五番館デパート(札幌)
明治39年、札幌興農園が札幌で初めての
百貨店を開業、電話番号が5番だったので
「五番館」という名前が付けられました。
札幌駅前に建つ赤レンガの洋館は横浜の西洋館を模したもので
明治時代の駅前
「三越は見る店、丸井遊ぶ店、五番館は買う店」というもので
それぞれのデパートの特徴を楽しく表しています。
五番館の創業者は、五番館興農園を開いた
小川二郎ですが、小川二郎から店舗の譲渡をうけ
その経営に携わつたのが小田良治 (おだりょうじ)
です。
小田良治は、1872年(明治5年)8月8日、大分県
速見郡日出町で生まれました。
小田良治は、1890年(明治23年)単身アメリカに渡り
サンフランシスコ商業高校を卒業しています。
1897年(明治30年)帰国して三井物産に勤務し札幌駐在員となり、
札幌所長時代に五番館興農園を譲受け五番館発展の基盤を作りました。
彼は、1943年(昭和18年)2月に享年72才で死去。
彼の生涯は、アメリカで学んだ資本主義を経営の面で実践し、札幌の商業界に
新風を巻き込み経済の発展を推し進めた功績は大きなものがありました。
沼田町
沼田町(ぬまたちょう)は、空知支庁管内北部にある町。
1894年(明治27年)
富山県出身の沼田喜三郎が郷里から18戸の移住を図る。
ここに沼田町の開拓がはじまる。
町名の由来は町開拓の功労者沼田喜三郎の姓による。
恵比島駅(えびしまえき)は、沼田町にあるJR北海道留萌本線の駅。
駅付近は、NHK朝の連続テレビ小説「すずらん」のロケ地となった。
この駅が使用されたため、撮影用の多数のセットが組まれている。
本来の駅舎は車掌車改造駅舎であるが、板で覆われてしまい倉庫の
ような佇まいになっており、隣に立派な木造駅舎「明日萌」駅が作られている
(旧駅舎の土台をそのまま利用)。
ホーム側の窓際に、振り向きかけた姿の等身大人形が設置されている。
旧黒瀬旅館(「すずらん」ロケの際「中村旅館」として登場。見学可)
周辺は農村地帯。1930年から1971年まで、留萌鉄道が北へ分岐していた。
上砂川町
母町である砂川は、アイヌ語で「オタウシナイ」で
「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川という意味から
砂川と命名。
砂川の上流にあることから「上砂川」。
上砂川町(かみすながわちょう)は、空知支庁管内にある町。
上砂川炭田があり、かつて産炭地として他の空知炭田群とともに
日本の資本主義経済を支えた。
明治20年に上砂川炭田が発見され、その後、
明治32年に福井県鶉村から来た開拓者・山内甚之助氏他8名によって
この地に鍬が入れられたのが発祥。
大正3年には石炭社である三井鉱山株式会社が起業し、以来炭鉱の町として発展し
昭和24年には当時の砂川町、歌志内町の一部を分割して「上砂川町」が誕生しました。
その後、出炭量も増加し、昭和27年には最大人口の32,103人を数えましたが、
エネルギー革命の急速な進行により昭和62年7月に閉山となり、73年の炭鉱の歴史
に幕を閉じた。
上砂川駅は映画やテレビドラマのロケ地となり、有名な作品の舞台として、
時には重要なシーンの撮影場所に選ばれました。
駅舎は、平成6年に上砂川線が廃止になった後に現在の場所に移設されたが、
上砂川町の舞台となった架空の町「悲別」の多くが上砂川町で撮影され、
その駅(悲別駅)として上砂川駅が使われたことから、時刻表や改札などをそのまま残し
ロケ当時の写真などを展示している。
簾舞(みすまい)通行屋
簾舞川(みすまいかわ)は、
札幌市南区を流れる豊平川支流の河川。
川の名は、アイヌ語で「峡谷があるところ」を意味する
「ニセイ・オマプ」。
これが訛って「ミソマップ」になり、現在の「みすまい」になった。
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)は、
明治5年に建築された公営の宿泊施設。
本願寺道路の宿泊施設として現在の簾舞中学校あたりに建設された。
札幌本道の開通により明治17年に廃止された。
黒岩家は明治19年の有珠街道の開通後、物資の運搬に関わり
旅館業を続け、地域の開発に尽力した。
更に開拓使時代初期の家屋構造を今に伝える貴重な建物。
明治43年、湧別村から分村し始まった
上湧別町の歴史が4日閉じられました。
5日からは新「湧別町」として新しい歴史の扉が開かれます。
2009年10月5日
網走管内上湧別町と湧別町は合併して新「湧別町」として再スタート。
道内で成立した唯一の自治体合併。
これで道内の市町村数は179となる。
人口は9月末現在、10,272人。
上湧別町長の原田雅美が町長選に立候補。
町議の定数は合併後4人減の16人。
道内では旧合併特例法の期限が迫った06年2月から3月末にかけ、駆け込みが
相次ぎ計12件の合併が成立した。
しかし、特例債など手厚い補助があった旧法に比べ、都道府県主導に重点が
移った新法下では合併協議会が相次いで破談した。
妹背牛町
妹背牛町(もせうしちょう)は、空知支庁管内北部にある町。
町名の由来はアイヌ語の「モセウシ」で、「モセ・ウシ・イ」
(イラクサ・繁茂している・処)
(カヤ刈りをする・のが習いである・もの<場所>)が転訛し
たものとされている。
当初は「望畝有志」と表記されたが、1898年に現行の表記
「妹背牛」に変更された。
明治26年に開拓の鍬が入れられた妹背牛町は、
平成4年に開基100年を迎えています。
バレーボール
妹背牛商業高校女子バレーボール部が1978年に全国制覇するなど
道内有数の強豪校として知られ、バレーボールを町技として力を入れ
ていたが、2008年度末をもって廃校にする計画が発表された。
高校の存続に向けた活動も行われ町では一時、町立での存続も含め
て検討したが、生徒増が見込めないことと財政難により断念した。
元五輪吉原知子選手(バレーボール全日本代表キャップテン)の出身校。
幌加内町
町名の由来は町の南部を流れる幌加内川による。
幌加内川はアイヌ語の horka-nay ホロカナイ
[母川の向きとは逆方向気味に流れる・川(河谷)]の意とされる。
日本最大の人造湖朱鞠内湖
16年の歳月をかけて、1943年(昭和18年)に完成した
雨竜第一ダムによって堰き止められたダム湖・朱鞠内湖は、
常時満水位までの面積が2,373haで
人造湖としては日本一の広さを誇ります。 人造湖とは思えないほど、周囲を緑の自然につつまれ、
自然と豊かに 調和した美しい景観で、春の満水期
夏の渇水期、冬の凍てつく湖面と
季節が移りゆくたびにその景観は一変します。
春の満水期には、少しづつ緑濃くなっていく自然を湖面
に映し出し、夏の渇水期には、湖底に沈んでいた木の
切り株などが姿を見せ神秘的な景観を浮かび上がらせます。
また、冬になると、厳しい寒さの中で湖面が凍り付き、白銀一色の世界に変化し四季折々に
その景観を変えていきます。
日本最寒記録-41.2度
しかし、その76年後、1978年(昭和53年)に幌加内町母子里でこれより
0.2度低い-41.2度を記録しました。
気象庁の公式記録の対象からはずれていたため、旭川の記録が公式記録になっていますが、
実質的には、幌加内町母子里の-41.2度が誰もが認める日本一の最低気温です。
新十津川開拓史 3
(新十津川町HPより)
文武両道を尊ぶ十津川の人々。
子供たちの教育には熱心であった。
開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、明治24年3月に、
徳富川を挟むで南北に1校ずつ小学校を建てた。
その後通学の不便解消に学校数も増えていった。
また、明治28年、母村にならい高等教育の場として
私立文武館を建てた。
この、教育に対する熱意は、今日に至る新十津川の伝統と
なっている。
水田が広がりはじめる・・・
明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、
水稲の作付けも本格化する。
夜盗虫の大発生、石狩川の氾濫などの災害に見舞われながらも、
着実に農業基盤を固めていった。
明治35年の二級町村制施行、40年の一級町村制施行へと。
きわめて短期間での一級町村昇格は新十津川の急速な発展を示すものであり、
入植者たちの不屈の取り組みの賜物であったといえる。
一大米作地帯へ発展し・・・
大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内
で屈指の自治体へと成長していく。
水田の開墾に加えて「玉置坊主」という冷害に強い水稲品種を開発、これによって道内
でも第一級の米作地帯となった。
石狩川の洪水に備えた治水事業もこの時期に取り組まれている。
そして現在へ・・・
冷害と凶作、そして戦争という厳しい時代を村民たちはよく助け合い乗り越えていった。
戦争終結と共に息を吹き返した新十津川は、昭和32年1月、ついに念願の町制施行を
実現する。しかし、昭和30年の1万6199人をピークに人口は減少傾向をたどり、
他の多くの農山村と同じく過疎という新たな課題を抱えていく。様々な時代の変化に揺れ
ながらも、新十津川は未来に向かって着実に歩み続ける。
新十津川開拓史 2
(新十津川町HPより)
新たな生活地を求めて
600戸・2489人が北海道への移住を決断。
「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に
秘め旅立つことになった。
10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。
このころ約1200キロ離れた北海道では、屯田兵制度に続いて
明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろう
としていた。
特に樺太経営とロシア南下への防備対策から、石狩平野開拓は
緊急課題であった。
初めての北海道の冬を・・・
小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。
病人や老人、子供は囚人に背負われた。
空知太の屯田兵屋は建設中でまだ150戸しかなく、1戸に移民4戸が入った。
そんな中でも、トック原野への入植準備が進められ、新しい村の名前も決められていった。
また、一致団結して開拓を成功させようと「移民誓約書」が起草された。
雪解けを待って石狩川を渡る・・・
遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、植民区画の第1号としトック原野に入植した。
明治23年6月のことであった。
水害被害から10カ月、政府の保護を受けた十津川移民は、現在につながる最初の一歩を
こうして入れることとなった。
大木が生い茂る未開の大地、厳しい自然が移住者の前に立ちふさがる。
困難を極めた開墾・・・
うっそう茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。
十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた
土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。
蚊やブヨなどの悩まされながら、入植最初の年は、ソバや大根が収穫できたくらいで、
北海道の早い冬が、訪れていた。