文を総裁とする) | ||||||||||
| 9月15日 | 岡山第六高等学校(岡山大学)の開校式 | ||||||||||
| 9月26日 | 山県内閣総辞職 | ||||||||||
| 10月19日 | 第四次伊藤内閣成立 (明治33年10月19日~明治34年5月10日) | ||||||||||
| ※ | エゾシカ絶滅の危機が回避されたので、捕獲禁止が解除されました。 | ||||||||||
| ※ | 北海道拓殖銀行の創立総会を開く | ||||||||||
| ※ | 現下川町に岐阜県郡上郡高鷲村(現郡上市)から25戸の開拓団が集団移住した。 | ||||||||||
2011/11/21 00:48:17
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1899年(明治32年) |
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| 1月19日 | 勝海舟、77歳でこの世を去る | ||||||||||
| 4月4日 | 東京に音楽、外国語学校開校 | ||||||||||
| 7月4日 | ビヤホール初めてあらわれる | ||||||||||
| 9月15日 | 函館の大火(約2000戸焼失) | ||||||||||
| 12月16日 | 年賀郵便特別扱い始まる | ||||||||||
| ※ | 区制施行。札幌区となる。区とは市よりも小さく町よりも大きな自治体である。 | ||||||||||
| 札幌区以外に道内には他に函館区と小樽区があった | |||||||||||
| 初代区長 対馬嘉三郎就任(明治32年12月~明治35年5月) | |||||||||||
| ※ | 現小樽市の田中酒造店株式会社創業(現在まで営業を続ける酒造店です) | ||||||||||
| ※ | 上砂川地区に福井県鶉村から来た開拓者・山内甚之助氏他8名によって、この地に鍬が | ||||||||||
| 入れられたのが発祥。 | |||||||||||
| ※ | 苫小牧から静内までの国道が開設 | ||||||||||
| ※ | 「北海道旧土人法」成立。農業に従事する旧土人には土地を無償で与える。 | ||||||||||
| 旧土人の部落には国費で小学校を設置する。 | |||||||||||
2011/11/20 00:52:24
| <軍事と切り離せない旭川の鉄道史> |
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| 旭川は軍都であると同時に鉄道のマチでもありました。 | ||||||
| 明治31年に上川線(現函館線)が旭川まで開通したのを皮切りに、明治 | ||||||
| 33年には十勝線(後の釧路線・根室線・現富良野線)が富良野まで開通。 | ||||||
| 明治36年には天塩線(現宗谷線)が名寄まで達し、少し遅れて大正11年 | ||||||
| に石北線が愛別、翌12年には上川まで開通。 | ||||||
| とにかく現在では考えられないような矢継ぎ早に鉄道網が構築されています | ||||||
| 明治政府は何故こうまでこの地の鉄道建設を急いだのでしょうか? | ||||||
| これらは明らかに第七師団の建設と連動していました。旭川で第七師団の建 | ||||||
| 設工事が始まったのは明治32年の事ですから、つまり旭川を中心とする鉄 | ||||||
| 路整備は全てこの師団の建設と前後しています。 | ||||||
| 師団の建設は上川線(函館線)の開通を待っていたように始められました。 | ||||||
| 膨大な量の建設資材を運ぶための引込み線(鷹栖線、大町岐線)がこの翌年 | ||||||
| に敷かれています。さらに師団建設と平行して道東路線である十勝線、道北 | ||||||
| 路線である天塩線にも着手し、明治35年の師団完成時にはいずれも部分開 | ||||||
| 通を実現しています。 | ||||||
| これらの鉄道路線が当時の対ロシア防衛と深い関わりを持っていた事は明白 | ||||||
| です。つまりロシアが千島ルートを使って侵攻した場合、樺太ルートを使っ | ||||||
| て侵攻した場合、いずれの場合にも第七師団を速やかに対処可能にするため | ||||||
| の移動手段だったのです。 | ||||||
2011/11/19 00:50:47
| <トラピスト修道院> | ||||||
| トラピスト修道院はカトリックの修道会の一つである厳津シトー会(トラ | ||||||
| ピスト会)の修道院で、日本では主に北海道北斗市三ツ石(渡島当別)に | ||||||
| 所在する「灯台の聖母トラピスト大修道院」の通称となっている。信徒 | ||||||
| により函館郊外、当別の原野が寄進され、明治29年10月末には9名の修道 | ||||||
| 士の来日をみた。 | ||||||
| 明治30年1月、ノルマンディー地方にあるブリックベック修道院の副院長 | ||||||
| であるジェラール・プゥイエ師が、修道院長として来日し、当別に着任。 | ||||||
| ●明治31年4月30日には、函館湯川に「女子トラピスト修道院天使園」 | ||||||
| が創立される。昭和10年の総会で、灯台の聖母修道院は大修道院に昇格さ | ||||||
| れる。 | ||||||
| 現在、当別修道院の他、男子修道院としては昭和55年大分県 速見郡日出 | ||||||
| 町に開設された『お告げの聖母修道院』を、また女子修道院は国内に四カ | ||||||
| 所、海外(韓国)に一カ所を子院として持ち、会員は「祈り働け」をモッ | ||||||
| トーに、各修道院にて労働と祈りの日々を送っている。 | ||||||
| 童謡『赤とんぼ』の作詞者として知られている詩人の三木露風は30代の初 | ||||||
| めの頃、プゥイエ院長の招きで当院の文学概論、美学論などの講師として | ||||||
| 夫人とともに4年間を当別で過ごし、その間に夫婦で受洗してカトリック | ||||||
| 信者となった。また、男爵イモの開発者として知られる川田龍吉爵も、そ | ||||||
| の晩年に当別教会にて、D.ベネディクト大修道院長によって洗礼を授けら | ||||||
| れた。 | ||||||
2011/11/18 00:42:03
| 1898年(明治31年) | ||||||||||
| 1月12日 | 伊藤博文、第三次内閣成立 | |||||||||
| 4月30日 | トラピスト女子修道院修道院、北海道亀田郡上湯川に創立 | |||||||||
| 6月22日 | 自由・進歩両党合同し、憲政党結党式(板垣退助総理) | |||||||||
| 6月25日 | 伊藤内閣総辞職 | |||||||||
| 6月30日 | 最初の政党内閣成立(大隈重信、憲政党内閣の首相として組閣) | |||||||||
| 8月21日 | 北海道旭川鉄道開通式 | |||||||||
| 10月31日 | 大隈重信内閣、総辞職 | |||||||||
| 11月8日 | 第二次山県有朋内閣成立 | |||||||||
| 11月29日 | 徳富濾花の「不如帰」連載始まる。 | |||||||||
| 12月18日 | 西郷隆盛銅像除幕式 | |||||||||
| ※ | 常呂村に岐阜団体が入植 | |||||||||
| ※ | 屯田銀行が小樽に移転、北海道商業銀行と改名 | |||||||||
| 内閣総理大臣 松方正義 (明治29年9月18日~明治31年1月12日) | ||||||||||
| 伊藤博文 (明治31年1月12日~明治31年6月30日) | ||||||||||
| 大隈重信 (明治31年6月30日~明治31年11月8日) | ||||||||||
| 山県有朋 (明治31年11月8日~明治33年10月19日) | ||||||||||
2011/11/17 00:09:44
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<京極町の開拓・京極高徳> |
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| 明治30年、現在の京極町の地域に土地の貸付が出願されました。 | ||||||
| 出願人は京極高徳でした。その大きさは全部で240万坪。広大な土地を貸 | ||||||
| 付ることになったのは、すでに開設されていた京極第一農場に次ぐ農場設 | ||||||
| 置のためでした。京極高徳は、現在の香川県旧丸亀藩主。明治17年に子爵 | ||||||
| になっている人物です。彼は藩主家やそれに関係する人々のために、農場 | ||||||
| 経営を拡大しようとしていたのです。 | ||||||
| 高徳は、旧臣・児玉忠広を調査員として派遣します。 | ||||||
| 児玉は当時、官の仕事についていましたが、旧主の指名により北海道庁属 | ||||||
| となり、道内の土地をつぶさに調べました。そして、現在の美唄とワッカ | ||||||
| タサップと呼ばれていた京極町のあたりを選定し、京極家に上申します。 | ||||||
| これをうけて、京極高徳はワッカタサップを農場にする計画を立て、すぐ | ||||||
| に貸付を出願しました。そして、児玉忠広に管理人を命じました。 | ||||||
| 児玉は、まず道路の開削から始め、尻別川までの間に道路を開き、川を渡 | ||||||
| って農場事務所を設置しました。そして、最初の入植者たちを募ります。 | ||||||
| 明治31年3月、第1回目の小作者を石川県から入地させました。第2回 | ||||||
| 目と3回目の入植者は、石川県と富山県から募りました。明治40には、120 | ||||||
| 戸の小作人が京極農場で働いていました。 | ||||||
| この後、京極農場は神社、寺院の建立や学校、郵便局の設立などを行って | ||||||
| いき、人々の生活基盤を整えて行きます。大正8年には鉄道が開通し、駅名を京極と | ||||||
| しました。昭和12年、農地解放により、京極農場の役目は狩猟しました。 | ||||||
| 昭和15年村の名前を京極村として、京極家と農場の歴史を永遠に刻み込みました。 | ||||||
2011/11/16 00:07:56
| 訓子府町開拓 北光社移民団・高知県 |
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| 明治30年5月、訓子府町と北見市に高知県からの開拓者が入植。 |
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| この開拓者が「北光社移民団」です。 北光社社長は、坂本龍馬の甥になる坂本直寛で、移民団は、約110戸と言われております。 |
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| 坂本直寛 |
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| 直寛は1896年(明治29年)北海道・北見開拓の視察をする途中、 浦臼(うらうす)の聖園農場に立ち寄り北見地方開拓の協力を求めました。 |
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| この事により浦臼町との関係が始まります。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ここには同じ高知出身でキリスト教を信仰する武市安哉(あんさい) (自由民権運動者・代議士)が、信仰と教育による理想農園を作ろうと入植し |
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| たものの2年前の12月2日に青函連絡船にて脳溢血のため急死していました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2011/11/15 00:06:04
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<豊頃開拓の祖 二宮尊親> |
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| 興復社二宮農場の創設者二宮尊親は、二宮尊徳の孫として、安政2年 | ||||||
| 11月16日、現在の栃木県今市市に誕生。明治29年興復社再建の | ||||||
| ために北海道開拓を決意し、社員等4名とともに渡道。 | ||||||
| 明治30年牛首別興復社の設立認可を受け、3月3日第一期移住民1 | ||||||
| 5戸を引率し、4月8日牛首別原野に到着。この年郷里から家族を呼 | ||||||
| び寄せ、茂岩に居住することとなった。以来明治31年第二期入植者 | ||||||
| 23戸、明治32年第三期入植者14戸、明治33年51戸、明治3 | ||||||
| 4年14戸と続いて入植し、尊親自ら陣頭に立って寝食を忘れて指導 | ||||||
| に当たった。明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、 | ||||||
| 各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に転住。その後 | ||||||
| は年に数回実情の把握および指導のため現地入りしたのである。 | ||||||
| この間、十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田 | ||||||
| 勉三、関寛斎らが尊親を訪れたこともあった。郷里に帰った後も、尊徳遺稿 | ||||||
| 一万冊の整理、「二宮尊徳遺稿」の編集著作に専心する傍ら、農業関係、金 | ||||||
| 融関係、教育関係の公職及び実務に当たり、現西宮市報徳学園の二代目校長 | ||||||
| などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死した。 | ||||||