世界中でロシアと張り合っていたイギリスの駐日公使ハーグは、ロシアの日本近辺への南下を懸念し、黒田に、日本は日露両国が雑居している樺太からは手を引き、北海道経営に全力を注ぐよう勧める。
黒田清隆もその方が良いと樺太放棄を政府に建議していたが、政府の方は、北緯50度での樺太島上分割を望んでいたが、樺太を流刑地に利用していたロシア側は島上分割には応じなかった。
ロシア側とこの交渉をしていた副島種臣や西郷隆盛らが「明治6年政変」で下野すると、残った岩倉具視や大久保利通らは、西郷使節朝鮮派遣案を阻止するため、樺太問題解決を先に解決することを主張。
そして、黒田が推した榎本武揚が特命全権公使に任じられる。
そして、太政大臣三条実美から示された樺太全島をロシアに譲る代わりに千島列島(クリル諸島)を受け取るという方針に従いロシア側と交渉。
1875年(明治8)年の今日・5月7日、ペテルブルグにて、榎本武揚公使・ゴルチャコフ外相間で、日露間の「樺太・千島交換条約」が調印された。この条約により、以後、樺太(サハリン)をロシア領に、千島列島全島が日本領となった。
結局その解決は明治政府に持ち越され、明治新政府は、成立早々の1868(慶応3=明治元)年3月、王政復古の大号令で、新たに設置された最高首脳の3職(総裁・議定・参与)会議で蝦夷地の対策を議論。
4月蝦夷地を治める役所として、函館裁判所が五稜郭に置かれ、直ぐに函館府と改められるが、この五稜郭が、旧幕府の海軍副総裁である榎本武揚に占領され、「蝦夷共和国」を樹立して総裁に納まるという事態が起るが、翌・1869(明治2)年、政府が制圧(箱館戦争)。
この時、死を覚悟した榎本がオランダ留学から持ち帰った秘蔵の『万国海律全書』を政府軍の参謀黒田清隆に贈り、黒田の助命奔走により自決を果たせないまま捕虜となるが、これを契機に、黒田と榎本が北方領土問題解決の立役者となる。
榎本が黒田に託した『海律全書』には、平和時又戦時に、国家は他国に対して、どのような権利・義務を持つのかが記されているそうで、オランダ留学中に、例え戦争に勝利したとしても、国際的に定められた共通のルールを遵守しなければ、その勝利は認められないという国際法の存在をこの書で知ることになったが、長く鎖国政策を執っていた当時の日本はそのような国際法の存在など知る由もなかった。
この年8月、蝦夷地は北海道と改称され、開拓使の出張所が函館に置かれる(本庁は東京)。また、翌・1870(明治3)年3月には開拓使とは別に樺太開拓使が置かれるが、1年半ほどで両開拓使は統合される。黒田は、この開拓次官を経て開拓使の最高責任者となる。
明治前期、ロシアとの間に生じた領土問題では中でも焦点となったのは樺太(1809年~1869年まで、樺太は北蝦夷地と呼ばれていた)でした。
幕府が1855(安政元)年にロシアとの間で結んだ日露通好条約(下田条約とも呼ばれる)では、千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に境界を定め、エトロフ島から南を日本領、ウルップ島から北をロシア領と定めたが、樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。
1862(文久2)年、遣欧使節竹内下野守保徳による交渉、1866(慶応2)年に箱館奉行から外国奉行に転じた小出大和守秀美の1867(慶応3)年のロシア派遣でも樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた。
クリミア戦争
1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争。
フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャとロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャッカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。
また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。
北方領土問題 18
国境問題は、新興国家のナショナリズムを極度に刺戟する性質があり、しばしば、国内紛争に連携する危険性がある。現に、樺太問題は、「明治6年政変」において、西郷使節潰しの口実に利用されたし、同政変の善後策として敢行された台湾出兵は、琉球帰属問題と深く関係していた。
ともあれ、日本政府は、1875年(明治8)年の「樺太・千島交換条約」締結と、1879(明治12)年の琉球廃藩・沖縄県設置(琉球処分)によって、この難問を辛うじて乗り切り、近代国家の脇組みを作るのに成功したのである。
18世紀から19世紀への変わり目に、ロシアの使節ラクスマンやレザノフが相次いで渡来してきて鎖国日本を脅かした事件以来、渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太(サハリン)と千島列島を含む「蝦夷地」は、北門の急として、知識人の危機感を刺戟し続けた。
当時、蝦夷地は「皇国の北門」と呼ばれた。皇国=天皇が統治する国。
琉球廃藩・沖縄県設置
明治維新で近代国家の道を歩み始めた日本にとって、その“固有の領土”を画定することから始めなければならなかった。北海道・本州・四国・九州は問題なかったが、領土を画定していく過程で強引な手法がとられた地域があった。それが琉球である。琉球を日本領土に編入するため強引で高圧的な方法がとられ、その経緯は結構複雑であった。
当時の琉球は400年にわたって琉球王朝が支配していた。しかし、琉球は江戸時代の初期、1609(慶長14)年、薩摩藩が武力制圧した。ただ薩摩藩に併合はせず、附庸(ふよう)=植民地的従属国とした。琉球王朝は存続し、薩摩藩に従属しながら明(みん)王朝、次いで新しく成立した清王朝にも朝貢し、臣従する関係をつづけていた。明治維新当時、琉球王朝にとって清国は宗主国という立場であった。琉球王朝にとっては、朝貢し、臣従する代わりに、万一の時は清国の援軍をきたいできるという関係である。
維新政府はこの琉球王朝を当然のように日本領土として編入するつもりだった。そこで、廃藩置県(1871年=明治4年7月)で薩摩藩が鹿児島県となった時期をとらえて、琉球王朝を“琉球藩”として維新政府直轄とし、王の尚泰(しょうたい)を藩主とした(「琉球藩王冊立の詔」)。
1875年(明治8)年5月7日、日露が「樺太・千島交換条約」に調印。
江戸幕府にとって代った明治新政府は、版籍奉還(明治2年)、廃藩置県(明治4年)の1連の過程を通じて国家統一にこぎつけ、いよいよその基礎固めの段階に入ったところで、1873(明治6)年の対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題をめぐる政府首脳の軋轢から思いもかけず突発した政変「明治6年政変」によって、明治維新を推進した政治勢力に大分裂が生じた。その結果、藩閥政府対自由民権運動・士族反乱の対抗関係が作り出され、政治に複雑な様相が持ち込まれることになった。
熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族の反乱は、西郷隆盛をも巻き添えにして翌年、西南戦争を引き起こしてゆくが、これらの乱を押さえ、この難関を乗り切り政府の支配体制はやっと固まった。一方、民権派の方は、以降、武力反抗に代えて、合法的言論闘争に新たな活路を見出していった。
内政面の大揺れを見せたこの時期、日本の外交も又、また、多事多難であり、黒船の圧力に耐えうる民族自立をめざして、世界の荒波に船出した日本にとって、特に、日本の国家主権の及ぶ範囲、つまり、国境の確定は、死活の問題であり、千島列島・樺太をめぐるロシアとの紛争、及び、琉球の帰属をめぐる清国との争いは、急いでの解決を迫られている問題であったが、そこに、新しく、隣国朝鮮との修好問題も加わっていた(日朝修好条規)。
その後、内政が充実するにしたがって
北の地域の開拓や警備も進められていきました。
しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、
行政組織もはっきりするようになりましたが
得撫島から北の島々には村は置かれなかったため
開発は遅れがちでした。
このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)は
1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え
千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)を興しました。
そして、占守島、捨子古丹島、幌筵島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。
しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり
北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。
1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため
失敗に終わりました。
明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)
北方開拓のために「開拓使」が置かれ
歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は
郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため
樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。
ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して
日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、
明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使として
ロシアに派遣し翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との
間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた
樺太全島はロシア領となり、その代りに、
ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が
日本の領土となりました。
日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、1868年に徳川幕府が崩壊して大日本帝国が成立した後も、日露両国の紛争が頻発しました。
こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の2つの意見が存在していた。
その後、副島が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。
1874年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。
榎本とスツレモーホフロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。
第二回目のロシアと日本で締結した条約は1875年(明治8年)「樺太千島交換条約 」となります。
今日まで4回あります。
日本(当時は江戸幕府)とロシア(当時はロシア帝国)との国境は、1855年の日魯通好条約において千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地としました。
1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになります。
箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言しました。
徳川幕府は北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、1867年石川利政・小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行います。しかし、樺太国境画定は不調に終ります。
鎖国の中で、外国に行った者は理由の如何に問わず
罪人とされ二人は江戸に護送されます。
寛政5(1793)年9月18日、江戸城吹上御物見所で
漂民御覧がありました。
ていることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に
対し影響力を強めていくこととなります。
られることとなりました。しかし、外からの出入りは比較的自由で
桂川甫周や大槻玄沢などの学者たちと交流を深めることになります。
幕府に提出。その他種々の漂流記が書かれ、流布されました。
その後光太夫は一時帰郷を許され、1802年20年ぶりに故郷に帰るが
妻は既に再婚。彼は江戸に戻り、別の人と結婚して子供をもうけます。
光太夫は文政11(1828)年に78歳で
磯吉は天保9(1838)年に73歳で波瀾の生涯を閉じました。