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北海道の平野(当別町編1

 

北海道開拓の
歴史は明治維新後
(明治2年)旧幕府家臣によって始まります。

 

江戸時代末期の仙台藩一門・岩出山「伊達家」当主伊達邦直は
北海道開拓に身を投じ今の当別町の基礎を築いた人です

伊達邦直は、明治維新後それまで一万四千石あった禄高を六十五石に
減封され、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪されました。

侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられ、伊達邦直は私財を処分し
得た資金で新政府の推し進めていた北海道開拓を志願します。

北海道開拓の願を許され1869年(明治2年)石狩国空知郡の支配を
命ぜられます。しかし、この地が問題でした。

 

空知郡は内陸部で物資の輸送等が困難のため海岸近くへの移転を
申し入れます。しかし、叶わず家老が太政官に申し入れたところ不届き者
自宅謹慎を命ぜられる始末でした。

明治3年伊達邦直は北海道に渡り調査を行います。
政府から指定された入植地は大雑把な指定で、何処を開拓するかは
現地開拓使との交渉が必要でした。

空知郡では開拓の見込みが立たないことから、交渉の末厚田郡繋富
(シップ・石狩市厚田区聚富)の荷揚場を借用する事が認められます。


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石狩平野sapporo.jpg

 

石狩平野は、北海道西部の平野である。

 

北は増毛山地、東は夕張山地、
南西部は余市岳・恵庭岳などで囲まれている。

 

北海道最大の一級河川である石狩川の中流・河口付近にあたり、
平野の西部には札幌がある。

石狩振興局と空知総合振興局にまたがっている。最北端は空知支庁深川市。

 

土地は、かつてはほとんどが泥炭地であったため農業には不向きであったが、
土地改良(客土)や治水事業などの結果、現在では多くの水田や畑が広がっている。

石狩平野のうち、空知支庁管内に含まれる部分を特に空知平野とも呼ぶ。

南は低い丘陵をはさんで勇払平野につながっており、石狩平野西部と
勇払平野をあわせて石狩低地帯と呼んでいる。

 




十勝平野

 

十勝平野(とかちへいや)は、

北海道東部の台地性の平野です。西は日高山脈、北は石狩山地、東は白糠丘陵に囲まれており、南部は太平洋に面しています。

十勝平野の面積は、全北海道の10%ほどを占め、この数字は、東京・千葉・神奈川の合計面積を上回ります。

 

平野の中を十勝川が流れており、中心付近には帯広市があります。

土地は火山灰を多く含み、農業は広い耕地に機械を活用した大規模農業が盛んであり、畑作酪農が中心となっています。

 

農家一戸当たりの平均耕地面積は全国平均の約24

大豆小豆甜菜じゃがいもなどの有数な産地であり、北海道一の畑作地帯である。

 

日本最大の食糧基地(2009年度の生産量)

 

小麦の生産数量

  全国674,200t(全道59.3%・十勝24.5%)

甜菜(てんさい)の生産数量

 全国3,649,000t(全道100%・十勝41%)

生乳の生産数量

 全国7,881,000t(全道49.9%・十勝13.5%)

小豆の生産数量

 

 全国52,800t(全道88.1%・十勝51.8%)




北海道の平野

 

北海道には14の代表的な平野があります。
明治維新後この平野を目指して全国から開拓者や屯田兵が移住をしてきました。
北海道の先住民族はアイヌでしたが、狩猟民族であったため内陸は未開地でもありました。
原生林を切り開き、不毛と思われた土地に鍬を下ろし、畑作と酪農を試みたのです。

 

14の平野は下記となり、それぞれの平野内に主力の河川があります。

天塩平野・頓別平野・湧別平野・美幌平野・斜里平野・石狩平野・岩内平野・釧路平野・
十勝平野・勇払平野・長万部平野・八雲平野・瀬棚平野・函館平野。




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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