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北方領土問題 51

 

日ソ中立条約破棄

 

1945年(昭和20年)45、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないことを日本に通達した。この背景には、ヤルタ会談にて秘密裏に対日宣戦が約束されたことがある。ポツダム会議では、原爆完成により、アメリカはソ連の参戦なくして日本を降伏させることも可能と判断しソ連参戦の回避を図ったとされる。

一方、日本側はソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼していた。ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。

 

ソ連は88日深夜に突如、日ソ中立条約の破棄を宣言し「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告。

9日午前零時をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島及び満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。

 


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北方領土問題 50

 

日ソ中立条約

 

日ソ中立条約は、1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。

相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。

 

当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使であった東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、ドイツ、アメリカ、中華民国の三者を牽制する事による戦争回避を考え、日ソ不可侵条約締結を模索していた。

ところが、松岡洋右が外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶ(「日独伊ソ四国同盟構想」。松岡自身は「ユーラシア大陸同盟」と呼称)ことで、国力に勝るアメリカに対抗することが目的とされた。

当初、ソ連は応じなかったものの、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから提案を受諾し、1941413日調印した。

 

同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した。ドイツ軍は、ソ連軍(赤軍)の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連を崩壊させることを狙ったバルバロッサ作戦は、失敗に終わった。

また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡にドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告している。



北方領土問題 49487ec889.jpeg

 

ヤルタ協定(19452月)

 

 19452月に署名されたヤルタ協定では、樺太の南部及びこれに隣接するすべての島はソ連に「返還する」こと、及び千島列島はソ連に「引き渡す」ことが書かれています。
ソ連は従来から、北方領土問題についてヤルタ協定を引き合いに出していました。


 しかし、ヤルタ協定は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたに過ぎず、日本はヤルタ協定に参加していないため、この協定に拘束されることはありません。
 また、そもそも同協定の内容はカイロ宣言に反しており、また
米国政府も195697日のこの問題に関する同政府の公式見解において、この協定に関する法的効果を否定しています。




北方領土問題 48250px-Cairo_conference.jpg

 

カイロ宣言(194311月)

 

 1943年のカイロ宣言では、日本について、第1次世界大戦により得た太平洋の諸島、満州、台湾及び澎湖島、朝鮮、それに「暴力および貪欲により日本国が略取した」他のすべての地域から追い出さなければならないと宣言しました。

 南樺太、千島列島についてははっきり述べていませんが、千島列島は、樺太千島交換条約によって平和裏に我が国が譲り受けたものであり、暴力および貪欲により略取された地域ではありません。
 ましてや、日本固有の領土である
歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島が、カイロ宣言に述べられた「日本国の略取したる地域」にあたらないことは言うまでもないことです。

 




北方領土問題 47eti1.jpg

 

サン・フランシスコ平和条約
 1951
年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。
この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました。
しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。
 

1951年、サンフランシスコ平和条約が署名され、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄した。しかし、放棄したこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては、何も定めておらず、ソ連は今日まで事実上これらの地域に施政を及ぼしてきましたが、国際法上これらの地域がどこに帰属するかは今なお未定である。
 
同条約にいう千島列島には固有の領土である北方四島は含まれておらず、このことについて米国政府も195697日の国務省覚書で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものである」という公式見解を明らかにしている。




北方領土問題 46eti3.jpg

 

北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)2


 なぜ、終戦3日後にソ連軍は強襲上陸進攻を強行したのでしょうか、

終戦までこの地域では、陸上戦闘こそありませんでしたが、この頃の日本軍は本土防衛のための兵力転用が行われていました。
この移動のための輸送船や舟艇等に対する砲爆撃、及び、千島列島に配備された日本軍に対する砲爆撃は米海軍によって行われ、終戦3日前の8月12日には、配備変更のため温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。

このように米軍の戦闘実績のある千島列島であり、また、いかにヤルタ会談での秘密協定で千島列島をソ連に引き渡すという米・英国の言質を得ていたとしても、カイロ宣言に違反する行為である日本固有領土の千島列島を米・英国がソ連に引き渡すということを、ソ連は米・英国が本当に実行するか否かは疑問を持っていたに違いありません。

そこでソ連軍は、自ら戦闘により、即ち血と肉で千島を占領して、千島列島の占領を確実なものにしようとして、日本国がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく準備して、奇襲上陸をしてきたものと思われます。

また、その後にソ連が米国に対して行った北海道の分割統治の要求を行ったという事実からみると、千島侵攻がうまく行けば一気に北海道まで侵攻しようとする意図があったものと思われます。
この点から考えると、この占守島の戦いによりソ連軍の千島列島の占領は遅滞され、その間に米軍の北海道進駐が完了したので、ドイツや朝鮮半島に見るような北海道の米国・ソ連による分割統治は避けられたのであり、日本としては大きな意義のある戦いでした。

 しかしながら、この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、ソ連軍に対していかなる戦闘をもしていない、中千島や南千島に駐留していた兵士たちまでもすべて、シベリアを主体とするソ連領内に連行され、数年にわたり給養の悪い状態で強制労働に従事させられたのでした。そして、その1割の兵士は、栄養失調と疲労のために亡くなっているのです。

 戦争が終わったのに、その三日後に不本意ながら戦って戦死した方々、終戦後も不法に長期間にわたってシベリア等の極寒の僻地で強制労働に従事させられた方々、そしてその地で亡くなられた多くの方々、この様な方々がおいでになった事は日本人として決して忘れてはなりません。

 

 

 




北方領土問題 45syumusyu.jpg

 

北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)1


戦いの概要及び意義

 日本国は1945年(昭和20年)8月15日の天皇の詔勅により、すべての戦争は終わったと思われていますが、事実はそうではなかったのです。日本の固有領土の一番北の端であった、北千島の占守島(シュムシュ島)で戦争が行われていたのです。

 

 終戦を迎えた8月15日から三日経った8月18日の早暁午前1時頃に、終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、ソ連軍が突如、猛烈な砲撃の下に奇襲上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきたのでした。

やむなく日本軍は解除準備を始めていた武装を整え直し、自衛戦闘を行ったのです。

戦闘は激烈を極め、日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名におよび、日本軍が有利な状況で、上陸部隊を殲滅する体制でしたが、ポツダム宣言受諾後の戦いであり、自衛を目的とした戦闘であったため、上級部隊からの命令で、8月21日に戦闘が終結した、日本軍最後の戦です。

 

 

 

 この戦いのことを、ソ連政府機関紙イズベスチアは「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。819日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べています。

 




北方領土問題 44


北方四島は、いずれも一度も外国の領土になったことのない日本固有の領土である。

歯舞群島、色丹島は北海道の一部、国後島、択捉島は南千島という。
その南千島のすぐ北隣りのウルップ島から占守島(しゅむしゅとう)まではクリル・アイランズという。
日本では南千島を入れて千島列島と呼ぶが、千島列島=クリル・アイランズではない。この点をはっきりさせないと、国際法上、非常にめんどうなことになる。




北方領土問題 43

 

 

日露関係に関する東京宣言 3

 

 

5.       日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、軍備管理・軍縮の分野でこれまで達成された成果
を歓迎し、その誠実な実施の必要性を確認するとともに、このようなプロセスを一層促進し、不可
逆的なものとすることが重要であるとの認識を共有する。 双方は、核兵器の解体並びにそれに
伴う核物質の貯蔵、管理及び処理の問題が世界全体の安全保障にとり有する重要性についての
認識を共有するとともに、これらの分野において協力する意図を確認する。双方は、また、放射性
廃棄物の海洋投棄が、世界的な規模において、就中、周辺諸国の環境に与える影響の見地から、
深刻な懸念を呼び起こすものであることを確認するとともに、この問題につき更に検討するため、
日露合同作業部会を通じて緊密に協議していくことに同意する。双方は、
19931月にパリにおい
て化学兵器の禁止に関する条約が署名されたことを歓迎し、右条約が可能な限り多数の国の参加
を得て世界の平和と安定に寄与することへの期待を表明する。双方は、また、大量破壊兵器及び
これらの運搬手段並びに関連資機材、技術及び知識の不拡散を実効的に確保するため、及び通
常兵器の移転に係る透明性の向上を促進するため、密接に協力していくことに同意する。

 

 

 

 

6.       日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、国際連合が、変化する国際情勢に適合しつつ新た
な世界平和の維持と創造のために中心的な役割を果たし得るよう、その機能、組織の在り方を含
めた議論が国際連合において重ねられていることに注目するとともに、グローバルな及び地域的
諸問題の解決に向けた国際連合の努力に対する両国の貢献を活性化し、もって国際連合の権威
を一層高めるよう共通の努力を払うことに同意する。

 

 

 19931013日に東京で

 

 

日本国総理大臣 細川護熙
ロシア連邦大統領 B・N・エリツィン

 



北方領土問題 42

 

 

 

日露関係に関する東京宣言 2

 

 

3.      日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、政治対話の拡大が日露関係の増進にとって有益かつ効果的な方途であることを確信し、最高首脳レベル、外務大臣レベル及び外務次官級レベルでの定期的な相互訪問による政治対話を継続し、深化させ、発展させることに同意する。

 

 

 

 

4.     日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、自由と開放性という共通の原則の下に、アジア・太平洋地域が21世紀の世界において発揮するであろうダイナミックな発展の可能性につき共通の認識を有する。双方は、ロシア連邦が法と正義の原則を実践することにより、この地域において積極的かつ建設的なパートナーとなり、地域諸国間の政治・経済関係の発展に一層貢献していくことの意義を確認するとともに、このことを実現するためには、この地域において重要な役割を果たしている日本国とロシア連邦の関係の完全な正常化が、この地域を平和で安定した地域とすること及びロシア連邦を含むすべての国々及び地域に開放された自由貿易体制を基礎とする経済面での協力の促進の場とすることとの関連で、本質的な重要性を有するとの認識を共有する。 日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、アジア・太平洋地域における平和と安定を進展させる必要性についての共通の認識に立脚しつつ、安全保障面を含む広範な諸問題についての両国政府当局間の対話の重要性を確認し、このような交流を一層活発化させることに同意する。

 

 



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
男性