2010/03/31 00:03:49
町村金五
(まちむら きんご、明治33年8月16日-平成4年12月14日)は、日本の政治家。
(まちむら きんご、明治33年8月16日-平成4年12月14日)は、日本の政治家。
元貴族議員・元参議院議員町村敬貴の実弟、衆議院議員町村信孝の実父。
宮部金吾や佐藤昌介等と共に、クラーク博士の創設した札幌農学校で学び日本における“酪農の草分け”と言われた町村金弥の五男である。
内務官僚時代は、官選の新潟県・富山県両県の知事を経て、内務省警保局長
(特高警察の元締)や警視総監などを歴任したが、戦後に公職追放された。
(特高警察の元締)や警視総監などを歴任したが、戦後に公職追放された。
追放解除後、衆議院議員総選挙に立候補して国会議員となる。
その後、北海道知事に当選し3期務める。
任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。
総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。
任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。
総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。
2010/03/28 00:45:14
北海道の政治家
昭和38年、旧北海道5区から第30回衆議院総選挙に出馬
し、初当選。
し、初当選。
以後、連続当選7回。
田中内閣で大蔵政務次官に就任した後、昭和52年に
福田内閣改造内閣で農林大臣
(省庁改称のため、1978年7月5日より農林水産大臣)、
鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。
福田内閣改造内閣で農林大臣
(省庁改称のため、1978年7月5日より農林水産大臣)、
鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。
昭和48年には渡辺美智雄、石原慎太郎らと「青嵐会」を結成、
若手タカ派として名を売った。
福田赳夫に私淑し、後年は、福田と政治行動を共にする。
1977年福田が総理総裁時代の自民党国民運動本部長として、
かねてから保守派の活動通じ親交有った黛敏郎に新たに創設
された党友組織自由国民会議初代代表就任要請し受諾された。
若手タカ派として名を売った。
福田赳夫に私淑し、後年は、福田と政治行動を共にする。
1977年福田が総理総裁時代の自民党国民運動本部長として、
かねてから保守派の活動通じ親交有った黛敏郎に新たに創設
された党友組織自由国民会議初代代表就任要請し受諾された。
昭和53年の自民党総裁選で福田が大平正芳に予備選で敗れた
際は、本選挙で断固戦うことを主張し、福田内閣総辞職の際には
署名を拒否する。
際は、本選挙で断固戦うことを主張し、福田内閣総辞職の際には
署名を拒否する。
昭和54年には石原、長谷川四郎、松沢雄蔵、長谷川峻らを結集
して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。
昭和57年、鈴木善幸の後継を狙い、自民党総裁選にいち早く名
乗りを上げるも予備選で最下位に敗れた。
この時、田中角栄を訪ね「池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と出馬につ
いて伺いをたてるも
「跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭されたことは有名。
して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。
昭和57年、鈴木善幸の後継を狙い、自民党総裁選にいち早く名
乗りを上げるも予備選で最下位に敗れた。
この時、田中角栄を訪ね「池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と出馬につ
いて伺いをたてるも
「跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭されたことは有名。
昭和58年(1983年)、札幌パークホテルのバスルームにて自殺。
その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。
前年の総裁選での惨敗の影響が指摘され、総裁選後、睡眠薬を服用して
いたという。
その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。
前年の総裁選での惨敗の影響が指摘され、総裁選後、睡眠薬を服用して
いたという。
2010/03/27 00:43:07
北海道の政治家
昭和26年、北海道開発庁が設置され、開発担当官となる。
昭和30年大野伴睦北海道開発庁長官の秘書官を務め、
大野に見出されることとなる。
大野に見出されることとなる。
大野伴睦長官は、わずか七ヶ月の在職で、自民党総務
会長に転じた。
会長に転じた。
後任の長官は、緒方竹虎。副総理との兼務であった。
中川はそのまま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、吉田内閣総辞職
のあと、開発庁の開発専門官に異動させられた。
大野は昭和34年、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請。
父文蔵は大反対した。
しかし大野に惚れ込んだ中川は、12年間の役人生活に別れを告げ、
身分の不安定な政治家秘書になる決意をしたが、父の文蔵は
「こんな馬鹿な息子とは思わなかった。
まあ交通事故で死んだと思って諦めるから、おまえの好き勝手にしろ」
と突き放した。
中川はそのまま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、吉田内閣総辞職
のあと、開発庁の開発専門官に異動させられた。
大野は昭和34年、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請。
父文蔵は大反対した。
しかし大野に惚れ込んだ中川は、12年間の役人生活に別れを告げ、
身分の不安定な政治家秘書になる決意をしたが、父の文蔵は
「こんな馬鹿な息子とは思わなかった。
まあ交通事故で死んだと思って諦めるから、おまえの好き勝手にしろ」
と突き放した。
2010/03/26 00:41:02
北海道の政治家
(なかがわいちろう、
大正14年(1925年)3月9日-昭和58年1月9日)は
日本の政治家。
大正14年(1925年)3月9日-昭和58年1月9日)は
日本の政治家。
元衆議院議員。自由民主党の派閥・中川派の領袖。
農林大臣(第49代)、農林水産大臣(初代)、国務大臣科学技術庁長官
(第35代)。「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。
(第35代)。「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。
前衆議院議員中川昭一は長男。中川義雄参議院議員は実弟。
昭和58年1月9日ホテルで死亡。自殺と報じられた。
広尾郡広尾町に農業中川文蔵、セイの長男として生まれる。
父文蔵は富山県西蛎波郡福光町(現南蛎市)の出身で、14歳の時
北海道に入植、開拓に従事した。母セイは山形県出身。
北海道に入植、開拓に従事した。母セイは山形県出身。
小学校2年生の時、父文蔵は開拓地を離れて町なかに住み、雑貨商
兼家畜商に転じた。
兼家畜商に転じた。
道立十勝農業学校、宇都宮高等農林学校をたて昭和22年9月九州
帝国大学農学部農業工学科卒業。
北海道庁に入った。
帝国大学農学部農業工学科卒業。
北海道庁に入った。
中川が北海道に戻った時、北海道は社会党の天下であり、革新系の
田中敏文が社会党に担がれて北海道知事に当選した。
田中は九大の先輩に当る。
中川を可愛がっていた教授がわざわざ紹介状を書いてくれた。
中川はその紹介状を持参して、田中を訪れたが、来客が多くなかなか
面会しようとしない田中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった。
田中敏文が社会党に担がれて北海道知事に当選した。
田中は九大の先輩に当る。
中川を可愛がっていた教授がわざわざ紹介状を書いてくれた。
中川はその紹介状を持参して、田中を訪れたが、来客が多くなかなか
面会しようとしない田中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった。
2010/03/25 00:51:04
岩倉博文
(いわくらひろふみ、1950年1月15日―、
苫小牧市出身)は、日本の政治家。
苫小牧市出身)は、日本の政治家。
北海道苫小牧市長(2006年7月10日-)。
苫小牧市内の小・中学校卒業後、東京都にある
立教高校(現:立教新座高等学校)・立教大学経済学部卒業。
岩倉建設(本社・札幌市)に勤務し役員となった。1989年青年会議所
副会頭。
立教高校(現:立教新座高等学校)・立教大学経済学部卒業。
岩倉建設(本社・札幌市)に勤務し役員となった。1989年青年会議所
副会頭。
2000年の衆議院選北海道第9区から自民党公認で立候補し
民主党代表の鳩山由紀夫に惜敗するが比例復活で初当選する。
民主党代表の鳩山由紀夫に惜敗するが比例復活で初当選する。
衆議院議員1期務めるものの2003・2005年衆議院選挙で鳩山
にいずれも敗退し比例復活も出来なかった。
にいずれも敗退し比例復活も出来なかった。
衆議院議員時代は橋本派に所属しており、鈴木宗男に近かった。
2006年に不祥事で辞任した桜井忠前市長の後を受け、無所属
(自民党・新党大地推薦)
として苫小牧市長選挙に立候補し、元市長の鳥越忠行を破り初当選した。
(自民党・新党大地推薦)
として苫小牧市長選挙に立候補し、元市長の鳥越忠行を破り初当選した。
2010/03/24 00:37:54
北海道の政治家
五十嵐広三
1943年に道立旭川商業学校卒業後、雑穀商・
民芸会社・地方新聞社などを手広く経営。
民芸会社・地方新聞社などを手広く経営。
また北海道の文学者やアイヌ民族との親交も深い。
1963年(37歳)のとき社会党から旭川市長に立候補
して当選。
当時の全国最年少首長となる。
して当選。
当時の全国最年少首長となる。
3期12年の市長在任中は日本初の恒久的な「歩行者天国・平和通
買物公園(1972年)」、「旭山動物園(1967年)」を開設するなど、
アイデア市長として全国に知られた。
買物公園(1972年)」、「旭山動物園(1967年)」を開設するなど、
アイデア市長として全国に知られた。
旭川市長辞職後に、1975年、1979年の2度にわたり北海道知事選挙
で革新統一として立候補
するも、いずれも保守系現職の堂垣内尚弘に敗れる。
で革新統一として立候補
するも、いずれも保守系現職の堂垣内尚弘に敗れる。
1980年、第36回衆議院議員総選挙に日本社会党より出馬し初当選
(旧北海道2区)。以後通算当選5回。
(旧北海道2区)。以後通算当選5回。
1993年、細川内閣において建設大臣に就任し、歴代大臣として初め
て長良川河口堰事業の見直しに着手する。
ただし、撤回・廃止等には至らず、結局2代あとの建設大臣野坂浩賢
が運用開始に踏み切った。
て長良川河口堰事業の見直しに着手する。
ただし、撤回・廃止等には至らず、結局2代あとの建設大臣野坂浩賢
が運用開始に踏み切った。
1994年、村山富市内閣の内閣官房長官として自社さ連立政権を支える。
1996年、政界を引退。