2010/02/17 00:13:01
北方領土と高田屋嘉兵衛 3
(「ゴローニン幽囚事件」での活躍)
国後島に上陸したゴローニンらが南部藩に捕らえられた際、
艦上でそれを見た副長リゴルドは勝ち目がないと判断し、
オホーツクに引き返しましたが、
翌年の1812年(文化9年)には、再び、国後に来航しました。
彼は、ゴローニンの消息が確認できなかったことから、択捉場所
から水産物を移送する途中の嘉兵衛の乗る観世丸を停船させ、
嘉兵衛をカムチャッカに連行しました。
この際の嘉兵衛の態度は、豪胆沈着で、ロシア人らからも敬意を
表されたと伝えられます。
■カムチャッカで、嘉兵衛はロシア語を学び、リコルドに対し、
「幕府がゴローニンを釈放しないのは、先年のフォストフの暴行への報復な
ので、そのことを謝罪し、日本側の誤解を解く必要がある。」と説きました。
嘉兵衛に信頼の念を抱いていたリコルドもこれを容れ、三たび、国後に来航し
嘉兵衛を通じその意を幕府の吏員に伝えました。
■幕府は、ゴローニン放還の条件として、ロシア長官の謝罪文、先年、略奪した
兵器の返却を要求し、 リコルドもこれを了承し、
1813年(文化10年)9月、箱館で、シベリア総督及びオホーツク長官の弁明書
を提出し、ゴローニンらは釈放されました。
■この時のオホーツク長官の書状には、
「今回の事件は、国境が明らかでないことが原因なので、日露間の国境を確定したい」
との意向が示されており、この45年後の1855年(安政元年)に日露通好条約が締結され
両国の国境は、択捉島と得撫島の間に定められました。
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