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札幌市 厚別

129,528人(人口、2009年9月30日)

 

厚別区の語源はアイヌ語の「ハシ・ペッ(カンボクの中を流れる川)」とも、
「アッ・ペッ(オヒョウダモのある川、または魚のとれる豊かな川)」ともいわれています。

この「厚別」という字が正式に使われたのは、明治27年に開設された、現在のJR厚別駅の駅名でした。

 

厚別区は、札幌市では、面積が一番小さな区。
とはいっても、東京都の多摩市や千葉県の習志野市など、厚別区より小さい面積の市町村は、全国にたくさんあります。

 

厚別地区の本格的な開拓は、明治15年(1882年)に、この地を経由して、札幌と幌内炭鉱(三笠市)の間に鉄道が開通したことから始まりました
 現在の厚別中央から厚別西にかけての、JR厚別駅周辺には、明治16年に河西由造たち8戸が入植しました。この人たちは、長野県出身で、当時長野県のあたりを「信州信濃」と呼んでいたことから、この入植地も、
通称「信州開墾地」とか「信濃開拓地」と呼ばれるようになりました。

現在も、小・中学校や神社・公園などに、この名が残っています。


 明治18年になって、現在の青葉町ともみじ台を含めた下野幌地区に、
石松弥七と小ケ口石太郎が、上野幌地区には小ケ口石松、石井市郎兵衛、大崎三平、太田鉄五郎らがそれぞれ入植しました。
また、大谷地にも阿住勘五郎、駒林鉄五郎が入り、開拓のクワが入れられました。
 現在の厚別北と厚別東を含む小野幌地区は、これより少し遅れて、明治22年に秋本槌五郎が入り、炭焼きを始めました。
 山本地区は、さらに遅れ、小樽の山本久右衛門が、北海道からこの地の払い下げを受け、明治42年から開墾に着手しました。
 この後も、多くの開拓者が厚別地区に入りましたが、白石区のように、本州からの集団で、直接移住したのではありません.小樽や札幌の中心にいったん定住した後、移り住んだ人がほとんどでした。
 最初は原生林や湿地帯、川の氾濫などに悩まされ、再び厚別の地を離れて行く人も多く、人々が定着し始めたのは、明治35年ころのことでした。
厚別区も緑に恵まれ、野幌森林公園を中心に、多くの動植物を目にすることができます。

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札幌市 手稲区

139,293人(人口、2009年9月30日)

 

手稲区1989年に西区から分区して誕生した。

手稲という地名はアイヌ語の「テイネィ/teyne-i」(濡れている・もの)
に由来し、3ef984f5.jpeg区市街地の広がる山麓の開拓される前にあった低湿地帯
を指すといわれる。

 

1872年 発寒村から分離、手稲村が開村する。


手稲は、明治の初期に北海道の開拓を支える交通の要所として開けた街。

開拓当時、主に小樽港を基点に物資の補給が行われていたので、軽川
(現在の手稲本町)や
サンタロペツ(現在の富丘)が、小樽港から開拓使本府
の置かれた札幌への陸上輸送の中継点
となりました。
物資の集散地区となった軽川やサンタロペツには人々が集まり始め、集落が

形成されるようになりました。

明治の中ころになると手稲山口に山口県から、星置には広島県からそれぞれ入植者があり、

農耕地の開墾を始めました。また、不毛の地であった前田や新発寒は、酪農を主とした農場

へとその姿を変えていきました。
明治の終わりには、新川の川辺などで土器のかけらが発見され、昭和に入ってからも完全な

形の土器が見つかり本格的な発掘調査が行われました。

その結果、紀元前2000年もの昔に先住民族が生活していたことがわかり、この遺跡は

「手稲遺跡」と名付けられました。
 明治の中ころには手稲山で金鉱脈が発見され、昭和10年代には鉱山が最盛期を迎えました。


東洋一の選鉱場をもち、にぎわいをみせていた鉱山も、戦後次第に衰退し、
昭和46年に閉山しました。
 昭和42年、手稲町は札幌市と合併。
以後、新興住宅地が次々とでき、発展のスピードも急ピッチとなりました。
昭和47年に札幌市の政令指定都市移行に伴い(旧)西区となり、また、
札幌冬季オリンピックが開催され、アルペン競技やボブスレー、リュージュ競技の会場となった手稲山は世界にその名を知られるようになりました。
平成元年11月6日、人口の著しい増加に伴ってそれまでの西区から分区し、いまの手稲区が誕生しました。
 手稲区は、手稲町時代からの市街地と昭和40年代以降開発された新しい地域で構成され、分区から10年で30%以上も人口が増えています。



「百年企業」道内に455

 

創業100年を超える道内の老舗企業は455社。東京商工リサーチ。

道内企業95,691社に占める割合0.47%で、全国平均(0.97%)の半分程度。

 

最古は1851年(嘉永4)に新潟県で創業し1904年(明治37年)に
小樽市に移った菓子製造業「花月堂」だった。

 

「百年企業」を地域別に見ると、石狩管内が111社と最も多い。
港湾都市として栄えた小樽、函館をそれぞれ抱える後志管内が85社、
渡島管内が60社で続いた。
業種別では卸・小売業が240社と過半数。

花月堂についで古いは、1858(安政5)年に江戸の大工だった滝本金蔵が創業した
「第一滝本館」(登別)。

3位は秋田出身の佐々木吉兵衛が1860(万延元)年に箱館(函館)で開業した
「千秋庵総本家」(函館市)だった。




定山渓鉄道

 

定山渓鉄道(じょうざんけいてつどう)は、
かつて白石区の東札幌駅(開業当初は白石駅)からtoyohirab.jpg
南区の定山渓を結んでいた定山渓鐡道株式会社の
鉄道路線である。

会社は1932年から札幌からのバス運行も始めた。

定山渓鐡道の全盛期は戦後復興とともに訪れた。
まず、定山渓温泉が繁栄を取り戻した。

1949年から1963年まで、定山渓鐡道は、
夜間発の往復と、ビール券、とうきび、枝豆、温泉利用をセットにした月見電車を走らせた。

会社が整備した豊平川沿いのハイキングコースは、多くの市民に利用された。

1944年に事故で閉山した豊羽鉱山が1950年に再開し、定山渓鐡道がその鉱石の輸送を
引き受けた。

1957年に、東京急行電鉄が定山渓鐡道の株を買収し、傘下におさめた。

しかし、この頃から鉄道は貨物をトラック輸送に奪われ始めた。
特に1963年からは豊羽鉱山の鉱石輸送がトラックに切り替えられた。
また、1966年に北海道警察本部から豊平駅近くの国道36号線上の踏切が
交通上の障害になっている
として高架化するか廃止して線路を撤去するなどの適切な処置を取るよう勧告された。
こうした劣勢の中で、札幌市が地下鉄南北線を建設することに伴う用地買収を申し出た。
会社はこれに応じて、1969年に鉄道部門を廃止した。

廃止後は電車路線に沿う形で代行バスが運行されていたが、
既存のバス系統と再編・統合され1970に廃止された。

 



札幌市 白石区 shiro-map.gif

 

白石の歴史は、戊辰戦争に敗れた仙台藩白石領(現在の宮城県白石市)
の藩士が、明治4年11月に望月寒(現在の中央付近)の地に開墾の鍬を
入れたことに始まります。

「白石」の名の由来は、入植者が真冬の寒さに耐えながら、半月足らず
で現在の国道12号沿いに(白石公園付近から白石神社の間)小屋47戸
を完成させた開墾ぶりに、開拓使の岩村判官が感心し、郷里の名をとっ
て「白石村」と命名したことによります。


仙台藩白石領の藩士など600余人が、明治4年9月、北海道への移住を
目指し、咸臨丸などで出帆し、そのうち67人が明治4年11月、原始林が石狩川河畔まで続く最月寒の地(現在の白石中央付近)に開墾の鍬を入れたことにはじまります。翌年の2月中旬までには、104戸380人が白石村へ移住しました。


白石村は、現在のJR白石駅から南区定山渓を結ぶ定山渓鉄道が大正7年に開業(昭和44年廃止)、東区苗穂と苫小牧市を結ぶ北海道鉄道(後の国鉄千歳線)が南郷・東札幌地区を通って大正15年に開業(昭和48年廃止)するなかで、大きな発展を遂げました。
昭和25年7月、白石村は札幌市に合併されましたが、札幌市が政令指定都市となった昭和47年4月、行政区の名として、親しみやすく地域を包括的に言い表すことなどが考慮され、「白石区」が誕生しました。
その後、地下鉄東西線の開通や厚別副都心計画の進展などにより、著しい人口増加が続いたため、平成元年11月に厚別川を基本線に分区し、西側が現在の白石区となっています。



札幌市 豊平区 2

交通網の発達

大正時代に入ると、豊平町にもいくつかの交通機関が登場してきました。
大正2年(1913年)には、月寒から札幌の中心部まで客馬車が走りました。

大正7年(1918年)には、豊平、平岸を通って定山渓に至る定山渓鉄道が開通。

さらに、大正13年(1924年)には、路面電車が豊平川を越えて、豊平地区まで延びたのです。

また、同じころ、月寒まで乗合バスも営業を始めました。
昭和に入って間もなく、2年(1927年)には、路面電車を札幌市が買収し、市電となります。

バスや電車が行き交い、定山渓鉄道も交差していた室蘭街道(現在の国道36号)は、商店も建ち並び、まさに交通の要衝と呼ぶにふさわしいにぎわいを見せていたのです。

 

農業の盛衰

明治時代から始まった平岸地区のリンゴ栽培。

この「平岸リンゴ」の名は、全国的に有名になったばかりでなく、明治中期から後期にかけては旧ソ連のウラジオストックに、また、昭和11年(1936年)には試験的ながらシンガポールに輸出されるほどに栄えたのです。しかし、このリンゴ栽培も、宅地化の波にのまれ、次第に姿を消していくことになります。

札幌市との合併とその後の発展

徐々に都市化が進行していった昭和36年(1961年)、豊平町は、郷土のさらなる発展のため、札幌市と合併しました。
人口も増加の一途をたどり、交通体系にも変化の兆しが現れます。

自家用車の普及などの影響で、昭和44年(1969年)には定山渓鉄道が、また同46年(1971年)には市電豊平線が、それぞれ廃止され、代わって、同年、地下鉄南北線が開通したのです

さらにその翌年の2月、冬季オリンピック大会が開催され、同年4月には札幌市が政令指定都市となり、区制の施行に伴って、豊平区が誕生しました。

昭和49年(1974年)には、現在の豊平区役所庁舎が完成。環状通の区役所付近から国道36号にかけての中央分離帯にはリンゴの木が植樹され、リンゴ並木として整備されました。

 

平成6年(1994年)には、地下鉄東豊線が福住まで延長され、平成8年(1996年)には人口も30万人を突破。翌9年(1997年)には、清田区が豊平区から分区しました。
そして、平成13年(2001年)に札幌ドームが羊ケ丘に誕生。豊平区のシンボルとなるドームでは、各種のスポーツ・文化のイベントが開催され、また平成16年(2004年)には北海道日本ハムファイターズの本拠地となり、多くの人たちがこの施設を訪れています。

 



札幌市 豊平区 1

209,656人(人口、2009年9月30日)

 

豊平の名は、「崩れた崖」を意味するアイヌ語のトイエピラに由来する。4b9b8f50.gif

今の豊平橋付近を指す地名である。

 

豊平区の街並みをその歴史や位置から分類すると豊平・平岸・月寒
三地域に大別されます。

豊平地域は、明治時代からの歴史を感じさせる寺社と再開発事業による
近代的なホテルや住宅のビルが新旧の味わいを見せています。

 

平岸地域はかつて平岸リンゴの産地として名をはせましたが、現在は都心
に直結する住宅地に変貌しています。


月寒地域は、落ちついた住宅街ですが、北海道日本ハムファイターズの本拠地である札幌ド-ムも、この地域内の羊ケ丘にあります。

 

札幌開祖 志村鐵一(しむら てついち)

安政4年(1857年)、当時の幕府の命により、銭箱(現在の小樽市銭函)から千歳・勇払に至る札幌越新道が開削されました。これに伴って、現在の豊平3条1丁目付近で、通行屋(旅行者の休憩・宿泊施設)の建設が始まりました。
札幌市内最初の和人居住者の一人といわれ、「札幌開祖」とも呼ばれた志村鐵一は、この時代に豊平の地に定住し、通行屋の番人も務めました。

 

本州からの開拓移民

f6b3f261.jpeg    明治4年(1871年)には、現在の岩手県出身の人々が平岸・月寒などに
    移住して、開拓が始まりました。

    その後、明治5年(1872年)には平岸村と月寒村が、そして、明治7年
    (1874年)には豊平村が誕生。

    また、明治8年(1875年)には、技師ホルトの設計による初代の豊平橋
    が完成しています。

 

村の発展

これら三つの村は、それぞれが異なった形で発展していきました。
平岸村は、豊平川上流域までを含み、後に「平岸リンゴ」として有名になるリンゴの栽培などで
栄えていきました。

月寒村は、当初は現在の北広島市方面までを範囲としており、農業を中心とした街でしたが、
明治29年(1896年)に当時の陸軍第七師団の兵営が設置され、後に歩兵第二十五連隊として、
長くこの地に置かれたことにより、軍都としての性格を併せ持つことになりました。

さらに、豊平村は、室蘭街道(現在の国道36号)から当時の札幌区に入る玄関口として、商店や
宿などが建ち並び、にぎわいを見せました。

 

アンパン道路

明治35年(1902年)、豊平・月寒・平岸の三村が合併して、新たに豊平村となりました。

そして、明治41年(1908年)には、豊平町に昇格。

さらに、同43年(1910年)、現在の豊平地区が札幌区に編入し、町役場が豊平から月寒に移転したことにより、月寒は行政の中心地として栄えたのです。
役場の移転に伴い、平岸の人たちが役場のある月寒へ直接行けるよう、新たに道路の開削が行われました。

この時、作業に従事した第二十五連隊の兵士たちにアンパンが配られたため、明治44年(1911年)に完成したこの道路は、アンパン道路と呼ばれるようになりました。


札幌市 東区

252,986人(人口、2009930日)

東区(ひがしく)は、
1955年に札幌市に合併した札幌村の区域を引き継いで、1972年に設けられた。

札幌市の区では、北区に次ぎ2番目に人口が多い。

 

 

江戸時代、もともと伏籠川(伏古川)上流付近(現在の苗穂町付近に相当する地域)には松前藩の
知行地として石狩十三場所のひとつナイホウ場所が開かれ蝦夷の人々との交易が行われていた。

 

 

札幌村の開村は幕末に遡り、明治に建設された札幌市より古い。

1866年(慶応2年)箱館奉行の命を受けた大友亀太郎ら数十人が

現在の北十三条東十六丁目付近に入ったのが始まりである。

後にこの場所は石狩国札幌郡に属し札幌元村とよばれた。

1870年(明治3年) 羽前国、越後国から入植があり、札幌村の近く

に居住した柏崎県からの入植者の区域を札幌新村といった。

別に、酒田県(山形県)から入植した人々による苗穂村、丘珠村ができた。

これらが合併して生まれたのが札幌村で、札幌市の北東郊外にある農村

として発展した。

札幌市の拡大につれて南西部から市街化され、1955年(昭和30年)に札幌市に合併した。

1972年(昭和47年)に札幌市が政令指定都市になったときの分区で、かつての札幌村の
区域を引き継ぐ形で東区が置かれた。



札幌市 西区

210,275人(人口、2009年9月30日)e61ce035.gif

 

西区(にしく)は、札幌市の10区の中では2番目に大きい面積。

左股川、琴似発寒川を境にした東側一帯の旧琴似町地域と
西側一帯(発寒地区は旧琴似町に含む)の旧手稲町地域と
からなっています。

これらの地域には、和人の入地以前からアイヌ民族が生活を営み独自の
文化を築いていました。

旧琴似町地域の中で、和人の居住が入地記録上早くから見受けられるの
発寒地区です。


安政4年に幕府旗本の武士20名とその従者が辺境の警備と開墾のために入地しましたが、
一村を形成するには至りませんでした。

その後、明治4年に開拓使が現在の南4条通以南に近在の移住者を集めて作った辛未(しんび)村
から44戸が同年、八軒、二十四軒地区などに移住し開拓に従事しました。

しかし、本格的な開拓は屯田兵によるところが大きく、明治7年の屯田兵例則の制定が開拓に大きな
影響を与えています。
明治8年には仙台亘理(わたり)藩(宮城県)、斗南(となみ)藩(青森県の南部地方)、庄内藩(山形県)
の士族たちが琴似地区(現在の琴似本通沿い)に、翌9年には発寒地区(現在の稲荷線沿い)に
それぞれ入植し屯田兵村を形成しました。

一方、旧手稲町地域の開拓は、明治4年西野地区に越後から5戸が入植したのが始まりとされていま
すが、本格的なものは明治5年仙台藩(宮城県)白石城主片倉小十郎の家臣たちが宮の沢地区に
47戸入植
したのが最初です。
その後、明治20年までに西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。

昭和30年になり琴似町が、42年には手稲町がそれぞれ札幌市と合併。

その後の人口増加に伴い農地は次第に住宅地と化し、街は大きく様変わりしました。

昭和51年には地下鉄東西線が開通したことにより-層の人口流入が続き、
平成元年11月6日、西区を分区して手稲区と新しい西区が誕生しました。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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