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北海道の歴史を刻んだ人々

 

関 寛斎(せき かんさい)21146b.jpg

 

佐藤泰然のもとで寛斎が記録した『順天堂外科実験』
ポンペに学んだ『朋百氏治療記事』『七新薬』は
当時の医学に係る第一級の資料とされる。

順天堂での先駆的な種痘奉仕、梧陵が主導した銚子
のコレラ防疫の成功などの体験は、若き寛斎にとって、
養父から受けた儒学の素養、「人を拯い世を済す医に若くは莫し」
との泰然の訓え梧陵の「人たるの道」への導き、ポンペの
ヒューマニズム医療教育と相俟って生涯の生き方の指針となったと思われる。

維新に際し、官賊の別なき施療行為は赤十字精神の先駆とされ
その業績は西郷隆盛からも高く評価された。
しかし「軍医総監男爵は造作もない」(徳富蘆花)立場を故あって捨て
その後30余年にわたり、徳島にあって庶民への医療と社会奉仕に力を尽くした。

彼の医学思想と実践は、その著『養生心得草』にも見られるように
養生(健康管理と予防)、運動(積極的鍛練)、医療(適切な科学的対処)の
総合性を重視した、現代保健思想にも通ずるものといえる。
彼の「世を済す」社会貢献は、医療を超えて維新後の旧武士たちへの救済、
各戦役時の傷病兵慰問など多岐にわたった。

その極は晩年、全資産を投じて理想の「農牧村落を興す」、北海道開拓事業へ
の転身であった。
やがて目指す自作農創設のため、彼は徳富蘆花を通してトルストイ主義に近づき、
「平等均一の風」実現の農地解放へと向かう。
しかし家族との対立などによりそれを果たせず、死を選んで波乱の生涯を閉じた。

 

寛斎を陸別の地まで訪ねた蘆花は、その著『みみずのたはこと』(岩波文庫版)
に関寛斎の一章を設け、その人柄を偲んだ。
司馬遼太郎は大著『胡蝶の夢』(新潮社)で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」
と評している。
彼が拓いた陸別町では、関神社を祀るなど町の開祖として顕彰されている。

 

関寛斎資料館

足寄郡陸別町字陸別原野基線69

開館日  毎週火曜~日曜日及び祝祭日  9時30分~1630

利用料金 300

 



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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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