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没後40年 田辺三重松展syouwasinzan.jpg

 

函館美術館開館25周年記念として「没後40年 田辺三重松展」が開催

されています。会期:2011年7月16日(土)~9月19日(月)。

 

北海道でも人気がある田辺三重松は、やはり函館では「洋画家田辺」
絶大なのでしょう。私が
30年ほど前に函館の知り合いの家に泊まった時に、

田辺三重松の絵がありました。聞くと「家にしばらく泊まっていたんだよ」と

いうことでした。

今回の企画は油彩画約60点のほか素描・下絵原画等の未公開作品も展
示し
ております。20数年前に、札幌の北海道立近代美術館で田辺三重松展
が開か
れておりましたが、これだけの作品を鑑賞できる機会はそうはないでしょう。

 

すでに田辺三重松については、2009222日に紹介していますが、

今回は彼の生い立ちについて触れます。

 

 明治30年(1897)函館区大黒町95番地(現在の弁天町57号)に、

母、田辺ヨシ(当時40歳)の子として生まれた。父親は、本願寺函館別院

で布教伝道につとめていた僧侶、松原深諦(まつばらじんたい)当時45歳である。

 誕生のいきさつは、ヨシの夫の死後、呉服店の女主人として切り盛りをし

ていましたが、函館に来た松原深諦と恋仲になります。ところがこの事実は、

周囲にもあまり知られないままに、三重松は親戚の子として生まれ田辺家に

養子にきたとされていました。

 松原は、三重県梅戸井村にある真宗本願寺派の光明寺という由緒ある寺の

嫡男であり、後には本願寺本山の執行長にまでなった高僧である。この布教

僧とヨシの結婚は、周囲の反対にあってかなわず、二人は引き離されるよう

にして三重県に帰った。

三重松という名前は、この三重からやってきた松原深諦をしのんでヨシがつ

けたものである。


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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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