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中富良野町

5,648人(人口、2009年3月31日)

 

中富良野町(なかふらのちょう)は
上川支庁南部に位置する町。
map_image_04.gif

富良野地区を代表する
ラベンダー園「ファーム富田」があるのは中富良野町。

 

富良野地方の開拓の始まりは,明治30年の三重団体とされる。

中富良野町のフラノ原野開拓第一歩の地「憩いのにれ」の跡に
「富良野平原開拓発祥の地」の碑がある。

しかし、最も早く入植したのは中富良野町から単独で
中富良野の西中に入った中富良野町である。

それでもなお三重団体が開拓の祖とされるのにはいくつか理由がある。

まず,伊藤喜太郎は富良野原野に殖民区画が引かれる前の入地で,
法にのっとった入植ではなかったこと。

そして,三重団体は団体として正当な手続きを取って入植し,成功を収めたこと。

さらに,大正15年の十勝岳噴火による泥流で三重団体が直撃を受け,没落した
ことなどで三重団体の説が定説となったようだ。


上富良野・中富良野・下富良野とも,明治30年になると堰を切ったかのように
三重団体を皮切りとして次々に団体が移住している。
ところが中富良野町では,伊藤喜太郎入植の明治28年を開基の年としている。

しかし,富良野市は上富良野町にあわせて明治30年を開基としている。
上記のような経緯がある。

富良野川と空知川が合流するのが富良野市で,地形的に見ると富良野市が
富良野地方の中心になるべき地域であったことは明らかである。
にもかかわらず,初期に開拓が遅れたのは,大部分が北大の第8農場,東大演習林,
皇室の御料地で占められていたからである。
開拓者は,それらの農場の小作人となったが,後に全道でも有数の激しい
農地解放運動が展開されることになる。

 

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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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