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1887年(明治20年)          
1月22日 東京市街に始めて営業電燈点火。          
5月20日 博愛社から日本赤十字に改称。          
5月23日 榎本武揚、佐野常民ら16名の勲功により子爵を高崎正風、井上良馨ら18名に男爵を授ける  
5月 江別と篠津の第一大隊第三中隊を、第三大隊第一中隊とする。      
  野幌の第一大隊第四中隊を、第三大隊第二中隊とする。      
  新琴似兵村第一大隊第三中隊。(九州の士族を中心に屯田兵146戸が新琴似に入植)  
  室蘭和西兵村 室蘭屯田兵中隊。110戸        
上砂川炭田が発見される。          
現札幌市の手稲区、西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。  
室蘭工業大学の前身「札幌農学校工学科」設立。      
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    <尋常小学校>
 
     
尋常小学校は明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存
在した初等教育機関の名称。
1886年(明治19年)の小学校令で尋常小学校と高等小学校が設置
される。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は3年間も
しくは4年間で、1900年(明治33年)の改正で4年間のみに統一
され、その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907
年(明治40年)に6年間に延長された。
1941年(昭和16年)の国民学校令により、国民学校が設置され、
尋常小学校と高等小学校は消滅した。
第二次世界大戦終戦後、1947年に消滅前の尋常小学校を母体に小学校の
名称が復活、消滅前の高等小学校は1947年に新制中学校に改組された。


    <上川仮道路(現在の国道12号線)開通>
 
 
 国道12号の歴史は、前身となる市来知(現 三笠市)- 忠別太(現 旭川市)  
 間の87.9kmの上川道路が1886年(明治19年)5月に着工したのにはじまる。  
工事には、月形町の樺戸集治監の囚人が駆り出され、わずか90日後の8月に  
幅約2メートルの道路が仮開通した。この工事の復命書に「可成(なるべく)  
直線路に為すを主とし」とあったことから、美唄市 - 滝川市間の日本一長い  
 直線道路が誕生した。          
翌年から、樺戸、空知集治監の囚人らによって改修が行われ、1889年ごろに  
完成した。工期の短さから囚人の労働は過酷なものであったことがわかるが  
 動員数や犠牲者数は記録に残っていない。      


1886年(明治19年)                
北海道庁設置 初代長官岩村通俊の施政方針演説      
「移住民を奨励保護するの道多しといえども,渡航費を給与して,内地無頼の      
徒を召募し,北海道をもって貧民の淵藪(えんそう)となす如きは,策のよろ      
しき者にあらず。…自今以往は,貧民を植えずして富民を植えん。是を極言す      
れば,人民の移住を求めずして,資本の移住を是れ求めんと欲す。」       
直接保護から間接保護へ,内地資本の導入,      
内国植民地化      
明治19年~同22年 北海道庁による植民地選定事業      
明治19年 「北海道土地払下規則」発布国有未開地の民間への払下げが実施された。      
原則として10年間無償で土地を希望者に貸与し,その後に払下げて所有権を与える。       
       
       
                       
1月26日 北海道の3県を廃止し北海道庁開設(長官は岩村通俊)            
4月9日 東京高等師範学校開設                  
4月10日 師範学校令・小学校令・中学校令を公布する              
4月29日 商船学校、高等師範学校などの管制交付              
5月 根室郡東和田兵村 第二大隊第一中隊。220戸。              
上川仮道路(現在の国道12号線)開通              
南幌町に新潟県から10戸の入植があり、幌向原野に越後村を開きました。
福井県出身の石川藤助が函館の湯の川に100度C以上の効能すぐれた温泉を掘り当て湯治場を開く。          
幾春別炭坑が開坑し、以後石炭のまちとして栄えた。  
赤心社、日高駒の育成始める。牧場を作り道産雌馬十数頭と南部産種雄馬を入れ、のち      
  道庁からアルゼリー、トロッター両種馬の管理をまかされ、社員を真駒内種蓄場で技術        
  を習得させ名馬日高駒の発祥になった。              
江東小学校 江別町尋常小学校(明治25年)前身設立        


  <釧路集治監(標茶集治監)>     
 明治18年、現在の標茶町に釧路集治監が開庁。 明治23年には1,409人を  
収容していた。釧路集治監に収監された囚人は、川湯硫黄山での採掘、標茶  
釧路間の軽便鉄道敷設、厚岸屯田兵屋建設、釧路川浚渫などに使役された。  
特に硫黄山の採掘は、あまりに消耗が激しいため、明治20年11月に囚人の  
硫黄採掘作業は中止された。明治27年以降は付設農場での大豆栽培などに力  
点が置かれた。           
 明治24年に北海道集治監釧路分監に改称、明治34年に廃止。明治18年に建  
てられた釧路集治監の本館は、現在標茶町郷土館として公開されている。   


1885年(明治18年)                
内閣大書記官金子賢太郎の「北海道三県巡視復命書」(「囚人の死は一石二鳥」)により,      
囚人による道路開削が始まる(北見峠―網走間など)。      
3月9日 初めて電話機・電燈が輸入される(エジソンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈)        
7月1日 特許法実施(第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料)            
7月 札幌郡野幌別兵村 第一大隊第四中隊。138戸。              
9月17日 日本郵船創立                  
10月16日 上野駅開業                    
11月14日 最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑業組合成立              
12月22日 最初の組閣、第一次伊藤内閣成立し初代総理大臣に伊藤博文(宮相兼務)        
   (明治18年12月22日~明治21年4月30日)              
現在の札幌市厚別区青葉町ともみじ台を含めた下野幌地区に、石松弥七と小ケ口石太郎
  が上野幌地区には小ケ口石松、石井市郎兵衛、大崎三平、太田鉄五郎らがそれぞれ入植。        
  また、大谷地にも阿住勘五郎、駒林鉄五郎が入り、開拓のクワが入れられた。
現在の標茶町に釧路集治監が開庁。                


       <岩見澤村の開村>    
 現岩見沢市(いわみざわし)は、空知支庁南部の市、空知支庁所在地。  
 明治15年11月13日、幌内煤田鉄道の幌内~手宮間が全線開通し、うっそう  
 とした未開の地に文化の光が差し始めた。      
 明治16年に公布された移住士族取扱規則により、この地に札幌県勧業派出  
 所が設置され、明治17年10月6日設村の告示により岩見澤村となった。  
 明治22年には、岩見澤・滝川・忠別太(現旭川)間、明治23年には岩見澤  
 ~夕張間に道路が開通しました。また、明治24年に岩見澤~歌志内間、同  
 25年に岩見澤~輪西(室蘭)間の鉄道が開通し、岩見澤駅も元町から現在  
 地に移転、新市街地が形成されるとともに、陸上交通の要衝となった。  


1884年(明治17年)                
1月23日 「八雲小学校黒岩分校」開設。                
3月10日 芝浜離宮の延陵館に天覧相撲催され初代梅ケ谷に横綱を許される。          
3月17日 憲法制定取調局設置され、参議伊藤博文が長官を兼ねる。            
4月7日 山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる。          
5月 琴似屯田兵を第一中隊、山鼻を第二中隊、江別と篠津を第三中隊に編成。          
7月7日 華族令定める(爵位公・侯・伯・子・男の五位の制成る)            
10月6日 設村の告示により岩見澤(イワミザワ)村となり、戸長役場、郵便局も設けられ、開拓
  の事業も順調に進み活気のある村となってきた。              
  (明治17~18年には、山口県・鳥取県ほか10県からの士族277戸、1,503人の集団移住に
  より、初めて開拓の鍬は打ち下ろされました。)              
宮内省の所管に変更になり新冠御料牧場となる。              
私立赤心小学校を教会兼用として建て、日曜日は安息日としてキリスト教講話や        
  道徳などの寺小屋式教育を始めた。                


  <信濃開拓地/札幌市厚別区>
 
 
 厚別地区の本格的な開拓は、明治15年に、この地を経由して、札幌と
   幌内炭鉱(三笠市)の間に鉄道が開通したことから始まりました。
   現在の厚別中央から厚別西にかけての、JR厚別駅周辺には、明治16年に
   河西由造たち8戸が入植しました。
 
   この人たちは、長野県出身で、当時長野県のあたりを「信州信濃」と呼ん
   でいたことから、この入植地も、通称「信州開墾地」とか「信濃開拓地」
   と呼ばれるようになりました。現在も、小・中学校や神社・公園などに、
  この名が残っています。  
 
     
 
明治18年になって、現在の青葉町ともみじ台を含めた下野幌地区に、
  石松弥七と小ケ口石太郎が、上野幌地区には小ケ口石松、石井市郎
  兵衛、大崎三平、太田鉄五郎らがそれぞれ入植しました。    
  また、大谷地にも阿住勘五郎、駒林鉄五郎が入りました。    
  現在の厚別北と厚別東を含む小野幌地区は、これより少し遅れて、明治
  22年に秋本槌五郎が入り、炭焼きを始めました。    
  山本地区は、さらに遅れ、小樽の山本久右衛門が、北海道からこの地の払
  い下げを受け、明治42年から開墾に着手しました。    
  この後も、多くの開拓者が厚別地区に入りましたが、白石区のように、
  本州からの集団で、直接移住したのではありません.小樽や札幌の中心に
  いったん定住した後、移り住んだ人がほとんどでした。    


帯広の開拓<静岡出身の晩成社>
 
   
帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓ではなく、静岡県出身  
の依田勉三率いる晩成社一行が明治16年に入植したのが開拓の始まり。
 
 
依田勉三の北海道開拓の志をもとに、土地開墾、農業、牧畜、造林などを目  
的として明治15年、静岡県伊豆国那賀郡大沢村(現、賀茂郡松崎町大沢)で  
同地の豪農、依田家によって結成された会社です。      
(資本金を5万円。当時の1円は、現在の4000円)。      
明治16年に現在の帯広市へ入植し、3年後の明治19年に大樹町生花晩成  
地区で晩成社当縁牧場を開設し、牧畜業を始めました。    
依田勉三が「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだように、一つの鍋で全  
ての煮炊きをした。          
明治28年に通称十勝監獄が開設され、受刑者によって大通が整備され市街地  
が形成された。市街は計画的に整備されており、帯広駅を中心に碁盤目状の  
区画が四方に広がり、大通公園から北東、北西、南東、南西に対角線方向の  
道路(火防線)が設けられている。        


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
男性