2010/06/19 00:46:25
札幌市豊平区月寒東2条3丁目2-1
札幌市の繁華街すすきのから国道36号線を東に向かい豊平川を渡る。坂道を登るとそこは明治の頃、道内最大の軍隊、陸軍歩兵第25連隊が置かれていた「月寒」の町である。
明治39年、この地に「大原屋本間商店」を開店し、連隊に日用品をはじめさまざまな物資を納めはじめた。店を創業したのは、本間与三郎若干17歳の時。
(新潟県東蒲原郡大原村から北海道に渡ってきた)
明治7年、東京芝日陰町の木村安兵衛が酒種酵母による「桜あんぱん」の製造に成功。
翌年には、明治天皇にも献上され、銀座の名物として大ヒット。
翌年には、明治天皇にも献上され、銀座の名物として大ヒット。
これを噂で伝え聞いたのが、月寒の連隊内で菓子を販売していた仙台出身の大沼甚三郎。「あんぱん」とやらいうものを自分も作ってみようと、あれやこれや想像しながら、月餅のようなまんじゅうを作り上げた。
その製法を甚三郎から教わった本間与三郎は、その「あんぱん」を妻とともに一つ一つ手作りし、レンガの「トンネル窯」に炭を入れ、その上に鉄板をのせて下火と横火で焼き上げ、連隊に運んだ。この、ひとつ一銭の、黒砂糖でじっくりと煉ったこしあんがずっしり入った大ぶりのお菓子は、甘いものが貴重だった時代に、兵隊たちに大人気となった。
明治44年、第25連隊と住民が協力して月寒から平岸に抜ける道路を造る際、豊平町が軍に感謝を込めて毎日ひとりに5個のあんぱんを提供。あんぱんを頬ばりながら造られた道路は愛称を込めて「アンパン道路」と呼ばれ、昭和62年には記念碑も建てられた。
当時、連隊正門前の通りには7店ものあんぱん屋が軒を並べていたが、戦中戦後の混乱の中で次々と姿を消し、昭和22年、月寒地区だけでなく札幌の名物になっていた「月寒あんぱん」の製造を再開したのは「ほんま」ただ一軒だけ。
時代と共に月寒あんぱんも変化し、甘味を抑えて当時より大きさも一回り小さくなったが、上質な原料と丹念な製法は今も変わらず。
時代と共に月寒あんぱんも変化し、甘味を抑えて当時より大きさも一回り小さくなったが、上質な原料と丹念な製法は今も変わらず。
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2010/06/18 00:49:03
鉢呂吉雄
(はちろよしお、1948年1月25日- )は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。
樺戸郡新十津川町出身。滝川高等学校を経て1971年北海道大学農学部を卒業し、今金町農業協同組合に勤務。
1990年2月第39回衆議院総選挙に無所属で立候補(旧北海道3区)し初当選。日本社会党入り。
1996年1月大蔵政務次官に就任。社民党を離党し菅直人。鳩山由紀夫・鳩山邦夫・横路孝弘・岡崎トミ子・簗瀬進らが中心となり結党された旧民主党の結党に参加。
第41回衆議院総選挙で北海道第8区において小選挙区で勝利し3期目の当選
(対立候補の自民党現職佐藤孝行は比例復活)。
2000年第42回衆議院総選挙において小選挙区で勝利し4期目の当選。
(佐藤孝行は落選し引退)
2000年秋、民主党代表の鳩山由紀夫が二年以内に憲法改正の方向性を打ち出す意向を表明すると、反対派の議員を集めて二十一世紀の民主党を考える会を発足させる。
2003年3月北海道知事選挙立候補のため議員辞職。
知事選では経済産業省課長を務めた高橋はるみ、自身と同じ90年社会党新人代議士伊東秀子らと争うが、高橋が当選し鉢呂は次点に終わる。
2003年11月の第43回衆議院総選挙では、民主党選対委員長赤松広隆からの要請で北海道4区に国替えし、小樽市選出道議会議員の池田隆一や1999年赤井川村長選・次点小林恒人の全面的な支援で自民党現職の佐藤静雄らを破り5期目の当選。
2004年1月民主党北海道代表就任。
また、民主党幹事長代理、国会対策委員長を歴任する。
2005年第44回衆議院総選挙で自民党元職の佐藤静雄らを破り6期目の当選を果たした。
2006年1月民主党北海道代表留任。北海道警裏金事件では、自身と同じ90年社会党新人代議士で同じ99年9月・02年9月民主党代表選挙横路推薦人の佐々木秀典元旭川弁護士会長と共に、道警幹部に対する告発状を札幌地方検察庁に提出、検察審査会にも審査申し立て。
2007年道知事選では荒井聡を擁立したが高橋に敗北。同年9月民主党「次の内閣」ネクスト外務大臣に就任。
2008年1月民主党北海道代表留任。新党大地鈴木宗男とのパイプを期待され異例の3期目となる。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院総選挙において、7期目の当選を果たした。
ネクスト外務大臣だったが、2009年9月に発足した鳩山由紀夫内閣の外務大臣では岡田克也が就任し、閣僚入りはできなかった。
2010年5月、衆議院厚生労働委員長に就任。
2010年6月の民主党代表選挙では岡田克也、前原誠司、枝野幸男などと共に菅直人推薦代表人を務め自身が身を置いている旧社会党・横路グループを菅支持にまとめるなど、菅候補当選に尽力を尽くした。
2010/06/17 00:15:44
荒井聰
(あらいさとし、1946年5月27日- )は、日本の官僚、政治家。
民主党所属の衆議院議員(5期)。菅直人の最側近とされる。
菅直人新首相は5日夜、閣僚・民主党役員人事で、官房長官に仙谷由人国家戦略担当相、党幹事長に枝野幸男行政刷新担当相、党国対委員長に樽床伸二衆院環境委員長の起用を表明した。
国家戦略担当相には菅氏側近の荒井聡首相補佐官(衆院道3区)を内定。
小沢一郎前幹事長と距離を置く仙谷、枝野両氏の起用で参院選に向け「脱小沢」をアピールする一方、党代表選で小沢グループが推した樽床氏を要職に据えて挙党体制にも配慮した。
党人事は7日午後の両院議員総会で決定し、組閣は8日の予定。
消費者・少子化担当相には蓮舫参院議員、財務相は野田佳彦財務副大臣が内定。赤松広隆農水相は口蹄(こうてい)疫の感染拡大の責任は免れないとして再任を辞退しており、交代の方向だ。亀井静香金融・郵政改革担当相ら11閣僚は続投させる。
官房副長官は衆院側に古川元久内閣府副大臣を登用し、参院側は松井孝治氏が再任の方向。三井辨雄党国対委員長代理(衆院道2区)も再任し、党選対委員長には安住淳衆院安全保障委員長、党幹事長代理には細野豪志副幹事長を充てる。
枝野氏の幹事長起用には挙党体制の観点から党内で異論があった。だが菅氏は記者団に「選挙になれば首相より幹事長が論争することも多い。選挙の顔としてふさわしい」と枝野氏への期待を表明。樽床氏の抜てきについては「全員が参加できる党という考え方の下で進めたい」と一致結束を強調した。
農水相は筒井信隆衆院農水委員長が浮上。玄葉光一郎衆院財務金融委員長と海江田万里党選対委員長代理は政府か党の要職で起用する方向で調整中だ。復活させる党政調会長は、荒井氏が兼務する案も取りざたされている。
事務の官房副長官は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題の調整に当たった滝野欣弥氏の再任を検討している。
輿石東参院議員会長ら参院役員は、参院選が近いため留任させる。
2010/06/16 00:40:32
荒井聰
(あらいさとし、1946年5月27日- )は、日本の官僚、政治家。
民主党所属の衆議院議員(5期)。菅直人の最側近とされる。
石狩郡当別町出身。
1965年- 札幌南高等学校卒業。1969年、東京大学農学部を卒業し、農林省に入省。
1979年- 外務省へ出向、スリランカに赴任。
1986年- 北海道庁に出向。
1991年から2年間、横路孝弘知事の下で知事室長。
1993年- 農林水産省を退官し、7月18日の第40回衆議院総選挙に、日本新党公認新党さきがけ推薦で旧北海道1区から出馬し初当選。8月の党役員人事で党代表幹事に就任。
1994年- 新党さきがけに移り、菅直人政策調査会長の下で政調副会長に就任。
1995年- 北海道知事選では、自民党・自由連合推薦さきがけ支持候補である弁護士伊東秀子を支援(結果、横路後継の前副知事堀達也が当選)。
1996年-10月20日に行われた第41回衆議院総選挙(北海道第3区)に、旧民主党から出馬するも、石崎岳に3千票差の次点で落選。
2000年- 6月25日に行われた第42回衆議院総選挙に出馬(北海道第3区)。前回は選挙区でライバルとして戦った三井辨雄とは、新進党解党で同じ民主党となったため、前回とは一転して選挙協力を結び、石崎岳を6千票差で破り、2回目の当選を果たし国政復帰。
2003年 - 北海道知事選では、出馬要請を受けたが固辞し、鉢呂吉雄を支援。同年の札幌市長再選挙では、上田文雄の選対委員長を勤める。同年11月9日に行われた第43回衆議院総選挙(北海道第3区)に出馬し、石崎岳を3千票差で破り3選(石崎は比例復活)。
2004年- 民主党NC環境大臣。
2005年- 9月11日に行われた第44回衆議院総選挙(北海道第3区)に出馬し、石崎岳に1万3千票差あまりで敗れるも、比例復活で4選を果たす。
2006年- 3月、PSE問題を巡る混乱を受けて結成された党・PSE法議員懇談会の会長に就任。同年4月、堀江メール問題による執行部総退陣に伴い、空席となっていた党国会対策委員長代理に就任。同年4月8日に行われた北海道知事選挙に、衆議院議員を辞職し、民主党・社民党・新党大地の推薦、市民ネットワーク北海道の支持で出馬し、次点で落選した。
2009年 - 8月30日に行われた第45回衆議院総選挙では、北海道第3区に出馬し、石崎岳に比例復活を許さないほどの差を付け、5度目の当選を果たした。
2009年 - 10月23日、鳩山由紀夫内閣で、内閣総理大臣補佐官に就任(国家戦略室を担当)。
2010/06/15 00:24:02
大隊と中隊
明治29年(1896年)8月 第一大隊の第一中隊から第五中隊が現役を終了。
西秩父の第一大隊第六中隊を第一中隊とする。
東秩父の第一大隊第七中隊を第二中隊とする。
北一已村の第一大隊第八中隊を第三中隊とする。
南一已村の第一大隊第九中隊を第四中隊とする。
納内の第一大隊第十中隊を第五中隊とする。
西秩父の第一大隊第六中隊を第一中隊とする。
東秩父の第一大隊第七中隊を第二中隊とする。
北一已村の第一大隊第八中隊を第三中隊とする。
南一已村の第一大隊第九中隊を第四中隊とする。
納内の第一大隊第十中隊を第五中隊とする。
明治30年(1897年)5月 常呂郡下野付牛兵村 第四大隊。この年に第一中隊。
常呂郡中野付牛兵村 第四大隊。この年に第二中隊。
常呂郡上野付牛兵村 第四大隊。この年に第三中隊。
紋別郡南湧別兵村 第四大隊。この年に第四中隊。
紋別郡北湧別兵村 第四大隊。この年に第五中隊。
常呂郡中野付牛兵村 第四大隊。この年に第二中隊。
常呂郡上野付牛兵村 第四大隊。この年に第三中隊。
紋別郡南湧別兵村 第四大隊。この年に第四中隊。
紋別郡北湧別兵村 第四大隊。この年に第五中隊。
明治32年(1899年) 第四大隊の旧第一から第四中隊が現役を終了。
7月 上川郡南剣淵兵村 第三大隊第第三中隊。167戸。
上川郡北剣淵兵村 第三大隊第四中隊。167戸。
上川郡士別兵村 第三大隊第五中隊。100戸。
上川郡士別兵村 第三大隊第五中隊。100戸。
明治33年(1900年)4月 第三大隊第一中隊、第二中隊を後備役に編入。
明治34年(1901年)3月 第二大隊、屯田騎兵隊、屯田砲兵隊、屯田工兵隊を解隊。
明治35年(1902年)3月 第一大隊を解隊。
明治36年(1903年)4月 第四大隊を解隊。
明治37年(1904年)4月 第三大隊の第三中隊、第四中隊、第五中隊が後備役となる。
2010/06/14 00:22:27
大隊と中隊
明治21年(1888年)5月 根室郡西和田兵村 第二大隊第二中隊。120戸。
明治22年(1889年)7月 札幌郡篠路兵村 第一大隊第四中隊。220戸。
室蘭屯田兵中隊を第二大隊に改称。
従来の根室の第二大隊を第四大隊に改称。
室蘭屯田兵中隊を第二大隊に改称。
従来の根室の第二大隊を第四大隊に改称。
12月 空知郡滝川村南滝川兵村 第五大隊第一中隊。92戸。
明治23年(1890年)7月 厚岸郡太田村南太田兵村 第四大隊第三中隊。220戸。
厚岸郡太田村北太田兵村 第四大隊第四中隊。220戸。
空知郡滝川村北滝川兵村 第五大隊第二中隊。
厚岸郡太田村北太田兵村 第四大隊第四中隊。220戸。
空知郡滝川村北滝川兵村 第五大隊第二中隊。
明治24年(1891年)2月 第一大隊と第二大隊を統合して第一大隊とする。
第三大隊と第五大隊を統合して第二大隊とする。
第四大隊はそのまま、第三大隊は一時欠。
第三大隊と第五大隊を統合して第二大隊とする。
第四大隊はそのまま、第三大隊は一時欠。
6月 上川郡永山村西永山兵村 第三大隊第一中隊。200戸。
上川郡永山村東永山兵村 第三大隊第二中隊。200戸。
空知郡沼貝村美唄兵村 屯田騎兵隊。40戸。
高志内兵村 屯田砲兵隊。30戸。
茶志内兵村 屯田工兵隊。30戸。
上川郡永山村東永山兵村 第三大隊第二中隊。200戸。
空知郡沼貝村美唄兵村 屯田騎兵隊。40戸。
高志内兵村 屯田砲兵隊。30戸。
茶志内兵村 屯田工兵隊。30戸。
明治25年(1892年)8月 下東旭川兵村 第三大隊第三中隊。200戸。
8月 上東旭川兵村 第三大隊第四中隊。200戸。
明治26年(1893年)8月 上川郡西当麻兵村 第三大隊第五中隊。200戸。
8月 上川郡東当麻兵村 第三大隊第六中隊。200戸。
明治27年(1894年)8月 空知郡滝川村南江部乙兵村 第二大隊第五中隊。200戸。
空知郡滝川村北江部乙兵村 第二大隊第六中隊。200戸。
空知郡滝川村北江部乙兵村 第二大隊第六中隊。200戸。
明治28年(1895年)5月 雨竜郡深川村西秩父兵村 第一大隊第六中隊。100戸。
雨竜郡深川村東秩父兵村 第一大隊第七中隊。100戸。
雨竜郡深川村北一已村 第一大隊第八中隊。100戸。
雨竜郡深川村南一已村 第一大隊第九中隊。100戸。
雨竜郡深川村納内村 第一大隊第十中隊。100戸。
2010/06/13 00:20:21
大隊と中隊
明治8年(1875年) 5月 札幌郡琴似兵村 第一大隊第一中隊。
198戸。
198戸。
明治9年(1876年) 9月 札幌郡発寒村 第一大隊第一中隊に編入。
32戸。
9月 札幌郡山鼻兵村 第一大隊第二中隊。
240戸。
32戸。
9月 札幌郡山鼻兵村 第一大隊第二中隊。
240戸。
明治11年(1878年)8月 札幌郡江別兵村 第一大隊付属江別分隊。10戸。
明治14年(1881年)7月 札幌郡篠津兵村 第一大隊付属篠津分隊。19戸。
明治15年(1882年)8月 琴似を第一、第二中隊、山鼻を第三、第四中隊に編成。
明治17年(1884年)5月 琴似を第一中隊、山鼻を第二中隊、江別と篠津を第三中隊に編成。
明治18年(1885年)7月 札幌郡野幌別兵村 第一大隊第四中隊。138戸。
明治19年(1886年)5月 根室郡東和田兵村 第二大隊第一中隊。220戸。
明治20年(1887年)5月 江別と篠津の第一大隊第三中隊を、第三大隊第一中隊とする。
野幌の第一大隊第四中隊を、第三大隊第二中隊とする。
新琴似兵村 第一大隊第三中隊。140戸。
室蘭和西兵村 室蘭屯田兵中隊。110戸。
野幌の第一大隊第四中隊を、第三大隊第二中隊とする。
新琴似兵村 第一大隊第三中隊。140戸。
室蘭和西兵村 室蘭屯田兵中隊。110戸。
2010/06/12 00:19:06
日露戦争
日露戦争で、屯田兵は第七師団に後備兵として配属され、
旅順と奉天で激戦を潜り抜けた。
戦争中に屯田兵は廃止されたが、そのまま従軍し、戦争終了によって免役となった。
旅順と奉天で激戦を潜り抜けた。
戦争中に屯田兵は廃止されたが、そのまま従軍し、戦争終了によって免役となった。
明治37年(1904年)2月に日露戦争がはじまったとき、屯田兵はすべて現役を退き、
後備兵になる間際であった。
旭川に本部をおく第七師団は、ロシアの出方をうかがう意味もあって、当座は動員をかけなかった。
後備兵になる間際であった。
旭川に本部をおく第七師団は、ロシアの出方をうかがう意味もあって、当座は動員をかけなかった。
8月4日に動員が命令され、充員のため屯田兵も召集された
8月17日に野戦第七師団が完了し、大迫尚敏中将が師団長となった。
第七師団は、他の師団と異なり、各連隊に約1個小隊の乗馬歩兵を配属し、
伝令などに当たらせる編成をとった。
この乗馬歩兵は屯田兵から選ばれた。
北海道には10月26日に留守第七師団がおかれ、訓練と補充に当った。
第七師団は、他の師団と異なり、各連隊に約1個小隊の乗馬歩兵を配属し、
伝令などに当たらせる編成をとった。
この乗馬歩兵は屯田兵から選ばれた。
北海道には10月26日に留守第七師団がおかれ、訓練と補充に当った。
10月21日から輸送が開始され、11月に大連に集結、乃木希典の指揮する第三軍に属した。
そのまま旅順攻囲戦に参加し、攻略の一翼を担って莫大な損害を出した。
旅順陥落後は、奉天会戦に参加した。講和交渉開始の翌年、明治39年(1906年)3月に日本に帰着した。
旅順陥落後は、奉天会戦に参加した。講和交渉開始の翌年、明治39年(1906年)3月に日本に帰着した。
第七師団全体の損害は、死者3142人、負傷8222人に及んだ(屯田兵だけの損害ではない)。
2010/06/10 00:14:08
屯田兵 6
戦歴
屯田兵は西南戦争、日清戦争、日露戦争に参加した。
西南戦争が勃発した明治10年(1877年)2月、
屯田事務局は黒田開拓長官の命令で、屯田兵小隊を函館港に派遣した。
第一中隊の安田安中尉が30名の部下とともに出動し、約1カ月間船舶を
監視する任務に就いた。
反乱の拡大がないと見極めが着いた3月下旬に引き揚げた。
屯田事務局は黒田開拓長官の命令で、屯田兵小隊を函館港に派遣した。
第一中隊の安田安中尉が30名の部下とともに出動し、約1カ月間船舶を
監視する任務に就いた。
反乱の拡大がないと見極めが着いた3月下旬に引き揚げた。
4月10日、黒田長官は屯田兵第一大隊、つまりは屯田兵全部隊に出征を命じた。
屯田兵は小樽港から出向し、熊本県の百貫に着き、小島町に宿営した。
27日に別働第二旅団に所属することが決まり、鎮台兵一中隊と狙撃兵若干が配属された。
以後、屯田兵は八代から人吉への進撃に加わって、交戦を重ねた。
屯田兵の下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったので、戊辰戦争の敵だった
鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立った。
鹿児島県士族を相手とするこの戦争に奮い立った。
しかし、将校の地位を占めた鹿児島県出身者には戦意が乏しく、
8月2日の一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、
屯田部隊で「戦争をしているのは下士兵卒で将校ではない」と評したという。
戦争の終わりが見えると、8月16日に帰郷命令を受けた。
8月2日の一瀬川の戦いを観戦したある官軍将校は、
屯田部隊で「戦争をしているのは下士兵卒で将校ではない」と評したという。
戦争の終わりが見えると、8月16日に帰郷命令を受けた。
戦争中、屯田兵は戦死7人、戦病死20人、負傷20人の損害を出した。
屯田兵は都ノ城、神戸、東京を経由して9月30日に札幌に戻った。
途中、9月3日に屯田予備兵とともに明治天皇の観閲を受け、慰労の言葉を賜った。
戦後の論功行賞は、非難の的だった鹿児島出身将校に厚く、勇戦した他藩出身者に
薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をした。
薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をした。