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北海道出身の作家

 

高橋揆一郎(たかはしきいちろう)

1928410- 2007131

日本の小説家。本名、良雄(よしお)。歌志内市出身。

 

経歴

札幌の夜間中学校卒業後、歌志内市で代用教員を勤め同人雑誌「白楊」に参加。

退職し北海道第一師範学校(現・北海道教育大学札幌校)に入るが中退、住友石炭鉱業に入社し、社内報の編集に携わる。この間同人活動を続け、1970年に退社しイラストレーターとなる。

処女作は北海道新聞文学賞に投稿。1973年に「ぽぷらと軍神」で文学界新人賞を受賞してデビュー。

1977年に北海道新聞文学賞を受賞した「観音力疾走」などは芥川賞候補に。

1978年に「伸予」で北海道在住の作家としては初めて芥川賞を受賞した。

このほかの作品に新田次郎文学賞を受けた自伝的作品『友子』など。

歌志内公園の一角に文学碑が建立されている。

忌日は、3回忌にあたる2009年に「氷柱忌(ひょうちゅうき)」と命名された。

 


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北海道内のおもな義経伝説 13

 浜益・雄冬

⑬ 浜益に残る義経伝説(源義経は浜益に来たのか?)

 

浜益という名前の由来
 浜益という名前の由来はいろいろあります。
いずれもアイヌ語で、「マシュキニ(ニシンの多いところ)」
「マシケイ(カモメの多いところ)」
アママシュケ(穀物を炊く)」などのいわれがあり、そのうち「アママシュケ」が
源義経にまつわる名前の由来といわれています。
かつて、義経がたどり着いたときに、この地で飯を炊いて食べたことにちなんでいるそうです。

 

義経、ゴキビルに到着(ゴキビルの岩燕伝説)

義経は奥州藤原氏のもとを逃れ、津軽海峡を渡り、
後志の国に入り、やがて浜益の地へやってきました。

ゴキビルに到着した義経はアイヌの酋長「トミハセ」の供応を受けました。
トミハセには美しい娘がおり、娘は義経のことを好きになってしまいます。
やがて、疲れを癒した義経が出発するとき、老婆が娘の代わりにと
2羽の岩燕を贈りましたが、燕はすぐに娘のところに戻ってしまいます。

ですが、燕が戻ったときには、娘は毒を飲んで死んでしまったあとでした。
娘の可愛がっていた2羽の紅い頭の岩燕が、娘の恩を忘れず未だに
ゴキビルの洞窟に棲みついているそうです。


義経、トドを食べる(マラプトフンナイ)

ゴキビルを出立した義経一行は、群別のマラプトフンナイに到着。
マラプトフンナイは現在の室蘭沢だといわれている。
アイヌは義経に海馬(とど)をとってご馳走したといわれている


雄冬岬の近くにカムイオプトイというところがあり義経が上陸した。
雄冬岬を越すタイルベシベというところに義経が住んでいた。
ここを出ていくときに甲冑を置いていったが、蝮になってしまった。
ここを出た義経は小舟でカムイオプトイに上陸し、山越えをして増毛に移動した。

 

 



江別市 2

 

北海道の先史を知る上で江別は重要な地の1つである。

江別では後期北海道式薄手縄文土器(後北式土器)が多く出土し、
日本先史の権威である山内静男はこれを江別式土器と名づけ、
この土器が使われた文化を「江別文化(後北文化)」と呼んだ。

その後、7世紀から9世紀ごろに築かれた「江別古墳群」もこの地で発見されている。


江戸時代には、松前藩によって石狩十三場所が開かれ、
このうち上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所が石狩川左岸、
現在の世田豊平川合流地付近に位置していた。
これら場所と呼ばれる商場は、幕末ころまで存続していた。1046a.jpg

 

現在の江別市に和人が定住したのは

1867年に通行屋(旅行者のために宿泊、休憩の場を提供した)
      の立花由松が住んだのが最初とされる。
1869年、北海道11カ国86郡が置かれ、現在の江別市に
      相当する地域は石狩国札幌郡に含まれた。

1871年、陸前国遠田郡馬場谷地村(現宮城県遠田郡涌谷町)の農民
       21戸76名
が対雁(ついしかり)に来たのが集団入植の始まりである。
1873年開拓使開墾掛に換地を願い出て受理され、19戸70名が札幌郡雁来村へ
      再入植するに至った。跡地は榎本武揚の農場となった。

1878年(明治11年)8月に江別太(現在の王子地区周辺)に屯田兵村が置かれ、
       同年11月に江別村が誕生した。
1881年にも養蚕を営む屯田兵が入植したが、これらの試みは成功しなかった。
1882年、官営幌内鉄道が開業し江別駅が設けられると、石狩川水運と鉄道輸送
       の結節点として市街地が形成された。
1884年以降3年間にわたり屯田兵432戸が入植し、開拓事業にあたった。
       また屯田兵以外の人々による開拓も多かった。
       中でも大きな成果を挙げたのは新潟県人による北越殖民社で、
1886年に江別太へ17戸、
1890年には野幌南部へ204戸の入植を果たし、稲作を成功させた。

       明治の中ごろになると工業が芽生え始めた。
1891年に江別太で煉瓦工場が操業した。

1908年には富士製紙会社北海道工場(現:王子特殊紙江別工場)が操業を開始。
         労働者も多く住むようになり、
1916年には町制を施行した。

        第二次世界大戦後には引揚者を積極的に受け入れ、
        また戦後復興にも力を注ぎ人口は伸びていった。

1953年(昭和28年)5月23日に市街地の半分を焼く大火を出しながらも、翌年には市制を施行した。

1963年に東野幌に炭鉱離職者団地、翌年道営大麻団地が建設されると宅地化が進行、
        札幌の衛星都市としての性格が強まった。
 



江別市

122,542人(人口、2009年6月30日)

 

江別市(えべつし)は、石狩支庁管内にある市。toppage.gif

札幌市の東に隣接し、同市のベッドタウンとして
急速に人口が増加した。

アイヌ語由来の地名であるが、
「エペツ」(胆汁のように濁った川))、
「ユベオツ」(チョウザメのいる川))、イプツ(大事な入り口)
などの諸説がある。

 

江別に最初に移住したのは、
明治4年。
宮城県涌谷領からやってきた21戸76人の農民でした。

明治11年には、屯田兵10戸56人が移住。
  同年、明治政府による開拓使府令が布達され江別村が誕生、その後、
  各地から屯田兵が入地し、計画的な開拓がすすめられました。


明治41年に北海道最初の製紙工場「富士製紙株式会社北海道工場
   (現:王子特殊紙江別工場)」が操業を開始、現在に至る。

野幌地区を中心に古くから窯業製品(特に煉瓦)の製造が盛んで
国内屈指の生産量を誇る。


新篠津村

3,686人(人口、2009630日)
b0a454bb.jpeg

新篠津村(しんしのつむら)は、
北海道石狩支庁管内北部にある管内唯一の村。

篠津はアイヌ語の「シリノッ」(突き出たあご)の意。
「本流が同じ深さで、ゆるやかに流れる(シ・ヌッチ)」、
「大きな原野が沼(のような)(シ・ノ・ト)」等の意味。

 

新篠津村は、新篠津村(現:江別市篠津)から分村したことから名付けられた。

主産業は農業の第1次産業、第2次産業は若干の建設業・製造業とその従事者、
第3次産業は役場・農協・福祉施設・第3セクター等に勤務する職員等。

 

e3f2a98a.jpeg   新篠津村は、石狩川の流域に位置し、農地は必然的に水位が高く、
   大根等の根もの野菜はたっぷりと水分を蓄えます。
  それに加えて、新篠津村の周囲には高い山や丘がひとつもないため、
  西側の手稲連山から強い風が吹き降りて来ますので、新篠津村  
  このように、葉もの野菜づくりには絶好の条件の新篠津村ですが、
 農業に従事する若手の世代の後継者を代表とする人たちによって
 次の時代の農業を見つめた、より 安全で美味しい農産物づくり、
 そして製品開発が始まっています。



当別町840cd534.jpeg

18,962人(人口、2009630日)


当別町(とうべつちょう)は、石狩支庁管内北部にある町。

トウベツはアイヌ語で沼から来る川を意味し、当別川を指した。

基幹産業は農業(稲作、花卉栽培)、林業。
石狩支庁で米の生産量が最も多い。

当別町は札幌市と境界を接し、都心部から約15〜25kmに位置しています。


65b629da.jpeg    



     





明治4年、仙台藩岩出山の領主・伊達邦直公が家臣共々移住し
、苦難の開拓の歴史が始まりました。

      人々の開拓の努力は、明治35年頃には札幌支庁管内(当時)
     最も豊かな農村へと発展し、農業を基幹産業とした本町の礎が築かれました。



北広島市

60,799人(人口、2009年6月30日)

北広島市(きたひろしまし)は、
石狩支庁管内にあり、札幌市の南東に隣接する市。

農村として発展してきたが、ニュータウンが開発され
札幌都市圏のベッドタウンとして人口が増加。

IMG_16661.jpg

 

明治10年に札幌農学校(現在の北海道大学)
初代教頭であった
クラーク博士がアメリカに帰国のとき、
学生との別れの際に
「青年よ大志をいだけ」の言葉を残した地であり、
また、
明治6年に中山久蔵翁が「米づくり」に成功した
北海道寒地稲作発祥の地でもあります。


明治17(1884)年に広島県人25戸103人が集団移住
開拓の鍬がおろされてからおよそ125年。

平成8(1996)年9月に市制を施行。
「自然と創造の調和した豊かな都市」をまちづくりの理念として掲げ、
市内にある特別天然記念物
「野幌原始林」をはじめとする豊かな自然や、
国道、道道、高速道路、JR千歳線などの恵まれた交通網等を活かした、
まちづくりに取り組んでいます。


石狩支庁

2,310,001人(2005年10月1日)minimap_ishikari.gif


石狩支庁(いしかりしちょう)は、
北海道西部に位置する6市1町1村を管轄する支庁。

鳥取県とほぼ同じ面積を持ち、国内15位の宮城県
に匹敵する人口を擁し、国内8位の兵庫県並みの
人口密度となっている。


石狩支庁

管内南部に支笏洞爺国立公園
北部に暑寒別天売焼尻国定公園
江別市に道立自然公園野幌森林公園がある。

 

1,札幌市, 2.江別市, 3.千歳市, 4.恵庭市, 5.北広島市, 6.石狩市,7.当別町, 8.新篠津村

 

石狩の北西部は、約72kmにわたり日本海に面し、北端の増毛火山群に属する高山
へと続いています。

この一帯は、暑寒別天売焼尻国定公園として指定され、変化と景観に富んだ海岸線は、
石狩支庁とよばれ、優れた観光レクリエーション地帯として注目されています。

南西部は恵庭岳を主峰とする山岳地帯と、エメラルドグリーンに輝く
支笏湖が支笏洞爺国立公園を形成しており、原始林に囲まれた湖とその周辺山岳
の景観は、まさに北海道らしいダイナミックさと神秘的魅力にあふれています。
中央部は、日本三大河川の一つである石狩川が東西に走り、その流域には広大
かつ肥沃な石狩平野が広がっています。
また、この地域は稲作の中核地帯であると同時に北海道の中枢機能を備える
道都札幌市を中心に大都市圏を形成しています。


石狩市6bbc3f01.jpeg

明治時代になると、
愛知県や石川県、高知県などから移住者が入り
花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村、樽川(たるかわ)村
の三つの村ができ、近代的な開拓が始まります。

石狩の平野部は砂地のため、最初は畑作のほか酪農が
さかんにおこなわれました。

水田は開拓民の悲願でしたが、砂地での水田耕作は難しく、さまざまな
試行錯誤が繰り返された後、昭和3年(1928年)、花畔(ばんなぐろ)地区
の農民たちによって本格的な水田耕作に成功し、市内の水田は飛躍的に
増加しました。

戦後も食料難から造田への意欲は高く、町民あげて大規模な造田工事が
おこなわれ、水田地帯にかわりました。

昭和30年代には、札幌市の人口の急増から大規模団地として注目されるようになります。

昭和39年(1964年)、現在の花川南地区が「新札幌団地」として造成が開始されて以降、
大規模住宅地として開発が進み、人口はめざましく増加しました。

また、昭和48年(1973年)から着工された石狩湾新港は、国際貿易拠点港として期待されています。

平成8年(1996年)9月1日に、石狩町は「石狩市」となり市制が施行されました。

奈井江町

6,466人(人口、2009年6月30日)

奈井江は
アイヌ語の「ナヱ」から転訛したもので「砂多き川」の意味。
IMG_0066.jpg

奈井江町(ないえちょう)は、空知支庁中部に位置する町。

かつて石炭産業で栄えたが、閉山に伴い人口は激減。

農業・工業の振興を図る一方、福祉政策に力点を置く。

 

明治3年、伊達邦直は、土地調査のため上陸し、
ナヱイとナヱ川両川口に標杭を立て開拓の準備にとりかかった。

奈井江町明治23年滝川村の一部を分離、
奈井江町の母村である奈江村が誕生する。
鉄道の開通と奈江原野殖民区画の完成により、移住地の下検分など
移民入植の気運が高まり、奈江村はいよいよ活況を呈する。

明治28年奈江村より奈井江独立戸長役場を設立
12月には奈井江炭坑が発見され、試掘が始まった。
この独立を契機に現在の奈井江町へと大きく胎動を始めることとなった。
 明治36年には、奈江村が砂川村と改称される。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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