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北方領土問題 81

 

ノモンハン事件 23

 

第二次ノモンハン事件

 

意外なことにノモンハンの戦場で最も厚い装甲をもっていたのは、日本軍の4両の九七式中戦車(最大装甲厚25mm)であった。ただし、対戦車戦闘をまったく考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm砲の装甲貫徹力は、ソ連軍戦車の長砲身の45mm砲に大きく劣った(しかも歩兵直協を旨とする日本戦車に搭載された徹甲弾の数は少なく、また冶金技術の後れから徹甲弾の強度も劣っていた)。

実際に戦車第3連隊長吉丸大佐は、当時最新の九七式中戦車でこの戦いに参加したが、73日にBT-5の砲撃により撃破され、戦死している。しかし一方、射撃の腕は訓練をつんだ日本兵の方が優れ、小隊単位で砲撃し、たとえ装甲を貫徹できなくてもBTT-26の機関部付近を狙撃、ガソリンタンクに引火させ撃破するなど、かなり健闘している。また8mmの装甲しか持たない装輪装甲車は虚弱で、しかもタイプによっては乗員の頭上にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中射撃や九二式十三粍車載機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。


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北方領土問題 80

 

ノモンハン事件 22

 

第二次ノモンハン事件

 

対戦車戦闘

第一次世界大戦で、戦車は塹壕を突破して膠着状態の戦局を打開するために登場したが、第二次世界大戦では防御陣地に不用意に近づかないことが戦車戦術の常道となった。ノモンハンの経験はこれを先取りするものであった。

 

1939年当時のソ連軍は、T-34やKV-1のような装甲の厚い戦車を未だ保有せず、高速だが装甲の薄いBT-5(正面装甲厚13mm)やBT-7(同1520mm)、T-26軽戦車(同15mm)、FAIBA-3BA-6BA-10BA-20(以上、同613mm)といった装輪装甲車を多数投入した。

その装甲は日本軍が持つ火砲でも撃ち抜けるレベルで、実際にソ連軍の報告書では「日本軍の九四式37mm速射砲は十分な威力を発揮した」という内容が記述されている。

それによると、他にも各種の75mm野砲や九八式20mm高射機関砲も対戦車戦闘に参加、威力を発揮したという。(九八式20mm高射機関砲を装備した部隊がノモンハンに投入されたという日本側の記録は無い。おそらく、類似した構造の九七式自動砲と思われる。)

 




北方領土問題 79

 

ノモンハン事件 21

 

第二次ノモンハン事件

 

隠蔽歩兵の有効性と限界

ノモンハンの戦場は丈の低い草原と砂地で、防御側を利する地形要素は何もなかった。

ハルハ河西岸(ソ連側)は、日本側より標高が高かった。

それでも、日本の歩兵はタコ壺を掘って身を隠し、砲兵はごく緩い稜線を利用して身を隠せそうな陣地を作った。

こうした間に合わせの防御に対し、ソ連軍は一気に蹂躙すべく戦車だけ、あるいは戦車と歩兵で繰り返し攻撃をかけた。これは、地形と装備差から予想されるような一方的殺戮にならなかった。防御側の損害も大きかったが、歩兵の肉薄攻撃で多数の戦車が破壊され、攻撃側の損害も大きかった。

 

しかし、日本軍部隊が何らかの活発な行動を起こすと、高地に位置するソ連砲兵の良い標的になった。8月下旬の戦闘では、日本側が陣地から出て反撃を試みた際に、かえって大きな打撃を被る事となった。こうした状態で補給を受けることは極めて困難で、部隊は持久できなかった。北の夏の短い夜の間だけが、日本軍の行動にいくばくかの安全を与え、夜襲と撤退の機会を与えた。




北方領土問題 78hairal32.jpg

 

ノモンハン事件 20

 

第二次ノモンハン事件

 

ノモンハン事件の戦略と戦術

 

兵力の集中と兵站

ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。

19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。

鉄道輸送は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしかできず、そこから後方基地までトラック輸送し、更に前線まで650-750kmに渡る長大な兵站線が必要であった。舗装道路なき平原で、未熟な運転手が道に迷うなどトラブルも多かったが、大規模自動車輸送によって8月までに大量の物資を蓄積したことで、第二次ノモンハン事件の前に十分な戦力を準備できた。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたがノモンハンでは例外で、後方支援部隊に戦功章を与えその実績を評価したほどであった。

 

ハイラルからの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。

満州国内の民間自動車をかき集めるなどの努力は行われたものの、燃料の輸送も十分に行えず、せっかく前線に送られた自動車も有効活用できないことがあった。ソ連側が自動車輸送によって大規模かつ迅速に補給を受けていたのに比べ、貧弱極まる補給態勢だった。この補給量と戦力の隔絶が以後の戦いの帰趨を決したといっても過言ではない。




北方領土問題 77200px-Shigenori_Togo.jpg
 
ノモンハン事件 19

第二次ノモンハン事件

停戦後の国境画定交渉一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東條茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。

だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。
停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の画定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。
交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。

対立の対象となった地域のうちおよそ8割の、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって画定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した残る2割ほどの南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した。


北方領土問題 76 image27.jpg

ノモンハン事件 18

第二次ノモンハン事件

陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日に関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。

紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。
他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七戦での要撃も容易ではなく大いに悩まされたが、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。
戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機を始め多数の偵察機が運用された。
しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。


北方領土問題 75

 

ノモンハン事件 17

 

第二次ノモンハン事件

 

第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な操縦者を派遣し、操縦者の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。

ソ連側は戦術を変更し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲板を装備したI-16による一撃離脱戦法に徹するようになった。これにより日本軍は以前のように撃墜戦果を挙げられなくなったばかりか、損害が目立つようになった。

 

第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の主張では1,252機。またソ連側がかつて主張していた損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字では被撃墜207機+事故損失42機。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の損耗率は60%で、最後には九七戦の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至った。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。

 




北方領土問題 74300px-Ki-27_1.jpg

 

ノモンハン事件 16

 

第二次ノモンハン事件

 

航空戦

航空戦の主力となったのは
日本軍は九七式戦闘機ソ連軍はⅠ-153とⅠ-16であった。

当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に
上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、
I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、
九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。
また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。
第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利
となった。

 

 日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、
20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エースの篠原弘道
3ヶ月で58機撃墜を記録した。
ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇、岩橋譲三、坂井庵、西原五郎などが
いる。ただしこれらの記録には、かなり誤認戦果も含まれる。

 優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は
日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場
(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。

 しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり
事態の拡大を招来することに危惧し自発的な計画の中止を打電、625
には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。

 空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行
を決定、627日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77
の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果
を上げた。
しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、
陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを
知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った
「田中上奏文」の実現として認識された。




北方領土問題 73

 

ノモンハン事件 15

 

第二次ノモンハン事件

 

停戦成立までの戦闘

ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。
日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。
東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、82627日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。が、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、93日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。

他方、南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。この地区で日本軍に対したのはモンゴル軍の騎兵部隊で、98日と9日に夜襲を受けて敗走した。916日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうち8割ほどの主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。

ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。

その一方で独断専行を主導して惨敗を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。




北方領土問題 72

 

ノモンハン事件 14

 

第二次ノモンハン事件

 

820日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の師団捜索隊は孤立した。ジューコフは、フイ高地の攻略に手間取ったシェフニコフを21日に解任し、予備を投入して日本軍主力の背後へ進撃させた。捜索隊は24日夜に包囲を脱してソ連側主張の国境の外に退出した。21日には南翼でも南方軍の装甲部隊が日本軍の側面から背後を脅かす位置に進出した。

6軍司令部は攻勢開始時に未だ後方のハイラルにあり、ようやく823日に司令部を戦場付近に進めた。

荻洲軍司令官はソ連軍の攻勢を知ると、直ちに第28連隊をハンダガヤから呼び寄せ、これに前線から引き抜いた歩兵第267271の諸連隊をあわせて左翼(南)で反撃(攻勢転位)する作戦を立てた。反撃の開始は824日で、ソ連軍の最右翼にある第57狙撃師団第80連隊が、南方軍の装甲部隊とともにこれを迎え撃った。反撃部隊の大部分は予定の日時に攻撃開始位置に到着できず、ばらばらに戦闘に参入し、砲爆撃の支援を欠いたまま正面攻撃を実施した。24日に第72連隊だけで攻撃を行った右翼隊は大損害を出して壊滅した。2425の両日にわたる左翼隊の攻撃も挫折した。

反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。

小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまったため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した。




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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