日露関係に関する東京宣言 1
1993年10月13日 東京で署名
日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、冷戦の終焉により、地球的レベル及び地域的レベルにおいて並びに諸国家間の二国間関係において、世界が対立構造から、国際協力の発展に対して新たな展望を開く協力へと向かいつつあり、このことは、日露二国間関係の完全な正常化にとり好ましい前提を作り出しているとの認識に基づき、日本国及びロシア連邦が、自由、民主主義、法の支配及び基本的人権の尊重という普遍的価値を共有することを宣言し、市場経済及び自由貿易の促進が、両国経済の繁栄及び世界経済全体の健全な発展に寄与するものであることを想起し、ロシア連邦において推進されている改革の成功が、新しい世界の政治経済秩序の構築にとって決定的な重要性を有するものであることを確信し、国連憲章の目的及び原則の尊重の上に両国関係を築くことの重要性を確認し、両国が、全体主義の遺産を克服し、新たな国際秩序の構築のために及び二国間関係の完全な正常化のために、国際協力の精神に基づいて協力していくべきことを決意して、以下を宣言する。
1. 日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、ロシア連邦で行われている民主的変革と経済改革が、同国の国民のみならず世界全体にとって極めて重要な意義を有しているとの認識を共有するとともに、同国が真の市場経済への移行に成功し、民主的な国際社会に円滑に統合されることが、世界の安定を強化し、新しい国際秩序の形成過程を不可逆的なものとする上で、不可欠の要因であるとの見解を有する。
この関連で、日本国総理大臣は、「旧議会支持派がモスクワにおいて引き起こした武力衝突によって多数の犠牲者が出たことは遺憾であるが、事態が収束し、人権の尊重を含む法と秩序が回復されつつあることを歓迎する。
エリツィン大統領が進める民主改革路線及び経済改革への支持が不変であることを改めて確認するとともに、幅広い国民的参加を得た自由かつ公正な新議会選挙によって、国民の意思が反映する真に民主的な社会が誕生し、改革が更に推進されることを強く期待する。」との先進国首脳からのメッセージをロシア連邦大統領に伝達した。
2. 日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、両国関係における困難な過去の遺産は克服されなければならないとの認識に共有し、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する。この関連で、日本国政府及びロシア連邦政府は、ロシア連邦がソ連邦と国家としての継続性を有する同一の国家であり、日本国とソ連邦との間のすべての条約その他の国際約束は日本国とロシア連邦との間で引き続き適用されることを確認する。 日本国政府及びロシア連邦政府は、また、これまで両国間の平和条約作業部会において建設的な対話が行われ、その成果の一つとして1992年9月に「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」が日露共同で発表されたことを想起する。日本国政府及びロシア連邦政府は、両国間で合意の上策定された枠組みの下で行われてきている前記の諸島に現に居住している住民と日本国の住民との間の相互訪問を一層円滑化することをはじめ、相互理解の増進へ向けた一連の措置を採ることに同意する。
続く
北方領土問題 40
日本はそれまで北方領土に関しては3度大きなチャンスがあった。
最初は、1953年3月の、あの20世紀最大の虐殺者といわれたスターリンが倒れたとき。
この世紀の大虐殺者の跡を継いだフルシチョフは、1954年9月、日ソ国交正常化を呼びかけ、
翌1955年に、ロンドンで日ソ交渉が開始され、1956年12月に日ソ共同宣言が発効した。
しかし、領土問題については平和条約締結後に歯舞と色丹の2島を日本に返還し、残り2島に
ついては協議するとされた。
その後東西冷戦が激しくなるにつれ、ソ連は日本に強硬姿勢をとる。
領土問題は継続交渉との合意にもかかわらず、解決済み言い始めた。
次に1970年初頭に国際社会の変化によって突然ソ連は軟化した。
1971年7月のニクソン政権による米中接近により孤立を恐れたソ連は日米間に楔を
打ち込むべく、日本に接近してきた。1972年1月に、グロムイコ外相が日本を訪問した。
そして、1973年の田中角栄の訪ソの際には、日本は北方領土とは2島ではなく4島の
問題であるとソ連に認めさせることに成功した。
ベルリンの壁崩壊を受けて、旧ソ連は1991年に消滅した。
新生ロシアは軍事力でアメリカに完全に劣り、経済は崩壊寸前だった。
日本の援助が欲しかったエリツィンは1993年10月に日本を訪れ、北方4島が歯舞、色丹、
国後、択捉であると、各島々を固有名詞で特定した。
日本は4島一括返還の実現にさらに近づいた。
ところが、1997年4月、橋本竜太郎の発言ですべて壊してしまった。
領土返還の保証もない状況でロシアにおもねり、日本の主張を展開することを怠ってしまった。
現在も、北方4島がロシアの領土であると規定する国際法上の根拠はどこにもない。
国際法上、北方領土をめぐる立場は、日本が正しく、ロシアは指弾を免れない。
北方領土の日ソ・日露交渉の歴史
1993年10月に、細川護煕とエリツィンが東京宣言に署名した。
その宣言には、それまでの日ロ交渉で、両国間に存在する未解決の問題に領土問題があり、それは歯舞、色丹、国後、択捉の4島で、それらの島の帰属問題を解決した後、平和条約を結ぶということが確認されていた。
ところが、平成9(1997)年、首相だった橋本竜太郎は、経済同友会で講演し、日ロ関係を改善するため、「信頼、相互利益、長期的視点」という三原則を打ち出し、領土問題について「勝者も敗者もない解決」を目指すといい、さらにこのことを理解するのに「50年かかった」などと話してしまった。「勝者も敗者もない解決」とは4島返還ではなく2島返還でよいということだ。この橋本竜太郎の売国奴的発言は、ロシアに重要な政治的メッセージとして伝わった。
橋本はれ以前の日ソ、日露外交を完全に否定するようなことをやってしまった。
北方領土問題 38
北方領土のロシア領有の違法性と、ポツダム宣言第9条に違反してシベリアに100万近くの日本人
を強制抑留し、10万人近くも死亡させたこととあわせて、日本の対露交渉の原点とするのがまっとう
な外交といえよう。
安政2年(1855)2月7日(2月7日は北方領土の日)の日露通商条約、明治8年(1875)の千島樺
太交換条約、明治38年(1905)の日露戦争後のポーツマス条約を経て、千島列島すべてと南樺
太は日本の領土である。この領土は大東亜戦争時も有効だった。
ところが、昭和20年(1945)8月に日本がポツダムを宣言受諾した後、ソ連は満州や南樺太に日ソ
中立条約を一方的に破棄して侵攻、続いて北方4島まで占領してしまった。
ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していない。このため、日露間の条約上は、千島列島
・南樺太も日本の領土である。だから北方領土には千島列島と南樺太が含まれているべきであ
るのに、日本政府はそのことを主張しない。
北方領土問題 37
日本がポツダム宣言を受諾した昭和20年8月14日から2週間経った8月28日、
すでに満州、南樺太侵略を8月10日より開始していたソ連軍は日本の択捉島に
侵入した(もちろんこれも日ソ中立条約違反である)。
そして9月5日までにソ連は北方4島の占領を完了した。
この4島に住んでいた日本人1万7000人あまりは昭和23年(1948)までに
全員強制的に島を追い払われた。
千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)には終戦3日後の8月18日にソ連軍
が上陸した。そこでは残っていた日本軍が武器を置かずにソ連軍と壮絶な戦闘
を行い、ソ連軍に甚大な被害を与えた。この奮闘によりソ連の千島列島南下が
遅れ、米軍が北海道に進駐するのが先になって北海道の分割占領が阻止された。
北方領土問題 34
ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。
ソビエト(ロシア)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは
日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している。
ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名して
おらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。
ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高
司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土
への編入宣言を行った。
この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、
とくに北方四島については1858年の日露修好通商条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した
国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム
宣言に明白に違反している。
一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものとする。
その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階で
停滞しており、現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
北方領土問題 33
そもそもルーズベルトによる無条件降伏による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など
連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。
またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対
日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明
しており揺れがある。
トルーマンは、多くの側近の助言を受け日本に対する降伏要求については、無条件降伏の原則に
一部修正を加え、ルーズベルトが否定した条件付降伏論の立場に立って対日降伏勧告のポツダム
宣言を発した。
連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカサー元帥に対し行われた
通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条
件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関して
は日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の
基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官への
TOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持
つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある。
北方領土問題 32
「無条件降伏」であるか否かは論争がある。「無条件降伏」についてはいくつかの見解があるが、軍隊の無条件降伏という点については一致した見解がなされている(軍部の無条件降伏後も各地で散発的・組織的な戦闘が発生した)。
国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5條には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。
「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第十三條及び降伏文書第二項にも使用されているがこれは何れも日本の軍隊に関することであって、これが為にポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うものであると解すべきではない。
なお日本は国体護持の条件を提示したが連合国からの回答はなく、日本政府は第12条に含意されているものと解釈してポツダム宣言を受諾している。