2011/09/15 00:57:30
明治9年 <Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)>
クラークの言葉、「Boys, be ambitious」は、よく知られている。
これは、札幌農学校1期生との別れの際に、
北海道札幌郡月寒村島松(現在の恵庭市島松・島松駅逓所)でクラークが発した
ものとされている。
しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の
創作によるものだと考えられた時代があった。
1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離
別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したもの
とも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三
郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの
言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明。
安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、この
まま訳すと「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意
味になる。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌の記述で、全く同
じ文章を使ったことも判明した。また大島は、「クラーク先生とその弟子たち」
の中では、次のように述べている。
先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔を
のぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ること
を忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」
といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、
"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林の
かなたへ姿をかき消された。
この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説がある。
また、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、
人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。
また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身
地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)
だったという説もある。
●内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育
で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると
思っていたが、米国に渡ってみるとある学者に「クラークが植物学で口を利くな
ど不思議だ」と笑われたほどで、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」。
しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生
としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価している。
クラークの言葉、「Boys, be ambitious」は、よく知られている。
これは、札幌農学校1期生との別れの際に、
北海道札幌郡月寒村島松(現在の恵庭市島松・島松駅逓所)でクラークが発した
ものとされている。
しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の
創作によるものだと考えられた時代があった。
1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離
別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したもの
とも言われた。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三
郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの
言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明。
安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、この
まま訳すと「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意
味になる。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌の記述で、全く同
じ文章を使ったことも判明した。また大島は、「クラーク先生とその弟子たち」
の中では、次のように述べている。
先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔を
のぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ること
を忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」
といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、
"Boys, be ambitious!" と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林の
かなたへ姿をかき消された。
この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説がある。
また、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、
人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。
また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身
地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)
だったという説もある。
●内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育
で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると
思っていたが、米国に渡ってみるとある学者に「クラークが植物学で口を利くな
ど不思議だ」と笑われたほどで、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」。
しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生
としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価している。
PR
2011/09/14 00:55:36
明治9年 <ウィリアム・スミス・クラーク>
1826年7月31日 - 1886年3月9日没
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。お雇い外国人のひとり。
専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。
学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。
マサチューセッツ州で生まれアマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学
にて博士号取得後、アマースト大学教授となる(当時、アマースト大学に在学し
ていた後の同志社英学校創設者である新島襄が最初の日本人学生であった)。
南北戦争には北軍少佐として従軍。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長
に就任した。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、
明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間
の休暇を利用して訪日するという形をとった。
クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で
はPresident と表記することが開拓使によって許可され、
殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。
1826年7月31日 - 1886年3月9日没
札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。お雇い外国人のひとり。
専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。
学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。
マサチューセッツ州で生まれアマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学
にて博士号取得後、アマースト大学教授となる(当時、アマースト大学に在学し
ていた後の同志社英学校創設者である新島襄が最初の日本人学生であった)。
南北戦争には北軍少佐として従軍。
マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長
に就任した。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、
明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間
の休暇を利用して訪日するという形をとった。
クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で
はPresident と表記することが開拓使によって許可され、
殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。
2011/09/11 00:47:32
北海道の歴史(年表) 明治9年
| 1月14日 | 千島に占守郡などを設く。 | |||||||
| 1月26日 | 日鮮修好条約調印。 | |||||||
| 3月 | 廃刀令。 | |||||||
| 3月31日 | 三井銀行誕生。 | |||||||
| 7月 | ウィリアム・スミス・クラーク来日。札幌農学校(現北海道大学)初代教頭に赴任。 | |||||||
| 8月14日 | 札幌農学校設立。 | |||||||
| 8月 | 金禄公債証書発行条例の発布 | |||||||
| 9月 | 札幌郡発寒村 屯田兵 第一大隊第一中隊に編入。32戸。 | |||||||
| 札幌郡山鼻兵村 屯田兵 第一大隊第二中隊。240戸。 | ||||||||
| 9月15日 | 室蘭市立常盤小学校前身開設。 | |||||||
| 12月19日 | 函館の海防に備え湾岸砲台を設ける(砲12門に中隊長以下92人を置く)。 | |||||||
| ※ | ベンジャミン・スミス・ライマン「日本蝦夷地質要略之図」が完成。 | |||||||
| 日本で最初の本格的地質地図。 | ||||||||
| ※ | 小學敎科傳習所 現北海道教育大学函館分校前身 | |||||||
| ※ | 開拓使麦酒酒造所開業 | |||||||
2011/09/10 00:43:57
札幌郡琴似(ことに)村開拓<本格的な屯田兵が入植>
現在の西区琴似地区に屯田兵が入植。琴似(ことに)村となる。
明治8年には仙台亘理(わたり)藩(宮城県)、斗南(となみ)藩(青森県の南部地方)、
庄内藩(山形県)の士族たちが琴似地区(現在の琴似本通沿い)に、
翌9年には発寒地区(現在の稲荷線沿い)にそれぞれ入植し屯田兵村を形成しました。
一方、旧手稲町地域の開拓は、明治4年西野地区に越後から5戸が入植したのが始まりと
されているが、本格的なものは明治5年仙台藩(宮城県)白石城主片倉小十郎の家臣たち
が宮の沢地区に47戸入植したのが最初です。
その後、明治20年までに西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。
人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築く。
北海道開拓使によって、京都あるいは、アメリカ合衆国のタウンシップ制をモデルとした碁盤目状の計画都市として本格的に開発された。
現在の西区琴似地区に屯田兵が入植。琴似(ことに)村となる。
明治8年には仙台亘理(わたり)藩(宮城県)、斗南(となみ)藩(青森県の南部地方)、
庄内藩(山形県)の士族たちが琴似地区(現在の琴似本通沿い)に、
翌9年には発寒地区(現在の稲荷線沿い)にそれぞれ入植し屯田兵村を形成しました。
一方、旧手稲町地域の開拓は、明治4年西野地区に越後から5戸が入植したのが始まりと
されているが、本格的なものは明治5年仙台藩(宮城県)白石城主片倉小十郎の家臣たち
が宮の沢地区に47戸入植したのが最初です。
その後、明治20年までに西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。
人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築く。
北海道開拓使によって、京都あるいは、アメリカ合衆国のタウンシップ制をモデルとした碁盤目状の計画都市として本格的に開発された。
2011/09/09 00:19:23
明治8年5月7日<ロシアと樺太・千島交換条約調印>
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあ
った日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に
主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」
を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、
その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあ
った日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に
主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」
を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、
その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
2011/09/06 00:02:49
明治7年 屯田兵の開始
屯田兵の開始
屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に
生まれていました。最初のものは、徳川家の遺臣を移して北方警備と
開墾に従事させようとする榎本武揚の考えで、彼はこの計画を掲げて
新政府と函館戦争を戦ったものです。
政府内の提案としては、明治3年(1870年)11月に開拓使が行なっ
たものがはじめです。
ついで西郷隆盛が明治4年から明治6年にかけて士族による北方警
備と開拓を主唱。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼
の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建
議しました。
樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、
「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、
開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものでした。
黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北
諸藩の貧窮士族を想定していました。太政官は黒田の提案に賛成し
、明治7年(1874年)に屯田兵例則を定めます。
明治8年(1875年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が
開始されました。
屯田兵の開始
屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に
生まれていました。最初のものは、徳川家の遺臣を移して北方警備と
開墾に従事させようとする榎本武揚の考えで、彼はこの計画を掲げて
新政府と函館戦争を戦ったものです。
政府内の提案としては、明治3年(1870年)11月に開拓使が行なっ
たものがはじめです。
ついで西郷隆盛が明治4年から明治6年にかけて士族による北方警
備と開拓を主唱。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼
の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建
議しました。
樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、
「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、
開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものでした。
黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北
諸藩の貧窮士族を想定していました。太政官は黒田の提案に賛成し
、明治7年(1874年)に屯田兵例則を定めます。
明治8年(1875年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が
開始されました。