文禄2(1593)年、
蠣崎慶広 (武田信広から5代目)は名護屋で豊臣秀吉
慶長4(1599)年に大阪で徳川家康に会いました。
この時姓を蠣崎から松前に改めます。
その後、慶長9(1604)年には家康から黒印状が与えられ、
蝦夷地における交易の独占を認められました。
幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄に米を用いる
ことができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの
交易権を地域を限って分与しました。
これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びました。
知行主 (商場を給された藩士)は、年に1度みずからの商場へ船を出し
その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し
その収益でくらしをたてました。
康正2(1456)年、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって
志苔 (現在の函館)の鍛冶屋と口論となり
鍛冶屋がその小刀で若者を刺し殺したことをきっかけに
翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。
和人の増加に伴い、そのうちの有力者は領主化し、その拠点は舘と呼ばれ
渡島半島南端部には12の舘が点在していました。
コシャマイン親子はこれらの舘を次々に破り、2つの舘を残すだけになりました。
残った舘の一つ花沢舘 (舘主 蠣崎季繁・かきざき)の客将であった武田信広は
だまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅の危機を脱しました。
この功績で武田信広は蠣崎家を継ぎ、後の松前家の祖になります。
しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的に行われました。
これらの戦いのいくつかは蠣崎家氏がその統率者をだまし討つことによって終わらせたものもあります。
長期に及ぶ戦いの起因は
アイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和にあったと考えられています。
蠣崎氏は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船からの徴税権を確保
していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。
天文19(1550)年
「夷荻の商舶往還の法度」を定め、アイヌの人たちの懐柔と妥協をはかりました。
これによって、アイヌの人たちの長2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内に住まわせ、
両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の
一部をそれぞれの長に分配しました。
また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして
一礼し、往来するようになりました。
アイヌ文化の成立は12~13世紀ころといわれていますが、
私たちがアイヌの人たちを史料のうえで確認できるのはおおよそ
15世紀ころからです。
そのころ、アイヌの人たちは漁狩猟や植物採取を主な生業にしてくらし、
また他地域の人たちと交易を行っていました。
和人(注)がこの島に住み始めた時期は定かではありませんが、
15世紀ころにはその居住地は東は鵡川、西は余市まで広がり、現在の函館付近
には若狭 (福井県南西部)から商船が来航し、問屋や鍛冶屋も設けられていました。
蝦夷地 (北海道)からは蝦夷三品と呼ばれていた昆布、干サケ、ニシンや
北蝦夷地 (樺太、現サハリン)を経由した中国産品などが移出され、本州からは鉄製品、
漆器、酒などがもたらされました。
アイヌの人たちは本州へ移出される品物の直接、間接の生産者であり、交易者でした。
和人:明治以前においては、本州から渡来してきた人たちをいい、現在は、日本のなかで
一番人数の多い人たちを、アイヌの人たちと並べて呼ぶときの呼び名です。
三石(みついし)の由来はアイヌ語ピットウシからで、小石の多い土地
という意味。
この小石の浜が最高品質の昆布を生み出す元になっている。
小石の隙間が良いほど通気があって旨み成分が昆布に凝縮されるの
だという。
しかも干して2、3時間が勝負だそうだ。
長いのも特徴で天気がよければ海中の昆布は1日30センチも成長する。
この昆布に正式和名(学名)「ミツイシコンブ」をつけたのがクラーク博士の教え子、宮部金吾だった。
明治35年のことである。
大正7年札幌市の貯木場と製材所を今の中島公園に造成して開道50周年博覧会が開かれたが、
このとき見事北海道長官賞をとり、宮内庁ご用達の栄誉を勝ち取る。
以来、最高峰の昆布の座を守り続けている。
昆布は蝦夷から出荷する中国向け海産物、干あわび干なまこともに貴重な輸出品だった。
初めは松前周辺が昆布漁場だったが、枯渇してしまう。
そこで商人たちが目を向けたのが日高の良質な昆布であった。
日高海岸は砂浜が多く、岩礁が少なかったので山の岩を削り、海へ沈めるという大変な苦労をしたのだった。
赤心社
津田仙は成田空港近くの佐倉の藩士で、蘭学を学んでいた。
明治維新前にはすでにチョンマゲを切っていたという改革派で、三度
の海外留学をしている。
特に近代農業に興味を持ち、学農社農学校(現青山学院)を創立し、
更に農学雑誌を出版し近代農業を普及した。
山梨のワインも津田の指導によるものだが、仙のこころざしを持ち
連絡を取りながら組織されたのが赤心社だった。
社長は神戸で缶詰工場を経営していた鈴木清。
明治14年春出発した広島、兵庫から募集した第1回目の移民54戸は、
途中船や気候の悪条件に阻まれ到着が大幅に遅れた。
8月鈴木が視察に来たときには悲惨な状況であったという。
そこへ津田仙がかけつけ、一時開拓使の嘱託をしていたこともあって、
農業指導者の派遣や牛を導入させ回復をしたのだという。
静内から浦河方面へと向かうと手前に荻伏(おぎふし)という
小さな町がある。
旧名は元浦川(河ではない)。
役場に隣接して赤心社記念館なる木造建築物がある。
北海道の開拓の始まりは勿論先住民によるが、和人が住んでいたの
は海岸線だけ。
内陸の田畑や道路開墾は明治になってからだった。
その担い手は士族救済とロシア南下阻止を目的とした屯田兵と株式会社方式で
開拓移民を募った開拓結社だった。
浦川の赤心社は開拓移民の北海道一番乗りで、理想に燃えた人々であった。
それもそのはず、当時北海道をアメリカへメイフラワー号で移民したピューリタンに見立て
西洋式農業開拓となえたのが津田仙で、わずか7才でアメリカへ留学し津田塾の創立者と
なった津田梅子の父である。
藩は脱藩禁止令を出し、渡島の国縫を守備させる。
アイヌ軍、初めは得意の毒矢で松前軍を悩ませていたが、
幕府は島原の乱以来の大騒動と津軽、南部、秋田藩に出兵を命令する。
8月幕府軍が到着するとシャクシャイン軍、鉄砲の威力に歯が立た
ず敗走した。
総勢628人に達する幕府軍は3方向に分け、奥地へ逃げる敗走軍を追う。
ゲリラ戦を恐れた幕府軍は新冠でシャクシャインへ講和を持ちかけた。
出てきたところをだまし討ちにあわせる。
和人のいつもの戦法だった。
かくしてシャクシャインの望んだ民族統一、和人横暴への怒りはここに崩壊してしまう。
その後、多少の抵抗はあっても総てのアイヌグループは松前藩へ従属を約束してしまう。
これもアイヌの生活がもはや和人との交易無くしてはやっていけなくなってしまったからだ。
1669年4月将軍家綱の頃、勢力がすっかり衰えたオニビシ側は使者を松前藩へ
送り武器の調達を頼む、アイヌ間の抗争へ深入りしたくない松前藩はあっさりと断る。
使者はその帰り道八雲町あたりで天然痘にかかり病死してしまう。
この期を逃がさじとシャクシャインは松前藩による毒殺だとし、われわれの自由を
勝ち取ろうと蝦夷全域へ檄(げき)を飛ばした。
6月には幌別(現登別)から白糠までの間で11艘、歌棄(ウタスツ)から祝津(小樽)と
増毛で8艘の船が襲撃され、273人の和人が殺された。
かつて無い大蜂起である。
勢いに乗じてシャクシャインは大群を松前へ進める。驚いた和人の大勢は津軽へ逃げる。
松前藩は砂金堀場を守るために
オニビシに上流側の狩猟権を与えて対抗させていた。
シャクシャイン側は河口の高台にチャシ(砦)を建て監視し、
オニビシも出城を建てて対抗した。
こんなにらみ合いが1669年将軍家光の頃から続いていた。
ことの発端は両勢力の酒宴でオニビシ配下の者がシャクシャイン側に殺されてしまう。
以来6年間戦いを続けるが、ある日オニビシ軍の急襲でシャクシャイン側の
首領カモクタインが戦死。
難を逃れたシャクシャインとオニビシはそろって福山(松前)まで行き和解をする。
だが平和は続かず1662年再び戦いを開始する。
そこへ藩命を受けて調停に乗り出した砂金堀元締め文四郎の館で
オニビシはシャクシャインに討ち取られてしまう。