ノモンハン事件 3
清朝が雍正十二年(1734年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した満州国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。
1939年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。
5月の第一次ノモンハン事件と7月から8月の第二次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。
第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。
第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。
7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。
その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。
一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が8月末から攻撃に出て、9月8日と9月9日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。 9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうちノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。
停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた。
ノモンハン事件 1
ノモハン事件は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。
当時の日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。
以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河(ハルヒン・ゴル 中国語: 哈拉哈河)戦争(または戦役)」と称している。
北方領土問題 58
第二次世界大戦 3
第二次世界大戦の戦域を大別すると、ヨーロッパと北アフリカ、そして西アジアの一部を除く
アジアと太平洋全域に分けられる。
このうち、ドイツ・イタリア等とイギリス・フランス・ソ連・アメリカ等が戦った前者を欧州戦線、
日本等とアメリカ・イギリス・中華民国・オーストラリア等が戦った後者を日本は大東亜戦争、
連合国は太平洋戦争と呼称した。
ヨーロッパ戦線はさらに西部戦線、東部戦線(独ソ戦)に大別され、西部ではアメリカ・イギリス・
フランス、東部ではソ連がドイツ他の枢軸国と戦った。しかしこのほか中南米やカリブ海、マダガ
スカル島など世界各地で戦闘が行われた。
戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、
投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参
戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス
1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
航空機や戦車などの旧来型兵器の著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの「核兵器」という大量殺戮兵器が登場し、戦場と銃後の区別が取り払われた。史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、ドイツ占領下の各地で実施された強制労働や略奪および約600万ものユダヤ人の組織的絶滅政策の遂行などにより、婦女子を含む約3000万人の一般市民が命を落とした。民間人の死者は大戦での死者総数約5500万人の半分を超えることとなった。
大戦後、戦争の帰趨に決定的な影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の両戦勝国は、ともに世界を指導する超大国として冷戦の構図をもたらした。
戦場となったヨーロッパ、日本は国力を著しく低下し、アジア及びアフリカの植民地は続々と独立を果たした。のちの東西冷戦を経て、西ヨーロッパでは大戦での対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。
北方領土問題 57
第二次世界大戦 2
1941年末には日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行ってソ連を除く連合国に宣戦
(これ以前から中華民国とは交戦状態にあった)、これを受けてアメリカは連合国側に参戦した。
日本は連戦連勝を続け、1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行うなどその勢力を拡大した。
しかし1943年にはドイツがスターリングラード攻防戦、北アフリカ戦線で敗北し、同年枢軸国は北アフリカを放棄しイタリアが降伏する。
アジア太平洋戦線ではミッドウェー海戦で敗北した後も日本が優勢を保ったものの、補給線が国力を超えて伸びきった事などから1943年後半には連合国が優勢になった。
1944年には連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させるほか、マリアナ沖海戦やインパール作戦に勝利するなど勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。
1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏して欧州における戦争は終結した。
また日本も同年8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日のソ連軍の参戦さらに9日の長崎市への原子爆弾投下、を受けて降伏を選択。
8月14日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印した。
北方領土問題 56
第二次世界大戦 1
第二次世界大戦は、1939年から1945年にかけ、
ドイツ、イタリア、大日本帝国の三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、
イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの連合国陣営との
間で戦われた全世界的規模の戦争。
1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻とともにヨーロッパ戦争として始まったが、
1941年6月のドイツによるソ連攻撃と12月の日本の英米との開戦によって、戦火は
文字通り全世界に拡大した。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされている。
1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、
ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告。
9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約
に基づいて分割・占領された。
さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して
冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。
ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。
8月にはバルト三国を併合した。
ドイツも1940年にノルウェー、ベネルクス、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出したほか、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成した。
1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。
北方領土問題 55
関東軍特別演習 2
参謀本部、とりわけ田中新一作戦部長を中心とする人々は、昭和16(1941)年6月中旬から各地に大動員をかけることによって関東軍の兵力を一挙に34個師団に増強し、これをもって日ソ中立条約を破棄し、ソ連国内に突入して極東ソ連領を占拠しようと考えた。
当時、独ソ戦が開始されており、それに呼応する形で東西からのソ連挟撃がこの作戦の眼目であった。とはいえ、それまではドイツの圧倒的有利に進んでいたかのような戦線も、7
月には膠着が始まっていた。
また、日本国内では資源獲得のための南進論が優勢であって、特に海軍がこれを唱えてやまず、陸軍内部でも陸軍省がこれに同調した。しかし、それでも作戦部はこの計画を取りやめず、ほとんどどさくさ紛れに朝鮮軍や満州軍を動員して北部満州の広野に集結せしめた。そして田中作戦部長もついに東條首相から24個師団を北満に集める承認を獲得することに成功した。
だが、外相豊田貞次郎は「関特演」実施を承認した大本営政府連絡会議において、「対ソ外交交渉要綱」を決し、ソ連が日ソ中立条約を違反しない限り日本がこれを侵すことはないことを銘記し、それをそのままソ連側に通告した。これは「関特演」封じ込めのための措置に他ならない。
かくして、豊田外相によって「関特演」は不発に終わったが、実施のために集められる予定であった兵力120万のうち70万が、馬匹30万のうち14万が集結していたと言われる。
北方領土問題 53
日ソ中立条約破棄を巡る議論
ソ連側の主張
1941年7月に日本陸軍は「関東軍特別演習」(関特演)を行っており、これは日本側からの重大な軍事的挑発であるとして、中立条約破棄の責任を否定する見解がある。
また、この「演習」は極東に配備されていたソ連軍部隊を、対独戦に投入する事を阻止する目的で行われたものであり、ドイツが勝利していれば、直ちに日本軍がソ連領内に侵攻する意図をも含んでいた、との主張もなされる。
太平洋戦争(大東亜戦争)についての日本のポツダム宣言受諾を受けて行われた極東国際軍事裁判判決では、「中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。」とソ連側の行為を合法的なものと規定している。
北方領土問題 52
日ソ中立条約破棄を巡る議論
日本側の主張
条約の一方的破棄から参戦にいたるソ連の行動に対しては、「ソ連は条約を踏みにじって攻め込んだ」として強く非難する声が日本国内に根強く存在する。国際法上または外交信義に鑑み、ソ連の一方的な条約破棄を正当化できる根拠はないとする主張である。
具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、
本条約は両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく 且5年の期間効力を有すべし / 両締約国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の廃棄を通告せざるときは本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし(原文カナ、濁点および「/」なし)
とされ、前半部にて、本条約はその締結により5年間有効とされており、当該期間内の破棄その他条約の失効に関する規定は存在しない。期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合には、後半部に規定される5年間の自動延長(6年目から満10年に相当する期間)が行われなくなり、条約は満5年で終了するものと解するのが妥当と解釈される。
また、「関東軍特別演習」(通称:関特演)による日本の背信行為によって条約が破棄されたという見解に対しては、演習はあくまでも演習であり、演習以降も中立条約に基づく体制は維持されたことから、実際に中立条約破棄を行い、開戦したのはソ連であると批判する。
ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を延長しない旨を通告したが、その際に日ソ中立条約は1946年4月までは有効であることが確認されている。
さらに、日ソ中立条約が破棄されるまで、ソ連は日本政府に対して日本が中立条約に違反しているとの抗議を一度もしたことがない。
極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事がおり、公平性・中立性の観点から問題があるとの批判がある。
極東法廷など戦後裁判の審決を受諾したサンフランシスコ条約にソビエトは署名していない。