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  <大江村の開拓>  
ニッカウヰスキーで有名な余市の南に仁木町があり、ここに「大江」と
 いうところがあります。
   この地の開拓の歴史は、旧長州藩主毛利元徳公が明治14年6月余市郡山  
道村の一部(現在地)300万坪の払い下げを願い出て、同年8月に許可
   を得ました。
   明治16年3月9日「余市郡に大江村を新設(告示)」。
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1883年(明治16年)                
2月16日 天気図初めて発行される(七色刷りの天気図で一日一回発行)
3月9日 大江村の成立。山口県からの移民を中心に大江村が開拓される。大江は、山口県を支配      
  した毛利氏の子孫とされる大江広元にちなむ。              
5月 静岡県出身の依田勉三率いる「晩成社」が帯広に入植。            
現在の札幌市厚別駅周辺に長野県出身の河西由造たち8戸が入植した。          
  「信州信濃」と呼んでいたことから、「信州開墾地」とか「信濃開拓地」と呼ばれるよ        
  うになった。                    
11月28日 鹿鳴館、開館式挙行。                  
移住士族取扱規則により、岩見沢に札幌県勧業派出所が設置される          
創成小学校を附属として札幌県師範学校が創立              
この頃からアイヌに対する強制移住が始まる。              
                       


    <篠路興産社・滝本五郎>    
板野郡長江村(現・鳴門市大津町)出身の滝本五郎は、北海道に移住
して大農法による農場開拓を目指し、明治14年、実弟阿部興人と組ん
  で徳島興産社を設立した。
明治15年5月、47歳で篠路に入地。同18年には札幌郡篠路村の興産
  社農場に製造所を設けて蒅(すくも)の製造に乗り出した。
興産社は利子補給の特典を受ける保護会社となり、北海道庁の支援を
  受けながら、製藍事業を進めた。
同28年には製藍高4万3000貫に達し、北海道藍は本場の阿波藍を圧
迫するほどであった。しかし全国の伝統的な製藍業が化学染料の合成
藍に押されて衰退していく中で、明治30年には書業の中止を余儀なく
  されていった。
現在、民芸ブームの中で伝統的な藍染めが見直され、壊滅状態にあっ
た藍が復活しているが、北海道では徳島県出身の篠原家が伊達市で今
  も藍づくりを続けている。
また現在の札幌市北区篠路町の「あいの里」は、興産社の藍を地名の
  ゆかりとしている。


     <国稀(日本最北の酒蔵)>    
国稀は明治15年、初代本間泰蔵が、増毛郡役所に醸造免許鑑札願いを届け出
て創業した。本間泰蔵は、嘉永2年(1849)新潟県佐渡の仕立て屋の三男として
生まれ、明治6年23歳で小樽に渡り呉服店の養子格の番頭として働き、ニシン
景気でわく増毛にしばしば行商で来ていましたが、明治8年に増毛に移り住み
呉服商を始めた。          
明治15年には「丸一本間」を名乗り、本業の呉服商の他に、荒物雑貨販売、
呉服雑貨や漁獲物の輸送のためだけではなく、地域住民の需要を満たす海運
業、当時この地第一の産業であったニシン漁にも手を拡げ、醸造業も始め
るに至った。          


        <北海盆唄>  
  北海盆唄は、北海道の民謡。北海道の盆踊りで使用される曲でもある。
三笠市幾春別(いくしゅんべつ)の炭鉱が発祥の地であり、北海道各
  地でお盆になると盆踊り用の曲として用いられる。
 元は「べっちょ節」(炭鉱節)と呼ばれる卑猥な歌詞を持つ歌であり、
炭鉱労働者が盆踊りとして踊っていたものであるが、昭和15年頃,太
平洋戦争後(昭和15年8月)、「北海民謡の父」といわれる今井篁山が
歌詞・曲調を見直し、三橋美智也の歌によりレコード化、大ヒットし
たことがきっかけに全国的に普及した。
『8時だョ!全員集合』のオープニングテーマは、この曲の替え歌であ
   る。
  1番    
  ハアー 北海名物    
  ハアー ドウシタ ドウシタ    
  数々コラあれどヨー    
  ハアー ソレカラ ドウシタ    
  俺がナー 俺が国サーのコーリャ    
  ソレサナー 盆踊りヨー    
  ハア エンヤー コーラヤ    
  ドッコイ ジャンジャン コーラヤ    
             


        <空知集治監>    
 明治15年6月、現在の三笠市に空知集治監が開庁。主に明治12年に開坑
 した幌内炭鉱で受刑者を使役するために建設され、明治23年には3,248人
 を収監していた。           
 受刑者のうち1,000人程度が幌内炭鉱の採炭労働に、他は道路建設などに
 従事していた。幌内炭鉱は明治22年に北海道炭礦鉄道に払い下げられたが
 その後も炭鉱での囚人の使役は継続していた。囚人労働が中止されたのは
 明治27年末のことである。明治23年には3,248人を収監していた。 
 何度か名称を変更した後、明治36年に廃止。    



1882年(明治15年)                
1月1日 全国人口、3670万人118人(東京98万2143人)    
3月20日 上野動物園開園                  
4月28日 東京上野の帝室博物館落成(現在の東京国立博物館)            
5月15日 徳島県人滝本五郎らが「興産社」を組織して篠路に入植し、藍を栽培。      
6月 空知集治監 市来知(現三笠)に設置              
8月 琴似屯田兵を第一、第二中隊、山鼻を第三、第四中隊に編成。          
10月10日 日本銀行開業                  
10月23日 上磯小学校七重浜分校として開設。              
11月13日 幌内煤田鉄道の幌内~手宮間が全線開通              
明治14年の開拓使官有物払下事件を発端とし開拓使は廃止。
開拓使の廃止で北海道は札幌・函館・根室の3県に分割、農商務省北海道事業管理局      
  が設置(1883年)された。                
三笠は『北海盆唄』発祥の地。三笠の地名の由来は、空知集治監にあった裏山が      
  奈良の三笠山に似ているという、囚人が望郷の念をこめて当時から三笠山と呼んでいた      
日本最北の酒蔵「国稀」創業。              


  <開拓使官有物払下事件>  
 北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使の官有物払下げを決定したところ、
世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。明治十四年
  の政変のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放。
開拓使は、北方開拓のために明治2年7月から明治15年2月まで置かれ
   た官庁である。
黒田はロシアに対抗する国力を充実させるため北海道の開拓に力を入れ
   るべきだという建議を行った。これに従い、明治4年8月19日に10年
間1000万両をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使
  十年計画が決定された。
黒田は米国人ホーレス・ケプロンらを招いて、政策の助言と技術の伝習
を行った。開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、
なおも全てを完遂するには不足であり、測量・道路などの基礎的事業を
   早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。
十年計画の満期が近くなった明治14年に開拓使の廃止方針が固まった。
黒田は開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏を退職させて企業
   を起こし、官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。
黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者をあてるべきだと主張し、
また事業が赤字であったことを理由に、非常な安値を付けた。払下げの
対象は船舶、倉庫、農園、炭鉱、ビール・砂糖工場などで、およそ1400
万円の費用を投じたものを38万円(無利息30年賦)で払下げるという
ものであった。開拓使大書記官であった安田定則らの作った北海社が工
場経営などの事業に当たるが、資本がないため関西貿易商会(黒田と同
郷の薩摩出身者五代友厚らが経営)が払下げを引受けることになった。
政府内でも批判の声が起こり、特に払下げの規則を作った前大蔵卿の大
隈が反対した。7月に払下げ計画が新聞にすっぱ抜かれると、大隈が秘
密を漏らしたのだろうと疑われた。これ以前に三菱の岩崎弥太郎が開拓
使の船舶の払下げを願い出て却下された経緯があった。このため世間で
は、三菱と大隈が結びついて、薩摩に対抗していると見られた。更に大
隈が登用した大蔵官僚の間にも払い下げ中止を求める意見が出された事
から、払い下げ中止を目的として大隈が仕掛けたという説が広まった。
黒田は強引に天皇の裁許を得て払下げを決定した。批判の声は益々高ま
り、御用新聞の東京日日新聞までが政府批判を行ったほか、各地で弾劾
   の演説会が催された。
天皇は地方行幸に赴き、大隈はこれに同行していた。その間に伊藤らは
収拾策の方針を決定。天皇が10月11日に帰京すると裁許を仰ぎ、翌12
日、大隈の追放、国会開設の詔勅、払下げ中止などを発表した。一種の
クーデターである(明治十四年の政変)。その後、黒田も開拓長官を辞め
  て内閣顧問の閑職に退いた。
開拓使は翌明治15年に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に
 分けられた。


           赤心社<開拓団体>    
 赤心社(本社は神戸栄町3丁目)は明治14年1月株主総会を開いて『耕工夫
規則の大旨』を決定し、株主中より委員を選出した。委員の中には旧三田藩
 主九鬼隆義や同大参事白洲退蔵らも名を連ねている。  
13年8月に始まった株の募集は、4月に至って600株(一株60円、一時払込みで
も一月50銭、10年を以て満額としてもよかった。後者は移住民でも容易に株
主になれるよう配慮したもの)に達したので、移民募集に着手。  
社長は本社に居り、副社長は現地に駐在することになった。  
第一次募集に応じた移民は途中暴風雨に合い函館で20日間の滞在を余儀なく
され、5月19日浦河に到着した。6月28日社長鈴木清は第一次入植状況を視察
するため神戸を発し7月31日浦河に着いた。早速開拓地を視察したところ、開
拓されたのは僅かに七反歩で、あまりの業績不振に鈴木は唖然とした、すぐ
さま札幌に赴き開拓使勧業課、租税課その他各方面に奔走して、農事指導者
を迎え為替送金、麻種の払い下げ、耕牛・機械類の購入に成功し、失望離散
した移民を集め激励した。        


  石狩川右岸シペツプト(現月形町)
<樺戸集治監>
 樺戸集治監が石狩川右岸シペツプト(現月形町)に7400坪の全国一の規模で
 設置された。工事の請負業者は大倉組商会(現大成建設)で、建設予算は10
万円である。初代典獄(刑務所長)は月形潔。収容人数は、最高2365人
(明治22年)通常1300人程度が収容されていた。後に樺戸監獄署、北
 海道集治監樺戸本監、樺戸監獄と名称が変更され、1919年(大正8年)
 1月に廃止された。          
 月形町は内務省御用掛権少書記官から樺戸集治監(明治14年~大正8年)
の初代典獄に任ぜられた月形潔氏の姓を取り、明治14年7月1日、空知支
 庁管内第1号の村として誕生しました。      
樺戸集治監は、明治維新後の新政府が全国多数の国事犯や重罪犯を収容する
ため、全国で3番目、北海道では最初にシベツブト(現在の月形町)に設置
 されました。          
 この集治監の囚人による農地開墾や道路開削などが礎となり、今日の月形町
 があります。          


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
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