北方領土問題 31
宣言の骨子は下記のとおり(日本語原文は縦書き)。
- 一條、吾等(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与える。
- 二條、3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。
- 三條、世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ドイツとドイツ軍が完全に破壊されたと同様、日本と日本軍が完全に破壊される事を意味する。
- 四條、日本が軍国主義者の指導を引き続き受けるかそれとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
- 五條、吾等の条件は左のとおりであり、これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない。
- 六條、日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。
- 七條、第六條の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
- 八條、カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。
- 九條、日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
- 十條、日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人の処罰。民主主義的傾向の復活強化。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
- 十一條、日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段のみを保有出来る。戦争と再軍備のためのそれは認められない。
- 十二條、日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立。これが確認されたら占領は解かれる
- 十三條、全日本軍の無条件降伏。右の行動に於ける日本国政府の誠意について、同政府による保障が提供されること。
これ以外の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅のみ。
ポツダム宣言
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、1945年(昭和20年)7月26日に大日本帝国(日本)に対して発した、第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた、全13か条から成る宣言。
ソビエト連邦は後から加わり追認した。宣言を発した各国の名をとって、「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日 - 8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(米国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、抗戦を続ける日本への対応と第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた。ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国、英国と中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表されたものである。
会談に加わっていたソ連は、日本に対して中立の立場をとっていたため宣言発表の時点では加わっていない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は、本国での総選挙敗北の報を受け急遽帰国、後継首相のクレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在、さらに中華民国の代表である蒋介石(政府主席)はそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。
1945年8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。
9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で政府全権の重光葵と大(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて法的な効果を持つこととなった。
北方領土問題 29
日ソ中立条約が結ばれたのは昭和16(1941)年で有効期限は5年、つまり昭和21年(1946)まで有効だった。
昭和20年(1945)4月5日、ソ連は翌年(1946)4月に満期になる「日ソ中立条約」の期限を延期しないことを日本に通告してきた。条約は一方の締結国の破棄通告後1年間は有効と規定されている。
昭和20年(1945)6月22日、日本政府はソ連大使を通じて終戦のための仲介をソ連に依頼した(ソ連はすでにヤルタ会談での密約で対日参戦を決めていたのでそれを知らない日本は無駄な依頼をしていたわけだが)。
ソ連からなかなか返事が来ないので7月10日に特使として近衛文麿をモスクワに派遣することにした。しかし、ソ連は7月18日に近衛の訪問を拒否してきた。そしてその約1週間後の7月26日にポツダム宣言が発表された。
北方領土問題 28
【日露戦争後の国際情勢】
東アジアへの進出を押さえられたロシアは、その後、バルカン方面への進出に転じ、ドイツ・オーストラリアと対立する。
賠償金を得ることのできなかった日本は、フランスを中心とするヨーロッパの金融市場で公債を発行して資金を調達し、南満州鉄道をはじめとする大陸での経営を進めた。
ヨーロッパでは、イギリスと協商関係にはいったフランスは露仏同盟と英仏協商を結びつけるためイギリスとロシアの接近を働きかける。
イギリスも、日露戦争に敗れ国内に混乱を生じているロシアの脅威は薄れ、むしろドイツへ対抗するためロシアと結ぶことを有利と考えるようになったが、そのためには同盟を結んでいる日本がロシアと融和を図ることが必要であった。このような情勢のなかで、1907年6月に日仏協商が成立、同年7月に日露協商が成立、同年8月に英露協商が成立と、立て続けに成立し、イギリス・フランス・ロシア・日本の4か国が、強く結びついていった。
日本とロシアの会戦は、日本軍が1905年1月に旅順要塞を落とし、1905年3月に奉天(ほうてん。現在の瀋陽)を奪還した後、戦線は膠着状態となった。ロシア軍はバルチィック艦隊の応援を待ってハルビンでの決戦を計画するが、バルチィック艦隊は1905年5月の日本海海戦で大敗を喫する。
一方、ロシアの国内では戦争による生活難の増大や日露戦争でのうち続く敗北を契機に、1905年1月22日に民衆の示威行為が行われたが、3000人以上の死傷者を出して弾圧され「血の日曜日」事件と呼ばれた。その後もストライキが頻発し、10月30日に皇帝が国会の開設を約束するまで政情不安が続いた(第一次ロシア革命)。
日本海海戦の後、日本政府は、アメリカの大統領ルーズベルトに対して、「大統領の発意によって、日露両国の直接会談を勧めてくれるよう」に正式に依頼し、アメリカの軍港ポーツマスでの講和会議が実現する運びとなった。本会議は1905年8月10日からはじまり、1905年9月5日に講和条約が調印された。
その内容は、
・韓国における日本の特殊地位の承認
・関東州(旅順・大連など)の租借権と長春以南の南満州鉄道の日本への譲渡
・樺太(サハリン)南半の日本への割譲
であり、賠償金の支払いはなかった。
満州では合法的な権益を得て、南満州鉄道を経営する権利、沿線地帯に行政権を行使する権利、あるいは居留民を保護するための駐兵権、そういうものが日本に帰属した。
この講和条約が結ばれてない段階から、すでにアメリカの鉄道王・ハリマンは、日本が手に入れると予想される満洲南部の鉄道権益を狙って日本へ向かっていた。そして、ポーツマス条約が成立するとハリマンは日本に満州の鉄道の共同経営を持ちかけた。
日露戦争 1904年(明治37年)2月8日~1905年9月5日
1904年2月に日露戦争が始まると、日本の同盟国イギリスと、ロシアの同盟国フランスは、微妙な立場に立つこととなった。
日英同盟では、「一方の国が第三国と交戦した場合、もう一方の国は中立を守る。そして、他国が敵国に加担した場合は、日英が共同して戦う。」こととなっていた。したがって、フランスが日露戦争に参戦した場合、イギリスはフランス・ロシアと戦わなければならないのであるが、イギリスはヨーロッパで開戦する意思はなかった。そのため、フランスとの交渉を続け、1904年4月8日に「植民地問題に関する協定条約」の調印を行った。これは、イギリスとフランスとの植民地問題に終止符を打つものであるが、実質的には両国の友好関係を樹立するものであった。フランスにとっては、ロシアが東アジアへ大きな努力をそそぐことによりドイツに対する露仏同盟の威力が減ずるため、イギリスとの接近が有効であると考えられた。
このイギリスとフランスの接近によって、日露戦争がヨーロッパへ拡大することはなくなった。
ここまでの経緯を見れば日本は何も満州を侵略したわけはないことがわかる。国際条約に則って正当に租借権を得、あるいはその土地の領有権を得てきた。反日・自虐史観で言うような「侵略」などなかったのは明白である。
それどころか、日清戦争の翌年(1896年)、ロシアと清国の間に秘密条約(露清密約)が結ばれていた。本来ならば日露戦争に勝った日本は清国に迫って南満洲全域の割譲を要求することができたのだが、密約の存在を知らなかった日本は、満州全体をロシアから清国に取り返し、鉄道の権利と遼東半島(関東州)の権利だけを租借したわけだ。関東州および満鉄の租借は、日本の当然の権利である。満州における日本の「特殊権益」といわれるものはそういう歴史的根拠のあるものだから、当時の国際状況から見ても少しも理不尽なものではなかった。
一方、賠償金を得ることができなかったので、戦争で金を使い果たしていたことを知らない国民の一部は暴動を起こした(日比谷焼き討ち事件)。
千島・樺太交換条約によってロシア領にされていた樺太の一部(南樺太)を日本が得た。これによって南樺太と千島列島全部がわが国の領土となった。しかし、終戦間際の日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連の侵攻により占拠されて現在に至っている。
ポーツマス条約
1905(明治38)年9月5日
主な内容
1.日本の朝鮮における優越権の承認
2.関東州租借地、長春~旅順間の東清鉄道等を清国の同意を得て日本へ譲渡
3.北緯50°以南の樺太および付属の島を日本へ譲渡
4.沿海州漁業権の日本国民への許与
日露戦争の講和会議がアメリカのポーツマスで行われた。この条約では次のようなことが取り決められた。
ロシアは遼東半島(関東州)の租借権を日本に譲渡する
ロシアは東支鉄道の南満州鉄道(長春~旅順間。のちの満鉄線)と、それに付属する炭鉱の採掘権などを日本に譲渡する
ロシアは北緯50度以南の樺太を日本に割譲する
日本はロシアの窮状を把握しきっていなかったため、賠償金まで取り付けることはできなかったが、上記の他には、韓国(1897年に朝鮮は国号を大韓帝国と改めている)における権益などを得た、また、満州の土地を日本が清国に返した形になった。
遼東半島(関東州)の租借権、南満洲鉄道の権益(「鉄道付属地」の炭鉱の採掘権などを含む)は「十万の英霊、二十億の国幣(国費)」という莫大な犠牲と引き換えに得たほとんど唯一の戦果であり、以降、日本人は満州という土地に特別な感慨を抱いた。当時の日本人にとって満州はかけがえのないものだった。
ポーツマス条約
1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。
1905年 (明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。
また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。
日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。
当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。
この条約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こした。
なおセオドア・ルーズベルトはこの条約仲介の功が評価されて、1906年(明治39年)にノーベル平和賞を受賞している。