2011/09/24 00:34:09
| 明治11年 |
<八雲町開拓/尾張藩主徳川慶勝> |
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| 旧八雲町は開拓の祖、旧尾張藩(名古屋)主徳川慶勝侯が北海道開拓と併せて旧臣授 | ||||||
| 産のため、遊楽部の土地の下付を願い出て明治11年、家族 持15戸、単身者10名 | ||||||
| 総人員72名を移住させたことから本格的に開拓が進められた。 | ||||||
| これが、八雲町の組織的団体移住者のはじまりであった。 | ||||||
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その後年々移住する戸数が増加して明治14年黒岩とともに独立して八雲村となった。 |
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| 町名は明治14年に徳川御三家の一つ、旧藩主徳川慶勝侯が、豊かで平和な | ||||||
| 理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(古事記) | ||||||
| 素盞嗚尊(日本書紀)(スサノオノミコト)が読んだ | ||||||
| 「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」 | ||||||
| を引いて名付けた。 | ||||||
| その後国道の開通により、役場をはじめ各施設機関が漸次山越内村から | ||||||
| 八雲村に移り、明治35年北海道2級町村制施行により両村が併合して八 | ||||||
| 雲村ができあがった。明治36年に鉄道が開通し、38年に片栗粉同業組 | ||||||
| 合の設立により澱粉製造業が急激に発展し、関西市場の覇権を握って | ||||||
| “八雲片栗粉”の声価を博すようになった。 | ||||||
2011/09/21 00:49:39
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<西南戦争と屯田兵> |
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| 西南戦争が勃発した明治10年2月、屯田事務局は黒田開拓長官の命令で、 | ||||
| 屯田兵小隊を函館港に派遣した。第一中隊の安田安中尉が30名の部下とともに出動 | ||||
| し、約1カ月間船舶を監視する任務に就いた。反乱の拡大がないと見極めが | ||||
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着いた3月下旬に引き揚げた。 |
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| 4月10日黒田長官は屯田兵第一大隊、つまりは屯田兵全部隊に出征を命じた | ||||
| 屯田兵は小樽港から出向し、熊本県の百貫に着き、小島町に宿営した。 | ||||
| 27日に別働第二旅団に所属することが決まり、鎮台兵一中隊と狙撃兵若干 | ||||
| が配属された。以後、屯田兵は八代から人吉への進撃に加わって、交戦を | ||||
| 重ねた。屯田兵の下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったので、戊辰 | ||||
| 戦争の敵だった鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立った。 | ||||
| しかし、将校の地位を占めた鹿児島県出身者には戦意が乏しく、8月2日の | ||||
| 一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、屯田部隊で「戦争をしている | ||||
| のは下士兵卒で将校ではない」と評したという。戦争の終わりが見える | ||||
| と8月16日に帰郷命令を受けた。 | ||||
| 戦争中、屯田兵は戦死7人、戦病死20人、負傷20人の損害を出した。 | ||||
| 屯田兵は都ノ城、神戸、東京を経由して9月30日に札幌に戻った。 | ||||
| 途中、9月3日に屯田予備兵とともに明治天皇の観閲を受け、慰労の言葉を | ||||
| 賜った。戦後の論功行賞は、非難の的だった鹿児島出身将校に厚く勇 | ||||
| 戦した他藩出身者に薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をした。 | ||||
2011/09/19 00:51:00
北海道の歴史(年表) 明治10年
| 2月3日 | 西郷隆盛、私学党を率いて遂に官軍対抗の意を決す。 | ||||||
| 2月15日 | 西郷隆盛が挙兵(西南戦争始まる)。2月22日西郷軍、熊本城を包囲。 | ||||||
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3月3日官軍、薩軍と田原坂で激戦。3月20日政府軍、激戦の末、田原坂を占領。 4月14日黒田清隆率いる政府軍、熊本城に入る。5月31日薩摩軍敗れて、悉く肥後人吉に退く。 |
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| 9月8日官軍、鹿児島城山を包囲。 | |||||||
| 9月24日 | 西郷隆盛、桐野利秋ら城山で自決。(西南戦争終結)。 | ||||||
| ※ | 琴似小学校前身開設。 | ||||||
| ※ | 開拓使雇エドウィン・ダンの意見と設計に基づき、近代西洋式牧場として再編整備され | ||||||
| 「新冠牧馬場」と改称する。 | |||||||
| ※ | 札幌ビール発売 | ||||||
| ※ | 「北海道地券発行条例」地価査定・地租創定,先住民アイヌ民族の居住地も含めた | ||||||
| 大部分は国有地とされ,その中から広大な御料地(北海道全面積の2割強)が作られた。 | |||||||
2011/09/18 00:05:54
明治9年 <開拓使麦酒酒造所開業>
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業
に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源と
なって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消
費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており
原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことな
ど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策
に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、
明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛
によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレード
マークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって
東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者
たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」
として新たなスタートを切ります。
ロシアの南下政策への対抗策として明治2年に設置された開拓使は、殖産興業
に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて
「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。
輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源と
なって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消
費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており
原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことな
ど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策
に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは明治9年に醸造所の建設から始まり、
明治10年夏には、本場ドイツで修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛
によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレード
マークである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって
東京へと運ばれました。
開拓使ビールの発売からほぼ10年後、数知れないほどの困難を乗り越えた先駆者
たちの努力によって国産ビールの総生産量はついに舶来ビールの輸入量を上回ります。
その後、開拓使麦酒醸造所は渋沢栄一らが経営に参画し、民間会社の「札幌麦酒会社」
として新たなスタートを切ります。
2011/09/16 00:59:24
明治3年 <ホーレス・ケプロン>
1804年8月31日 - 1885年2月22日没
アメリカ合衆国の軍人、政治家。お雇い外国人の1人。
マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、
アメリカ合衆国政府で農務局長となった。
明治3年(1871年)渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。
開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。
札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業
など、開拓のほぼ全領域に渡っている。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。
北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。
ケプロンの進言に従い、1877年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量
産工場である石狩缶詰所が作られた。
この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。
開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
ケプロンの進言に従い、札幌-室蘭間、森-函館間までの馬車道が整備された
(室蘭-森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、ほぼ現在の国道5号線である。
札幌大通り公園に黒田清隆像と並んで銅像が建っている。
1804年8月31日 - 1885年2月22日没
アメリカ合衆国の軍人、政治家。お雇い外国人の1人。
マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、
アメリカ合衆国政府で農務局長となった。
明治3年(1871年)渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。
開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。
札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業
など、開拓のほぼ全領域に渡っている。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。
北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。
ケプロンの進言に従い、1877年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量
産工場である石狩缶詰所が作られた。
この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。
開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
ケプロンの進言に従い、札幌-室蘭間、森-函館間までの馬車道が整備された
(室蘭-森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、ほぼ現在の国道5号線である。
札幌大通り公園に黒田清隆像と並んで銅像が建っている。