大正5年2月13日生まれ。昭和46年から5期20年にわたり札幌市長をつとめる。
札幌冬季五輪,北方都市会議,冬季アジア大会,ユニバーシアード冬季大会の開催に尽力し,国際都市札幌の評価をたかめた。平成5年8月12日死去。77歳。北海道出身。東京帝大卒。
1971年、初当選の第7代札幌市長。上川郡和寒町出身。
小学校のとき札幌に移る。山鼻小、札幌一中(現札幌南高)、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。三菱電機入社。
1946年札幌市役所勤務。1971年より札幌市長。5期20年にわたって務める。
この間、地下鉄の開通、政令指定都市への移行があった。
また、アジアで初めてとなった冬季オリンピックの開催による遠大な都市基盤の整備は20年先取りしたと言われるほどのものであった。
略歴・業績
1950年 札幌市経済部長
この年、第1回さっぽろ雪まつり開催。「当時の札幌は、まだ敗戦のショックが色濃く残っており、食料や燃料の不足な時だった。市全体の暗いムードを吹き飛ばし、少しでも明るい感じにもっていくためにはどうしたら良いか。それが市政の課題とも言える時代だった。そんなころ、映画館で見たニュースに、小樽あたりの子供が校庭の雪を固めて、ナタやノコギリで刻んで小雪像を作っているものがあった。私が学んだ札幌一中の雪戦会と雪像を結びつけたらどうだろうか」
1971年 札幌市長に初当選
1971年 札幌市営地下鉄開通(ゴムタイヤ方式地下鉄の導入)
1972年 第11回オリンピック冬季札幌大会開催
1972年 政令指定都市移行・区制施行
1981年7月24日 「こぐま座」(全国初の公立人形劇場)オープン
ミュンヘン(札幌市の姉妹都市)にある市立人形劇場や小屋がけの人形芝居を見て、札幌にも夢のある施設を造ろうと発案し、「こぐま座」を完成させる。
1982年 北方都市会議を提唱
1984年 札幌市交通事業振興公社設立
1987年 田村正敏に圧勝し5連続当選
1990年 第1回パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF、レナード・バーンスタイン提唱の若手音楽家研修会・発表会)開催
1991年 第15回ユニバーシアード冬季札幌大会開催
1991年 市長を退任
札幌市東区本町2条3丁目
現在の苗穂地区は、東区に属していますが、札幌でも古くから拓けたエリアの一つです。
明治3年酒田県(現在の山形県)からの入植者が苗穂村で開墾を始めその後雁来村と合併しましたが、明治42年には国鉄苗穂工場が創業したことが契機となって続々と工場が生まれ、昭和8年には苗穂一帯が札幌市の工業地域に指定されています。
苗穂神社もこれら工場の建ち並ぶ沿道沿いにあります。神社の隣は、札幌小学校がありますが、この学校の前身は、明治6年設置された教育所でこの付近が開拓の中心地だった様です。
この神社は、明治4年に苗穂村と命名されてから着々と開拓が進められましたが、人々の心のよりどころとしての[やしろ]造営の気運が高まり明治30年8月27日、札幌神社(現北海道神宮)からご祭神[小彦名神]のご分霊を奉戴して[苗穂神社]が創建されました。
現在の社殿は、昭和52年創建80年を記念して改造営されたものです。
鳥居の側に[苗穂神社]の石柱が建てられています。この碑は、昭和41年が札幌村開基百年記念と記されています。この地区も現在で一世紀半近くの歴史を持った地域なのです。
数少ない碑の中で[岩田徳治顕彰碑]があります。
岩田徳治氏は、現在北海道地区でトップランクの建設業である岩田建設の創始者ですが、北海道議会議員としても北海道政にも永く参画した功労者の一人です。
苗穂地区の発展にも大きな足跡を遺し、神社の境内に顕彰碑が建立されています。
荻伏牧場 5
1980年代後半になると荻伏牧場は年間の生産者成績で毎年トップ10に入るほど成功し、共同馬主クラブを運営するなどして大いに繁栄した。この頃の活躍馬としてカリブソングがいる。
1990年代になってダイイチルビーの活躍、天皇賞連覇のスーパークリークに15億円のシンジケートが組まれる等、次々と新種牡馬を導入し拡大路線がとられたが、ことごとく失敗に終わる。
この頃にはKBS京都の競馬中継内で荻伏牧場のテレビコマーシャルも放映されていた。
一時期は年間100頭を越えた生産馬も、1990年代半ばから経営規模を縮小した。
運営する一口馬主クラブ「荻伏牧場レーシングクラブ」の「オギ」冠号のクラブ馬が走らず低迷し、出資会員への賞金配当が遅れたり、出資馬の突然の取消しなどトラブルが続き、ついには暴力団との関係を指摘する声まであがり、牧場と関連会社は倒産した。
華麗なる一族は他の牧場へ散っていき、牧場やクラブの経営母体も変わった。1995年の重賞を勝ったオギティファニーは最後の活躍馬となる。
「荻伏牧場レーシングクラブ」は、のちに「荻伏レーシング・クラブ」と改称した。現在は「ブルーマネジメント」と更に変更になっている。
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日高種畜牧場が絶頂を謳歌していた1960年(昭和35年)、斎藤卯助が荻伏駅前で営んでいた旅館に、斎藤の旧友の武田文吾がやってきた。
既に武田は無敗の二冠馬コダマの調教師として名を馳せていた。
武田は次の名馬の卵を探して斎藤のもとを訪れたのである。
どこかにいい馬はいないかと問われた斎藤は、浦河の小さな牧場に案内して生まれたばかりの仔馬に引き合わせた。後のシンザンである。
斎藤卯助は名種牡馬ネヴァービートを輸入した人物としても知られ、後に日高軽種馬農協の組合長や中央競馬の運営審議委員を歴任し、日高の馬産の発展に尽力して「日高のゴッドファーザー」と呼ばれた。
その斎藤卯助が場長を務める荻伏牧場は、はじめはシンザンの育成牧場として名を知られるようになった。広い敷地を持つ荻伏牧場で育成されて活躍した競走馬には、シンザンのほかマックスビューティ、シャダイカグラ、スーパークリーク、ウイニングチケットなどを挙げることができる。
しかし当時5頭ほどの繁殖牝馬しかもたなかった荻伏牧場の名を世に知らしめたのは、40年以上にわたって活躍馬を出し続けている華麗なる一族によるところが大である。
このほか、荻伏牧場の主な生産馬として、オヘクスを勝ったノアノハコブネや日本ダービー2着のスズマッハが挙げられる。この2頭は、斎藤卯助の息子斎藤隆が牧場長となってからの生産馬である。
1900年代初頭、日露戦争の教訓を糧に政府は産馬育成の強化をはじめ、1907年(明治40年)6月、赤心社が拓いた西舎に内閣日高種畜牧場を設置して、アングロアラブ種牡馬アラデュが導入した。
翌年にはサラブレッド種牡馬ブレアーモアーが導入されている。日高種畜牧場の転機になったのは、1937年(昭和12年)にアガ・カーンの生産馬であるセフトが種牡馬として輸入された時である。
戦前最後の輸入種牡馬セフトは、種牡馬としての絶頂期を太平洋戦争で棒に振ったが、それでも「幻の馬」トキミノルや二冠馬のボストニアン、スウイイスーらの父となって空前の成功を収め、太平洋戦争が終わると5年連続の日本のリーディングサイアーになった。
その後も1958年(昭和33年)から3年連続でライジングフレームがリーディングサイアーになり、日本のサラブレッド生産地図は、それまでの千葉・東北中心から日高中心に塗り替えられた。
なお日高種畜牧場は変遷を経て現在はJRA育成牧場となっている。
北海道開拓使は、10年間で開墾した土地は無償で払い下げるという条件で、浦河郡幌別川流域の西舎(にしちゃ)村(現在の浦河町西部)への入植を許可した。
彼らはキリスト教的理想郷の建設を目指し、新大陸北海道へ渡った。
移民船は暴風に遭遇して千島まで漂流し、腸チフスの流行、幌別川の氾濫によって初期の入植は困難を極めた。
1882年(明治15年)4月に、福澤諭吉の弟子であった沢茂吉を指導者として神戸港を出た80人ほどの赤心社移民団は、25日の航海の後、5月に元浦川(現在の浦河町荻伏)に上陸した。
彼らは1886年(明治19年)に在来種の種馬を購入して馬産を開始すると、アラブ、トロッター、ベルシュロンなどの種牡馬を入れて品種改良に取り組んだ。
大変な艱難の末に彼らの開拓事業は軌道に乗り、赤心社は北海道開拓会社として歴史的な成功を収めた。
大丸山森林公園は広尾サンタランドのシンボルゾーンです。
園内にある「サンタの家」にはノルウェーの人形やクリスマスカード
などが展示され、売店ではお土産や来園の記念にぴったりの
クリスマス関連のグッズや、絵本作家の永田萠さんのグッズなどの
販売も行っています。
そのほか、外からサンタさんの部屋の中を見ることができる「サンタの部屋」や、
サンタキャンドルの製作体験ができる「サンタ工房」などの施設があります。
また、クリスマスのシーズンが近づくと、園内にはイルミネーションが灯り、クリスマスムード一色となります。
春から秋まで森林公園に咲くいろいろな花が目を楽しませてくれます。
森林公園から雪が消える4月下旬には、クリスマスローズの可憐な花が咲き始め、
5月上旬にはエゾヤマザクラ、5月下旬には約1万2,000本のエゾヤマツツジが鮮やかに園内を染めます。
また、園内の花壇では晩秋まで季節ごとに様々な宿根草の花が楽しめます。
昭和63年6月27日
条例第11号
(目的)
第1条 この条例は、中川一郎記念館(以下「記念館」という。)の設置及び管理について、必要な事項を定めることを目的とする。
(設置)
第2条 本町出身の元国会議員故中川一郎氏の功績をたたえその業績を後世に伝えるために、次の施設を設置する。
名称 中川一郎記念館
位置 広尾町字紋別19線51番地12
(管理)
第3条 記念館は、常に良好な状態において管理し、その設置目的に応じて最も効率的に運用しなければならない。
2 町長は、記念館の設置目的を達成するため、管理を委託することができる。
(職員)
第4条 記念館に館長及び必要な職員を置くことができる。
(使用の許可)
第5条 記念館を会議、集会等に使用しようとする者(以下「使用者」という。)は、あらかじめ町長の許可を受けなければならない。
2 町長は、前項の許可をする場合において、記念館の運営上必要があると認めたときは、その使用について条件を付すことができる。
(使用の不許可)
第6条 町長は、記念館の使用目的が次の各号の一に該当すると認めたときは、その使用を許可しない。
(1) 建物及びその備付物件をき損又は滅失するおそれのあるもの
(2) その他記念館の運営上適当と認め難いもの
(使用許可の取消等)
第7条 次の各号の一に該当するときは、町長は、その使用許可の条件を変更し、又は使用を停止し、若しくは使用の許可を取り消すことができる。この場合、記念館を使用する者に損害を及ぼすことがあっても、町は、賠償の責めを負わない。
(1) 使用者が使用許可の条件に違反したとき。
(2) この条例又はこれに基づく規則に違反したとき。
(3) 記念館の運営上やむを得ない理由が生じたとき。
(現状回復)
第8条 使用者は、その使用を終了したとき、又は使用を停止されたとき、若しくは使用の許可を取り消されたときは、直ちにその使用場所を現状に回復して返還しなければならない。
2 使用者が前項の義務を履行しないときは、町においてこれを代行し、その費用を使用者から徴収する。
(損害賠償)
第9条 記念館の施設設備又は資料をき損し、又は滅失したときは、その損害を賠償しなければならない。
(規則への委任)
第10条 この条例に定めるもののほか、記念館の管理及び使用に関し必要な事項は、規則で定める。
附 則
この条例は、昭和63年7月10日から施行する。
○中川一郎記念館管理運営基金条例
昭和63年6月27日
条例第12号
(設置)
第1条 中川一郎記念館の管理運営に要する資金に充てるため、中川一郎記念館管理運営基金(以下「基金」という。)を設置する。
(積立)
第2条 基金は、指定寄付金を積み立てるものとする。
(管理)
第3条 基金に属する現金は、金融機関への預金その他最も確実かつ有利な方法により保管しなければならない。
2 基金に属する現金は、その目的に反しない限度において、必要に応じ、最も確実かつ有利な有価証券に代えることができる。
(運用益金の処理)
第4条 基金から生ずる収益は、一般会計歳入歳出予算に計上して、この基金に編入するものとする。
(積立金の処分)
第5条 基金は、第1条に定める資金に充てる場合に限り、その全部又は一部を一般会計歳入歳出予算に計上して処分することができる。
(繰替運用等)
第6条 町長は、財政上必要があると認めるときは、確実な繰戻しの方法、期間及び利率を定めて、基金に属する現金を歳計現金に繰り替えて運用し、又は一般会計の歳入歳出予算の定めるところにより歳入に繰り入れて運用することができる。
(委任規定)
第7条 この条例に定めるもののほか、基金の管理に関し必要な事項は、町長が別に定める。
附 則
この条例は、公布の日から施行する。
附 則(平成14年条例第9号)
この条例は、平成14年10月1日から施行する。