北海道の<国道距離>順位
<300km以上>
1. 国道274号: 365.8 km 札幌市から川上郡標茶町
2. 国道239号:346.2 km 網走市から留萌市
3. 国道276号: 315.3 km 檜山郡江差町から苫小牧市
4. 国道275号:314.2 km 札幌市から枝幸郡浜頓別町
5. 国道238号:319.7 km 網走市から稚内市
6. 国道229号:307.0 km 小樽市から檜山郡江差町
<200km以上>
7. 国道38号 :298.4 km 滝川市から釧路市
8. 国道5号 : 280.5 km 函館市から札幌市
9. 国道237号:260.0 km 旭川市から浦河郡浦河町
10. 国道40号 : 243.0 km 旭川市から稚内市
11. 国道39号 :215.2 km 旭川市から網走市
12. 国道230号:208.2 km 札幌市から久遠郡せたな町
<100km以上>
13. 国道273号:196.9 km 帯広市から紋別市
14. 国道333号: 173.3 km 旭川市から北見市端野町
15. 国道336号: 156.5 km 浦河郡浦河町から釧路市
16. 国道236号:139.1 km 帯広市から浦河郡浦河町
17. 国道12号 :135.7 km 札幌市から旭川市
18. 国道36号 :133.0 km 札幌市から室蘭市
19. 国道44号 :124.8 km 釧路市から根室市
20. 国道452号:120.6 km 夕張市から旭川市
21. 国道453号:123.5 km 札幌市から伊達市
22. 国道451号:116.5 km 留萌市から滝川市
<100km以下>
23. 国道37号 :81.1 km 長万部町から室蘭市
国道450号は、旭川紋別自動車道のみであり一般道路は存在しないため除いた。
まだ、北海道の国道はありますので全部調べましたら、この一覧を訂正します。
1835年12月11日~1920年8月30日
アメリカ合衆国の鉱山学者で、お雇い外国人として日本に招かれた一人。
経歴
1835年にマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。
ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)と1876年(明治9年)に開拓使の招待や工務省の依頼で日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。
1881年(明治14年)に帰国するまで自身の日本人助手に教育するなど日本の地質学に貢献した。
明治6年1月17日来日すると、東京芝に創設されたばかりの開拓使仮学校(札幌農学校-北海道
大学の前身)において教鞭をとる。同年4月17日、北海道に向けて横浜を出航する。
3年に及ぶ北海道全島調査は、その名目こそ地質調査であったが、地形測量すなわち地図作成と
いう難行をともなう「道無き道を進む」苛烈なものだった。
多くの困難を乗り越え彼らはそれを完遂すると,新生明治日本の将来に順風を送る幌内炭田群(石狩炭田)の発見報告などとともに,
1876(明治9)年5月10日,日本最初の広域地質図幅「日本蝦夷地質要略之図」を刊行して日本地質学史に金字塔をうちたてる。
これは日本で最初の本格的地質地図とされている。
夕張炭鉱⇒ ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
北炭夕張炭鉱⇒ ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
お雇い(御雇)外国人 3
ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省(31.0%)、工部省(9.5%)、内務省(9.2%)が目立つ。エルブィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。
オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからカッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末に英国からトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年にダグラス顧問団による教育が実施され、海軍はイギリスリ式に変わっている。他に土木の河川技術方面でデ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。
工部美術学校ではアントニオ・フォンタネージらイタリア人が雇用された。
お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。明治4年の時点で大宰府三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月棒は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他フルベッキやデュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年までの平均では、月棒180円とされている。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。
なお、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で生涯を終えた人物もいた。
お雇い(御雇)外国人 2
1868(明治元年年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者として2690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。
内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている。
1890年までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8%で、特に43.4%が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5%がイギリス人であった。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。
アメリカ人の場合は54.6%が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0%で文部省が15.5%、開拓使が11.4%であるが、開拓使の外国人の61.6%がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)。
フランス人の場合は48.8%が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2%はフランス人であった。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化はかったが、明治政府もフランス式の軍制引き続き、2回の軍事顧問団を招聘している。
軍制をドイツ式に転換したのは1885年にメッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。また、数は少ないが司法省に雇用され不平等条約撤廃に功績のあったギュスターブ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。
お雇い(御雇)外国人 1
お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や各藩、明治政府や各地の富豪によって招聘された。幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人とも呼ばれることもある。
概要
お雇い外国人は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。
江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。幕末になり鎖国が解かれると、シーボルトが一時期幕府顧問を努め、レオンス・ヴェルニーが横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。しかし、外国人の雇用が本格化するのは明治維新以降である。
住所 花園2-12-1
建築年 昭和8(1933)年
構造 鉄筋コンクリート造3階建
建築時の用途 市庁舎
概要
小樽の有力者土肥太吉の10万円寄付を機に新築されました。
設計者は小樽市建築課長であった成田幸一郎以下の建築課スタッフで、
土肥秀二もかかわったといわれています。
外壁はタイル張りで、正面入口の車寄せ部分とその周辺を茨城産花崗
岩積みとした近代建築です。
正面上部に彫刻を施した6本の柱を配し、内部中央階段の正面はステン
ドグラスで彩られ、重厚な市庁舎となっています。
正面の玄関上部には6本の角柱が並び柱頭のコリント様式が印象的な建物です。
コリント様式とは古代ギリシャの神殿建築に用いられた3つの様式の一つで、
華やかな雰囲気を演出します。
外壁は花崗岩とタイル張りの2色になっており、内部に入ると正面ホールの階段上に
ステンドグラスが穏やかな光を取り込んでいる。
住所 色内3-7-8
明治39年 (1906)10月に、日本郵船小樽支店として新築され、11月には
ポーツマス条約に基づく日露の樺太国境画定会議が開かれたことで名高い。
石造り2階建ての豪壮堅固な建物で、昭和59年から3年間に修復工事が
行われた。建物の至る所に美しい彫刻や装飾模様がみられ、天井の飾り
模様、シャンデリア、壁の金唐革紙、柱頭飾り、絨毯,蒸気暖房など明
治期建築技術の粋が集められている。
外観の重厚さと内部の華麗さのコントラストがおもしろい。
この支店の移転に伴い、昭和31年に小樽市が購入、重要な文化遺産とし
て一般に公開されている。小樽が国際外交の華やかな舞台となった記念
碑で、国の重要文化財に指定されている。
入場料100円、9:30~17:00 月曜休館。
住所 色内1-8-25
色内大通りの三井住友銀行小樽支店の向いに建つこのクラシカルな建物は
昭和6年(1931年)建てられたが、この建物ほど昭和の歴史とその変遷にさ
らされたものはない。
建てた当時から外国人専用のホテルとして、10年間ほど使われた。
その後、戦争中の昭和17年には日本陸軍の将校クラブとして接収された。
終戦と供に今度は、米軍に接収され、昭和25年に越中屋旅館に還された。
昭和27年になると、相続税の物納として、大蔵省に所属し昭和30年に
北海製菓に払い下げられた。同社の独身寮として使われた。
一時取り壊しも検討されたが、歴史的建造物の保存運動の高まりと供に
外資系のアドバンテスト社がゲストハウスとして購入。改修工事を行った。
平成5年になり現在も小樽グランドホテルクラシックをして、営業を開
始した。表面から見るデザインのユニークさがアールデコのステンドグ
ラスや丸窓に見られる。内部の装飾もクラシカルな趣をみせており、落
ち着いたホテルとして愛されている。
北海道初の外国人客専用のホテルとして建てられ、歴史的建造物に指定
され、異国情緒に充ちた建物。
所在地 小樽市色内2丁目1番20号
建築年 明治23(1890)年〜27(1894)年
構造 倉庫:木骨石造1階建
事務所:木骨煉瓦造2階建
建築時の用途 倉庫
石川県加賀橋立の海運業(北前船主)西出孫左衛門が貨物集積基地として明治23年~27年にかけて建てた営業用倉庫のひとつ。
色内地先の埋め立て直後に建てられた。
正面右手の倉庫が最初の建設で、増築を重ね2つの中庭を囲む大倉庫となりました。
寄棟の瓦屋根に鯱(しゃちほこ)をのせた和洋折衷のデザインで煉瓦造の事務所を中心に左右対称に展開し、全体として優雅な美しさをみせています。
北側を市博物館、南側を運河プラザに活用、公開されています。