武田信広(たけだ のぶひろ)
室町時代の武田氏の一族。
若狭国の守護大名であった武田信賢の子。
享徳3年(1454年)8月28日生駒政季を奉じて南部大畑より
蝦夷地に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁(かきざき)に
身を寄せた。
その後蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。
このとき、蠣崎信広と改めている。
1457年にはアイヌ民族による日本武士の館への
一斉襲撃があり、日本武士団とアイヌ民族の間でコシャマインの戦い
が開戦した。
開戦当初は、奇襲攻撃をくらった日本の武士たちが追い詰められて
いたが、蠣崎季繁のもとにいた武田信広が日本武士たちをまとめ
あげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとう
アイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。
この功績により武田信広の蝦夷地における地位は決定的となった。
1462年には勝山館を築城している。
1475年に、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に
置いたとされるが、勢力から考えても実効支配していたとはいえず、
半ば放置されていたといわれる。
1494年6月23日に64歳で死去。
子孫も着実に蝦夷地の平定を進めていき、のち松前氏と改姓して
江戸時代には蝦夷地を支配するに至っている。
『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から
翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌとの間
に大きな戦争が起きました。
この戦いの発端は、箱館(函館)近くで、
和人の鍛冶屋がアイヌの人を刺殺したことがきっかけとなっています。
しかし、その背景を考えるとアイヌの人たちが居住する平和な島に、
侵入定着した和人が増加し、経済的優位を誇って館を構え、武力を
持ち横暴を強めることに対して、アイヌの反発が蜂起の原因である
と推測されます。
この当時道南地方には12の館(たて)がありましたが、
東部の大族長コシャマインを中心とするアイヌの人たちが団結し、
これらの館を攻撃しました。
各館は次々と落とされ、茂別館(上磯町茂辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)
のみが残り、和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。
このとき、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を
率いて進撃し、上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。
これによりアイヌは敗れ、松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。
『続日本紀』の養老四年(720年)の
「渡島津軽津(わたりしまつがるつ)」の記述があります。
渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口である
松前付近の地です。
(津軽津は、津軽地方であるという説と松前地方とする説とが
あって、現在では松前地方であるとする説が有力です。)
松前の様子が歴史上初めて現れるのは、14世紀の
『諏訪大明神画詞』のなかの「万堂宇満伊犬(まとうまいぬ)」という地名です。
同書によると東北の大海の中央に蝦夷島があり、
日の本(ひのもと)・唐子(からこ)・渡党(わたりとう)の三類が居住していたと言われています。
松前町内の地名は、アイヌ語を漢字で表したものが多く、
「松前」という語源もアイヌ語にあると考えられています。
「婦人の居るところ」つまり、アイヌの住む地に和人の女性も住むという珍しさを表したものだと思われます。
アイヌ文化 15
国連宣言を踏まえて、平成20(2008)年6月
国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が
全会一致で採択され、この決議を受け、
内閣官房長官は、アイヌの人々が「先住民族であるとの認識の下に」
アイヌ政策に取り組む旨の政府見解を表明しました。
同年7月、政府は「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置しました。
こうした社会の動きとともに、アイヌの人たちやアイヌ文化に対する一般
社会の関心がより一層高まっています。
しかし、アイヌの人たちにとって、差別の解消や生活の安定など、解決されていない課題が
まだ残されており、このような状態を改めるためにも、これまでのアイヌ政策が更に推進され
るとともに、新たな総合的施策の確立が望まれるところです。
アイヌ文化 14
先住民族は、その土地に古くから原住していながら、今日の国家、
社会の中で支配・圧迫を受け不利な立場におかれているという境遇
において共通性を有しています。
近代・現代における世界の激しい動きを振り返るならば、どんな
地域のどんな民族も旧来の主要な生業や生活、それらを基礎とし
た「伝統的」文化になんの変容もないということはありえないと言え
るでしょう。
しかし、ある民族が自ら志向し選択したのではない変わり方を他から
一方的に強いられ、その状態が長い間是正されなかったために、
おおきな喪失感や不信感、否定的影響などが幾世代にもわたって
継続するという減少は、残念ながら世界各地で見受けられることです。
アイヌの人たちの場合も、民族としての集団的な権利が保証されず自主的で
多様な発展の可能性が制限された状態が長く続いてきました。
国連では、世界の先住民族が失った権利をどのようにして回復するかについて、
長年、検討が進められてきました。
そして、平成19(2007)年9月、国連総会において「先住民族の権利に
関する国際連合宣言」が採択されました。
この宣言には民族の自決権や土地・資源の権利、知的財産権など、
各国が達成すべき基準が明記されています。