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トーチカ220px-Mg-bunker-fuchsegg.jpg

 

トーチカとは、ロシア語の鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語のこと。
榴弾砲
の直撃にも耐えうるため、排除が困難を極める。構造の大部分が地面より下になっており、他のトーチカ等に接続される場合の通路は掘り下げられた溝状の塹壕(トレンチ)や、地上からの直接の出入り口がなく地下道によって接続されるもの、さらにはその地下道によって後方の大きな保塁や要塞とつながっているものもあった。

 

220px-Cloche-blindee--Saint-Malo-.jpg資材が不十分な場合でも、必要とあれば石やサンゴ礁の硬い砂、廃材などをあらゆるものが利用される。一般の家屋を改造してトーチカとすることもある。トーチカの壁には視察用と銃眼を兼ねた必要最小限の穴が設けられている。また、戦車埋め、砲塔のみを露出させた即席トーチカとすることもある。初めから余剰の戦車/海軍艦艇の砲塔を利用して建築されたトーチカも見られた。

構造の大部分が地面より下になっており、他のトーチカ等に接続される場合の通路は掘り下げられた溝状の塹壕(トレンチ)や、地上からの直接の出入り口がなく地下道によって接続されるもの、さらにはその地下道によって後方の大きな保塁や要塞とつながっているものもあった。

 

日本においても、遺構として北海道の根室市から苫小牧市にかけての太平洋岸に複数のトーチカ群が残されており、硫黄島では、破壊された一式陸上攻撃機を活用した掩体壕の残骸を現在も見ることができる。北方領土には、旧ソ連がトーチカとして設置したIS-3重戦車が遺棄されている。

また、現在でもシリアなど砂漠・平野での戦車戦が予想される中近東諸国では旧式化した戦車を固定陣地化しているケースもある。

 

 

 

 


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旧陸軍の組織

旧陸軍の組織とは
①12人位で1個「分隊」をつくる。これが最小の戦斗単位で分隊長は伍長か軍曹。

②4個分隊で1個「小隊」(約50人)、小隊長は少尉。

③4個小隊プラスAで1個「中隊」(約200人)。中隊長は中尉か大尉。

④歩兵2個中隊に重機関銃や大隊砲の特別中隊が加わって、これが1個大隊(約
800人)

⑤2個大隊にプラスAで1個聯隊(約2000人)

⑥歩兵4個聯隊に、砲兵、工兵等の聯隊が加わって1個師団(約1万人)となり、師団長は中将。

日本国民はかつて20歳になると兵隊検査を受けなければなりませんでした。
そうして合格したならば、本籍地の近くにある聯隊に入れられます。
札幌では第25聯隊に入れられたわけです。




月寒

月寒を今は「つきさむ」と読みますが、
昭和18までは「つきさっぷ」と読んでいました。

呼び名の諸説はいろいろありますがアイヌ語の「チ・ケシ・サプ」
(丘の外れにある下り坂)がチキシャフとなり、
それがなまって「つきさっぷ」となった説が妥当かと思います。

「つきさっぷ」が「つきさむ」に変更になった理由は、
陸軍の横槍で
難読を嫌い「つきさむ」と云う呼び名に統一されました。
年配の方は今でも「つきさっぷ」と呼んでいます。

 

月寒を「ツキサップ」と懐かしさを覚えて呼ぶには理由があります。
それはこの地が「陸軍歩兵第25聯隊」があった場所でもあるからです。
当時人口15万程の札幌市の郊外に2千人もの「兵隊さん」がおりました。




第七師団

第七師団
(旭川)の組織とは次のようになっていました。
歩兵第
25聯隊(札幌)、歩兵第26聯隊(旭川)、歩兵第27聯隊(旭川)
歩兵第
28聯隊(旭川)、騎兵第7聯隊(旭川)、野砲兵第7聯隊(旭川)
工兵第
7大隊(旭川)輺重兵第7大隊(旭川)、重砲兵大隊(函館)

 

1944(昭和19)2月には留守第7師団を基幹に第77師団が新設され、
師団司令部を帯広に移駐して道東方面の防衛に専念することになった。
これに伴い、
歩兵第26聯隊を帯広、歩兵第27聯隊を釧路、歩兵第28聯隊を北見に配置し、
計根別平野(現中標津町)を決戦地として定め、
海岸陣地やトーチカの構築に専念するものの、
予期された連合軍の襲来が無いまま、第二次世界大戦の終戦を迎えた。
師団が設営したトーチカが今もなお根室、釧路、十勝の海岸線に残されています。




つきさっぷ郷土資料館1990bb8b.jpeg

 

月寒に「つきさっぷ郷土資料館」というのがあります。
この施設は昭和16年に旧陸軍北部軍司令官官邸として建てられたものです。
現在は毎週水と土曜日に無料で開館しております。
ここには、旧歩兵第25連隊をはじめ旧陸軍資料が数多く展示されています。

 

日本の領土問題で国会が騒がれておりますが、この「つきさっぷ郷土資料館」に
とんでもない資料が残っております。

 

c5a0de9d.jpegつきさっぷ郷土資料館より

【昭和20814日、日本政府は連合軍に対して無条件降伏の声明を発表した。
ワシントンでは、急ぎこれに基づいた日本軍の降伏に関する一般命令第一号を作成する。
この文書は、同意を得るためにモスクワに送られた。

ところがスターリンはその文書に修正を加えるよう提案する。提案は、千島列島全域、
そして本道の釧路・留萌を結ぶ線の北側をソ連領とする、というものだった。

この提案に対する米国大統領トルーマンの拒絶がなければ、
日本も朝鮮半島や旧東西ドイツと同様に分裂国家の悲劇を味わわなければならなかったところだ。

 

【戦争は終わった昭和20815日その3日後、ロシアは突如国境の占無守島(しゅむしゅとう)を
攻撃して来た。受けて立つ日本軍は、この戦闘に勝ったが負けていたらアメリカの介入があったにせよ、
留萌から釧路迄の線引きされた北半分を占領されていたに違いない】




米村 喜男衛(よねむら きおえ)

 

北海道網走市 18921981

郷土史家、考古学研究家。

 

1912年にアイヌ民族の研究のため来道し、翌年モヨロ貝塚を発見。

縄文・アイヌ文化とも異なる「オホーツク文化」を世界に紹介した。

発掘調査が進むにつれ、その内容の豊富なことから「西の登呂」に対して「東のモヨロ」と呼ばれる。

1928年、自室に資料陳列室を開設、後の網走博物館となる。

1946から1971年まで網走博物館長。

司馬遼太郎、金田一京助など一流の作家や研究家とも親交が深く、また敬愛されていたという。
書には『モヨロ貝塚資料集』『熊まつり』『モヨロ貝塚』などがある。
道文化賞、道新文化賞、道開発功労賞受賞。網走市名誉市民。




知床で夢を買いませんか!

「しれとこ100平方メートル運動」2

 

昭和625月には、参加者の名前を永遠に保存し、運動を紹介するために、
「知床100平方メートル運動ハウス」を現地に設置しました。

平成93月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、52,000万円となり、
「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成されました。
また、これを機に、保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、未来
永劫この森を守り続けることを明確にしました。

そして「知床100平方メートル運動」は、現在行われている新たな活動
100平方メートル運動の森・トラスト」へと発展を遂げました。



知床で夢を買いませんか!

「しれとこ100平方メートル運動」1

開拓跡地は国立公園内とはいえ、一度不動産業者等に渡ってしまえば乱開発が予想されます。
そこで、開拓跡地の保全、原生林の再生を夢みていた当時の斜里町長藤谷豊氏が、イギリスのナショナル・トラスト運動に注目し、
昭和522月に「しれとこ100平方メートル運動」のスタートを発表しました。

土地の買い取りや植樹費用等にあたる金額8000円を一口として、「しれとこで夢を買いませんか」のキャッチフレーズで寄付を募りました。この運動は、自然保護に関心を持つ全国の人々から賛同を得られ、また運動を支援する報道にも後押しされて、各地から寄附金が寄せられました。



北海道出身の作家5611c3cf.jpeg

 

荒巻義雄(あらまき よしお)

1933412-

小説家、SF作家、推理作家、評論家。小樽出身。

本名、荒巻義雅。

紺碧の艦隊』の大ヒットで、いわゆる架空戦記小説の世界を代表する小説家として広く知られている。また、札幌時計台ギャラリーのオーナーもつとめている。

静修女子大学(現・札幌国際大学)教授も務めた。

 

札幌南高等学校を経て、早稲田大学第一文学部心理学科卒業。

出版社に編集者として勤務するが、1962年に家業を継ぐため札幌に戻る。

北海学園大学工学部建築学科を卒業し、二級建築士の資格を取得。

 

1965年から1967年、SF同人誌「CORE」を主催。

1970年には、評論『術(クンスト)の小説論』、短編『大いなる正午』を『SFマガジン』に発表し、作家・評論家としてデビュー。

1986年~1988年に刊行された『ニセコ要塞1986』シリーズを皮切りに、架空戦記を執筆するようになる。『ニセコ要塞』は北海道を舞台にした近未来戦記であり、1990年代以降の架空戦記小説ブームの始祖とも言える作品であった。

1994年には、架空戦記作家宣言とも言える評論『シミュレーション小説の発見』を発表。「世界模擬実験装置としてのシミュレーションにこそ、小説の未来がある」として、以降、架空戦記小説を多数発表する。

 

受賞

 

1972-『白壁の文字は夕日に映える』で星雲賞日本短編賞を受賞。

 




北海道出身の作家a192c2e7.jpeg

 

渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)

19331024-

日本の作家。上砂川町出身1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

 

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。
同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』
19693月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。

1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で
63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、芳川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

 

作風

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の三つに大別されるが、各ジャンルを融合したものも少なくない。概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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