北方領土問題 11
1793年6月21日正式な第一回目の交渉が北海道松前で開始されました。
幕府は国法である鎖国令を読み上げ
「ロシア使節に対し、漂流民送還の労をねぎらい、今回に限り松前に
おいて漂流民受領の用意がある。なお望むところがあれば長崎に至るべし」
との趣旨の意向を伝えます。
これに対しラクスマンは日本との通交・通商を望む旨の意思を伝えたが
幕府は長崎への入港許可書を与えたに過ぎなかった。
翌年松前で2回目の会談をおこない、光太夫と磯吉の二人が幕府側に
引き渡され、光太夫と磯吉は旧暦の7月16日に松前を出発8月17日に
江戸に送られます。
そうしてラクスマンには、今後長崎入港を許可する信牌が渡されました。
大黒屋光太夫と磯吉の二人が幕府側に引き渡されましたが
江戸に着く前に老中・松平定信が突然失脚。
彼ら2人は一転して「鎖国の禁を破った犯罪者」となり軟禁されます。
北方領土問題 10
ラクスマンたちは小舟で上陸し、運上屋で温かく迎えられ
来航目的を告げ、海岸に宿舎と兵舎の建築を願い出て許可されます。
越冬を考えてのことでした。
交渉にあたったのは松前藩根室詰の熊谷富太郎で、熊谷は早速・松前
にむけて第一報を放ち、指示を仰きます。
またラクスマンも幕府宛文書を提出し、その回答を待つために海岸に宿舎を建設。
宿舎が完成したのが11月28日で、エカテリーナ号には交替要員を残して
光太夫らも含め全員がここに入りました。
光太夫、小市、磯吉の3人もロシア人の宿舎で越冬。
幕府役員・田辺安蔵らも根室に到着し、本格的な交渉がはじまります。
その間、壊血病でロシア人水兵と小市は旧暦の寛政5(1893)年4月2日に死亡し
日本風で海岸に埋葬されました。
根室には1793年6月15日(旧暦・寛政5年5月7日)までの8ヶ月間滞在しました。
ラクスマンと幕府の正式な交渉は松前で行われることとなり
1793年6月15日に根室を出航し、光太夫と磯吉を乗せたエカテリーナ号は
松前の藩船・禎祥丸に先導され、函館港に入ります。
ここからラクスマン、光太夫ら12人が陸路で松前に到着
旧暦の6月21日、浜屋敷で正式な第一回目の交渉が開始されました。
漂流民の送還を名目とし
ロシア皇帝の親書を持った使節の突然の来航。
その知らせを受けて幕府は騒然となるが、当時幕府の中心人物
であった老中・松平定信は、米の生産調整
(出来すぎた年にロシアに輸出し、不作の年にロシアから麦などの穀物を輸入)
のため、ロシアとの限定的な貿易を考えていました。
1792年9月24日、光太夫・小市・磯吉の3人の漂流民をのせた
エカテリーナ号は日本をめざしてオホーツク港を出航した。
この船にはアダム・ラクスマン中尉を船長とする総勢42人がのりこんでいました。
エトロフ島を経由し
10月18日、蝦夷地のハ(バ)ラサン(現在の北海道別海町茨散)に到着。
翌19日、操舵士オレソフと光太夫や12名が上陸、初めての帰国となります。
しかしここには幕府の役人はいないので、シベツの商人・勘四郎に紹介され根室に迂回。
10月20日朝9時頃、ついに根室港に到着し、港内の弁天島の内側に錨を降ろした。
当時の根室は松前藩の詰所とアイヌの人たちとの運上所がある程度の小さな港でした。
大黒屋光太夫らの失意に救いの手を伸べたのは
フィンランド出身の植物学者キリル・ラクスマンでした。
植物学者キリル・ラクスマンはイルクーツクで
大黒屋光太夫たちと知り合い同情し、自分と一緒に
首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国許可と
支援を願い出ようということになります。
1791年一行を代表して大黒屋が、ラクスマンとともに
速ソリでペテルブルグに向かいます。
カムチャッカからイルクーツクまでは4000kmで8ヶ月もかかっているのに
ラクスマンが使ったソリは、サンクトペテルブルグまで6000kmをわずか2ヶ月で到達。
サンクトペテルブルグでは、ラクスマンと光太夫は皇帝エカテリーナ2世に2度謁見に成功。
これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと、ラスクマンの
息子アダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に、遣日使節の命を与え
大黒屋光太夫らと共に日本に行くよう命じます。
この時点で、イルクーツクまでたどり着いた6名のうち1名が死亡、
2名はロシアに残留。残りの3人が帰国することになります。
1792年(寛政4年 フランス革命の年)、漂流から9年半後、ラクスマンは
彼ら3人を連れて根室港に入港。
大黒屋らは言葉もわからず、飢えと寒さにより、ここで8人の仲間が死亡。
故郷の南若松村では、光太夫ら乗組員は難破して海に沈んだものと思われ、心海寺に供養碑が建てられました。
写真は光太夫と磯吉
大黒屋の帰国の望みはロシアからの商人の迎の船でしたが、ロシア船が座礁したのを知ると、光太夫らは流木を集めて船を造ることにしました。
ニビジモフらロシア商人の協力を得て、やっとの思いでアムチトカ島を出発したのはこの島に来て4年の歳月が経っていました。
アムチトカ島にラッコの皮を取りに来たロシア人が、一行をカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行きました。ここで大黒屋光太夫らは日本に帰りたいと役人に願い出ますが、当時日本は鎖国中。不許可となり、この段階で既に何人もの仲間を亡くしました。
しかしシベリア総督も、彼等の日本送還を決断できません。
北方領土問題 6
北方領土問題の始まりでもある
江戸時代後期の国内事情を、大黒屋光太夫に戻って書きます。
大黒屋光太夫大黒屋光太夫
<宝暦元年(1751年) - 文政11年(1828年)>
は江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とし
白子から江戸への回船の船頭をしておりました。
大黒屋光太夫は天明2(1783)年12月9日
いつものように紀州藩の年貢米や伊勢木綿などの江戸向けの物資を積み
光太夫以下18人の乗組員を乗せた神昌丸は白子港を出航しました。
大黒屋は遠州灘にさしかかった頃、暴風雨にあい遭難、神昌丸は北に向けて漂流。
食料は年貢米で何とか工面したが、ビタミン不足からか1人が死亡しました。
漂流すること8ケ月、神昌丸はアレウト(アリューシャン)列島のアムチトカ島に
漂着したが、神昌丸は大風のため座礁してしまいます。
アムチトカ島とは、アメリカ合衆国アラスカ州の南西に伸びる
アリューシャン列島のラット諸島に属する島で約64kmの長さがあります。
アムチトカ島は18世紀末にはアザラシなどの毛皮を求めるロシア商人が来島し
交易を目的として常駐していました。
高田屋嘉兵衛に信頼の念を抱いていた
リコルドもこれを容れ、三たび、国後に来航し嘉兵衛を
通じその意を幕府の吏員に伝えました。
幕府は、ゴローニン放還の条件として
ロシア長官の謝罪文、先年、略奪した兵器の返却を要求し
リコルドもこれを了承し、1813年(文化10年)9月
箱館で、シベリア総督及びオホーツク長官の弁明書を提出し
ゴローニンらは釈放されました。
もし高田屋嘉兵衛の説得が無かったならば
江戸時代に日露戦争が勃発していただろうとも言われております。
この時のオホーツク長官の書状には
「今回の事件は、国境が明らかでないことが原因なので、
日露間の国境を確定したい」との意向が示されており
この45年後の1855年(安政元年)に日魯通好条約が締結され
両国の国境は、択捉島と得撫島の間に定められました。
北方領土問題でロシアとの条約が締結された
第一号が「日魯通好条約」です。
この条約は1855年2月7日に現在の下田で調印されました。
この条約で初めて択捉島から南は日本の領土
(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島)とし、
得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。
また、第一号の「日魯通好条約」では樺太は今までどおり国境を決めず
両国民の混住の地と定められました。
1981年(昭和56年)1月6日の閣議了解により、
「日魯通好条約」の調印の日、2月7日を
毎年「北方領土の日」とすることを決めました。
ロシアが択捉島の南部・津軽藩襲撃の報告を受けた幕府は
奥羽の諸藩に派兵を求めるとともに、
蝦夷地を直轄領とし、警護体制を固めました。
1811年、南下政策を進めていたロシア軍のゴローニン海軍中将が
国後島を測量中に幕府によって捕らえられ、
日本に抑留されるという「ゴローニン事件」が起きました。
国後島に上陸したゴローニンらが南部藩に捕らえられた際
艦上でそれを見た副長リゴルドは勝ち目がないと判断し
オホーツクに引き返しましたが、翌年の1812年(文化9年)には、
再び、国後に来航しました。
リゴルドは、ゴローニンの消息が確認できなかったことから、
択捉場所から水産物を移送する途中の高田屋嘉兵衛の乗る観世丸を停船させ、
嘉兵衛をカムチャッカに連行しました。
これにより、日本とロシアの関係は最悪のものとなりました。
ロシアに連行された高田屋嘉兵衛の態度は、豪胆沈着で、ロシア人らからも
敬意を表されたと伝えられます。
カムチャッカで、嘉兵衛はロシア語を学び、リコルドに対し、
「幕府がゴローニンを釈放しないのは、先年の暴行への報復なので、
そのことを謝罪し、日本側の誤解を解く必要がある。」と説きました。
北方領土問題2
北方領土の歴史について。
高田屋嘉兵衛は
幕府の御用船・義温丸で航海を試み択捉航路を発見しました。
この発見により、翌年の1800年(寛政12年)には、択捉場所が
開設されることとなり嘉兵衛は同島の漁場17ヶ所を開発しました。
高田屋は、国後島と択捉島間の航路開拓を行い、鱒・鮭が豊富で
あった択捉島を開き島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え
彼らの生活向上に尽くしました。
幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となり、箱館(函館)の
北洋漁業の基を築いた人でもあります。
1806年(文化3年)、箱館の大火で街の大半を焼失した時
市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、
箱館の基盤整備事業を実施。
更に造船所も建設し、官船はじめ多くの船を建造しました。